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 2020年5月31日 礼拝説教  【一つになって、集う】 佃雅之

創世記3章8-15 節、使徒言行録2章1-13 節



教会の暦では、今日はペンテコステです。私たちは、この日を教会の誕生日だと覚えています。ペンテコステの日、聖霊は弟子たちの上に降り、教会の歩みが始まりました。
   
私たちの生活においてもそうですが、新しい歩みを始めるためには、準備の「時」必要です。教会の歴史において、準備の「時」の中心は、「聖霊を待つ」ということです。
   
いつ、どういう出来事が起こるか、私たちには分からない、神の定めた時がある、神の計画がある。私たちはそれを知ることが許されていません。しかし、ある時点から振り返って見た時、その時が最善の時だった、必要な時であったという経験は、私たちにもあるものです。ですから、私たちは神の計画の中で、キリストの約束を信じて、その時を待つ、目を覚まして祈りつつ、忍耐して、じっと待ち続ける必要があります。そうして、キリストの言葉を信じて待つことができた時、今日のテキストの冒頭にあるように「五旬祭の日が来て」となるのです。これを原文は「五旬祭の日が満ちて」と記しています。つまり、神の計画の中で、この時しかない、そういう時です。ついに「神の時」となったこの日に、聖霊は使徒たちに降りました。
   
この時、ルカの記すところによれば、使徒たちがキリストの姿を見ることが出来なくなって、10 日間が経っていました。地上に残された者にとって、この10 日間は不安な時間であったことでしょう。キリストの約束の時がいつなのか、先行きが不透明なうえ、キリスト処刑から、それほど日数が経過していた訳ではありませんから「自分たちも捕らえられ、処刑されるのではないか」という危機感もあったでしょう。ですから、使徒たちは、この危機を乗り越えて新しい一歩を踏み出すために、かつて裏切った使徒たちも無理解だった家族も、一つの所に集まって、心を合わせて熱心に祈っていました。
   
心を一つにして「祈る群れ」の祈りは、決して空しくはなりません。祈りの内に覚えられる者は滅びません。祈りは、神に聞き届けられる時が必ず来ます。祈りの中で御心が示され、私たちができること、なすべきことが示されるからです。時が満ちるまで、祈りつつ、待ちつつ、出来ることを精一杯果たすのです。時が満ちた時、新しい一歩を踏み出すことができるように、祈りつつ備えるのです。

   
私たちでもそうですが、一人一人は弱いものです。緊急の時、まさかの時であればあるほど、一人は弱い。キリストを信じる信仰、キリストに従おうとする意志を、人は一人で守り抜くことができるのでしょうか。特に、周りからの圧力が強い時、命の危険にさらされている時の恐れや不安は、相当なものに違いありません。ですから、使徒たちは一つとなって、熱心に祈っていました。
   
しかし、ここにいる使徒たちは、キリストを拒み、キリストを捨て去った人たちです。主の愛に背き、主に従い行こうと思いながらも、その思いを貫くことのできない弱さに嘆き、この世の恐ろしさに、未だ圧倒されている人たちなのです。ですから、この使徒たちには、その冷え切った心をあたため、バラバラで勝手な思いや願いを一つとしてくださる「いと高き所からの力に覆われる」体験が必要です。再び立ち上がり、伝道する者になるためには、新しい者へと変わらなければなりません。そのために聖霊は降り、使徒たちの「古い舌」を焼き尽くし、彼らに「新しい舌」と「新しい言葉」を与えます。聖書における「炎」は、清めと新しい力の象徴です。

   
世界にある組織のほとんどは、人間によって始められました。人間の心で考えられ、人の努力によって始められ、人間の意思によって存在するようになったものです。しかし、教会は神ご自身によって始められました。ギリシャ語で教会を言い表す「エクレシア」は、教会が「世から召し出された人々によって成っている」ことを語っています。召したのは神です。そして、神は御言葉だけでなく御霊によって召されました。このことは、キリストご自身によって証されています。

ルカは、福音書4 章14 節に「イエスは、霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判は周りの地方一帯に広まった」と記しています。聖霊の力に満たされたキリストが、ガリラヤで伝道を開始したことを告げる箇所です。
   
キリストの活動の原動力、それが「聖霊」です。ルカは、聖霊がキリストを満たすだけではなく、キリストを中心として、その力が町中に、国々に広がっていったことを伝えたいのです。このキリストの生き方を、キリストの体である教会が、継いで担っています。
   
聖霊によって力を得た使徒たちは、新しい言葉で福音を語ります。「ほかの国々の言葉で話しだした」と訳されていますが、直訳は「異なる言葉で語り出した」です。つまり、御言葉が多くの人に伝えられるようになったということです。エルサレムを中心に、エルサレムを囲む世界中の人たちが、この出来事を目撃し、異なる言葉で福音を聞きました。このことは1 章8 節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語られたキリストの約束が、聖霊降臨の時、すでに実現していることを示しています。主の約束は必ず実現する。忍耐し祈りつつ、御言葉に聞きつつ、主の約束を信じていくなら、エルサレムの最初の教会で実現したことは、必ず地の果てまでも実現するのです。
   
しかし、この出来事に躓いた人たちもいたことを、ルカは伝えています。7節に「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」とあります。ガリラヤはキリストの育った場所であり、伝道を開始された場所です。ユダヤ人の間では「異邦人の地」と呼ばれ、見下げられていた場所でした。そのような地方出身の使徒たちが、神の偉大な業を語っていることに、エルサレムの人たちは皆、驚き、戸惑いました。そして「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者たちもいました。

   
教会とは、真理の存在するところです。聖書は「教会のことを真理の柱・真理の基礎」と述べています。いつの時代も、この「真理」を獲得することは容易なことではありません。今この時代も、多くの人が心の平和を求めて教会に来られます。しかし、平和に至る唯一の道が、イエス・キリストの贖いの血によることを知っている人は、ごくわずかです。また、信仰者の生活がたゆみない戦いの生活であることは、およそ理解されません。神と和解している者は、そのこと故に、誘惑者と戦わなければなりません。常に神と向き合い、神をとおして自分自身を見つめ直さなければなりません。

   
今日の旧約の箇所は、信仰者と誘惑者との長い戦いの予告だと言われます。この場面も風が吹いています。風は「神の息・霊」とも訳される言葉です。風は目には見えなくとも、はっきりと感じ取ることのできる「神の力」の象徴です。そして、この時も人間は怯えています。神が接近し、名を呼んだから怯えているのではありません。蛇にそそのかされ、神の命令に背いたから怯えているのです。しかし、神は誘惑者である蛇をさばかれ、自己の正当性を確保しようと責任を擦り付け合あう、愚かで弱い人間を寛大に扱われます。そして、15 節で「お前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く」と神は言われます。信仰者には戦いがある。信仰者は、終わりの日まで誘惑者と戦い続けなければならないということです。多くの人は、この信仰者の戦いを知りません。この戦いは厳しく長いものです。ですが、私たちは最後には必ず勝利することができます。主なる神が共にいてくださるからです。私たちが不安になる時、弱い時、誘惑者にそそのかされて誰かを傷つける時、それは私たちの側が一方的に、神が離れてしまったと思い込んでいるだけなのです。神が人から離れることは一時もありません。いつも名を呼んで、探し出してくださる方なのです。しかし、私たちは神がそういうお方であることを知りつつも、エデンの園で蛇の誘惑にそそのかされた人と少しも変わってはいないでしょう。先行きの不安と命の危機に怯え、うずくまっていた最初の使徒たちとも何ら変わらないでしょう。もちろん、キリストはそのこともご存知です。人間の力だけでは、誘惑負け、地の果てに至るまで、福音を運ぶことなどできないことを承知しておられます。それ故、聖霊を注ぎ、教会を建てられました。そして、すべての人をこの群れに加えるようにと、御言葉を語る力である炎のような舌を教会に与えくださいました。
   
聖霊によって力を得た使徒たちの語る言葉を聞いた大勢の人たちは「驚いた」とありました。今日の箇所で「驚いた」という言葉は7 節と12 節で繰り返されています。原語では、「正気を失う」という意味の言葉です。その意味と共に「変わる」あるいは「変える」という意味も持つ言葉です。福音を聞いた者は、今までとは、まったく別の人のように変えられるからです。聖霊が降って教会が生まれ、使徒たちをはじめとして、皆、変わっていくのです。私たちも変わらなければなりません。では、どのように変わることが求められているのでしょうか。今日の箇所に集中するなら、「驚いた」という言葉には、「ある場所から出る」という意味もあります。私たちは、人間の思惑や計画ではなく、神の計画、キリストの約束を信じて、今の自分から飛び出すことが求められています。自分の思いの外に出て、「神の思い」の中へと進み、「神のご計画」の中に生きるのです。聖霊の働きとは、このことへの促しではないでしょうか。キリストがそうであったように、聖霊は私たちを満たし、内側から私たちを揺さぶり、私たちを突き動かす力を与えます。私たちも聖霊にすべてを委ねることができたなら、きっと新しくなります。新しい人として、生き始めることができます。

   
聖霊降臨日主日の今日、エルサレムから見たら地の果てである「私たち信濃町教会」にも聖霊が降りました。ですから、今はそれぞれの場にあっても、私たちの心がキリストに向けられているなら、その場所は聖霊に満たされ、豊かな祝福の場となることは言うまでもありません。今は離れていても聖霊によって結び合わされた私たちの祈りと賛美は、一つとなってこの世界に響き渡っています。神が私たちを召したのは、この教会を福音伝道の完成のための「器」とするためです。教会はキリストの体です。私たち一人一人は、そのキリストの体の中で働く「細胞」です。神と私たちは一つです。キリストの体の中に「一つになって、集う」者たちなのです。そして、集められた私たち教会は、この世の奉仕者であることが求められています。

   
今、先行き不透明な、時代の転換点に置かれた私たちは、今日のペンテコステの礼拝において、突然の激しい風のような音が、私たちの耳に、心に、魂の底に響いていることに気づかなくてはなりません。キリストの復活の後、使徒たちの一団が再び集まり、一つとなって集った所に「聖霊があふれる」という出来事が起こったこの事実が、私たちにも、等しく与えられているからです。そして、この聖霊降臨の出来事は、これからも繰り返されます。私たちは、キリストの約束の聖霊に満たされて、キリストと共に聖霊に導かれて、福音を宣べ伝える群れであり続けたいと切に思います。祈りを合わせましょう。

   
聖なる神。聖霊が降り、最初の教会を建ててくださったよう に、あなたが、この信濃町教会をキリストの体なる教会として建ててくださいましたことを心より感謝いたします。どうか私たちもあなたご自身である聖霊に満たされ、キリストの証人として新しい一歩を踏み出すことができるようにしてください。今、礼拝の場となっているそれぞれの家庭に豊かな霊を注ぎあなたが召し出した者すべてを祝福してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

(2020年5月31日礼拝説教)


 
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