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 2020年5月24日 礼拝説教  【真のぶどうの木】 笠原義久

イザヤ書5章1-7節、ヨハネによる福音書15章1~11 節



ヨハネ福音書15 章は主イエスが歌う祝福と賛美の歌で、教会の伝統的な暦では、私たちが今置かれている「復活節」に読まれるべき聖書箇所の一つです。
   
さて、主イエスは、私たちが一度に食べきれないほどの豊かなぶどうの房をずっしりと手応えを感じながら手に持って、いままさに食べようとしている様を想像して語り始められます。「私は真のぶどうの木、私につながって実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶ」と。主イエスはまず私たちに、あなたがたの人生はこのぶどうのように実り豊かに生きることができると約束していてくださる。信じて生きる人生、それは自分の人生が実り多きことを確信することに他なりません。わずかな実りがあってそれを慰めとするというのではなく、たっぷりと豊かな実りに生きることができる、と。そのことを主イエスはここで歌っておられる、祝福しておられる、そしてそこに現れている神の御業、神さまのなさっておられることを賛美しておられる。そして喜んでおられるのです。
   
でも、「ちょっと待ってください」と言う小さな声が聞こえてきます。それは、旧約聖書から新約聖書にかけて「ぶどうの木」や「ぶどう畑」について歌われている数多くの箇所を読めば、そう簡単に、そう単純に「真のぶどうの木」を歌うことはできないのではないですか、という声です。
   
旧約聖書イザヤ書の5 章には、神さまが良いぶどうの木を植え良いぶどうが実るのを待っていたのに、実ったのは酸っぱいぶどうであった、とあります。パレスチナの地に住む人々にとって、ごく普通の「ぶどう」によって歌われている民の姿、人間の姿というものは、畑を耕しぶどうを育てる者の期待とはあまりにかけ離れた、偽りと背きの姿です。この時代のパレスチナに限らず、人間の歴史の中で、いつもいたるところでなお依然として続いている現実―― それは依り頼むべきではないものに依り頼み、自分を売り渡しているような人間の罪の現実です。偽りのぶどうの木、偽りのぶどう畑、そこでもたらされる偽りの、酸っぱいぶどうの実りこそが、私たち人間の現実に他なりません。正しい裁きではなく流血、正義ではなく叫喚。この人間の現実のただ中に「わたしこそ真のぶどうの木」というイエスのことばが響いてくるのです。

   
イエスは一気に歌い始めます。「真の」と言われるのは「私」をおいて他にはない。私こそが真のぶどうの木である、と。「ぶどうの木」を自称する者、またある人を指してそう呼ぶこと、これらすべてを退ける発言です。「…… のようなもの」の存在も主張も一切認めないということです。「キリストのみ」への徹底した集中です。「のみへの集中」と言いましたが、しかしこの方は、絶対的な孤独・単独の中にあるのではない、この方は「つながっている」、すなわち木とそれにつながる枝、すなわちキリストと弟子たち、さらにはキリストを信じる者たちとつながっている。さらに「私の父は農夫」とありますから、この木のつながりの元も示されています。
   
「つながっている」と言いましたが、聖書の「つながっている」という訳語は誤解を招きやすいと言わねばなりません。「つながる」と言う場合、体の一部がつながっていてもいい、心の一部がつながっていても「つながっている」ということになるかもしれない。キリストとわずかな糸でつながっている、キリストの体である教会とわずかな糸でつながっている、それでいいと思うかもしれないけれど、そうではありません。芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』ではありませんが、一本の糸で、わずかな糸で天とつながっているのが私たちの人生の歩みではありません。私たちの信仰ではありません。そんな心細いものではありません。「つながっている」の元の言葉を直訳すると「内にある」あるいは「中にいる」となります。「相手の中に住む」のです。住み続けるのです。その意味で私たちの存在全体が主イエスの中に入る、あるいは主イエスが私たちの中に入ってきてしまうのです。
   
「つながる」と訳されているもう一つ別の元のことばは、直訳すると「とどまる」となります。4 節はこうなります。「私の内にとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまろう」。「とどまる」とは「である」状態の永続です。「あり続ける」ことです。しかし「である」状態の単なる継続ではありません。パスポートや免許証の継続的有効性のようなものではないのです。いつも「である」ことを「続ける」、常に新しい「続き」への招きであり促しなのです。信仰においては、ルターが言うように、「である」は常に「となる」ことですから、「であり続ける」は「となり続ける」ことでもあります。ここで繰り返されている「とどまる」は、常に新しい運動として起こり続けることなのです。
   
しかし同時に、この「とどまる」は賜物でもあります。「とどまる」ことが主イエスご自身からの恵みの出来事であるなら、これは主イエスとの「切っても切れない絆」と言うことができます。ですから、「私の内にとどまる」とは、「私の慈しみにつながる」ことであり、「私の絆、私が切ることのない絆に連なる」ことだと言ってよいのです。この愛と慈しみの絆をとおして、イエスと弟子たち、またイエスとイエスを信じる者とは、単につながっているだけではなく、いのちにあずかっている。ここにこそいのちがイエスから弟子たち、また信じる者たちへと流れている。それだから、弟子たち、またイエスを信じる者たちは木につながり、木のいのちを常に新しく受けている枝として実を結ぶ、いや結ばざるを得ないのです。
   
それでは、私たちが木である主イエスからそのいのちを常に新しく受けている枝として「実を結ぶ」とはどのようなことなのでしょうか。それが8 節にある御言葉です。このようにあります。「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」と。つまり、私たちが豊かに実を結ぶとき何が起こるかというと、そこでキリストの父である神が「栄光」受けられる、というのです。私たちのおかげで神が栄光を受けられる。私たちのおかげで神が神らしくなられる。神が神らしく人々の間でさらに崇められるようになる。そのための実を結ぶいのちに生きる生活が私たちには求められている、というのです。ではその生活とはどのようなものか、9 節で主イエスは一息に語ります。「わたしの愛にとどまれ」と。この私の愛、すなわちイエスの愛とは、父がイエスを愛した愛にふさわしい愛のことです。イエスの愛が分かれば分かるほど父の愛が分かる。私たちの愛というのは、イエスの愛が父の愛に対する答えであったように、イエスの愛への答えなのです。イエスの愛によってとどまることがその答えなのです。イエスが父に愛される者として、そのことによってのみ規定されているように、私たちもイエスに愛される者としてのみその存在の規定を受ける。ここで愛はひとえに愛されることへの答えとして語られています。

   
私たちがイエスに愛されるという、そのイエスの愛とはどのようなものなのかが次に問われなければなりません。イエスの愛とは、9 節が語っているように、それは父である神の愛のことです。「神は愛である」というヨハネの手紙一の言葉を、一度は聞いたことがあるという方も多いことでしょう。神さまがどのような方であるか、その御本質がどのようなものであるか、私たち人間の不十分な言葉を用いて敢えて言おうとするなら、それは「愛」というお方である、ということです。不十分・不適切であることを十分承知の上で、主イエスにおいて神がそのご本質を露わにしている聖書の証言をとおして、神の愛とは何であるかを要約的にお話してみたいと思います。

第一は、「神の愛は普遍的です」。その愛は、ある人々には与えられるが、他の人々には与えられないというものではありません。すべての人々、全世界の人々のためのものです。そこには、差別、限定、排除というものはありません。
   
第二は、「神の愛は無条件のものです」。神の愛には「もし」とか「しかし」とかいう付帯条件は何もありません。ですから神の愛は根拠なき、理由なき愛です。神は何か特定の理由で愛するのではありません。私たち人間は普通、相手の好意とか、人柄の良さとか、美しさとかは、才能の故に、対象がそのような条件を満たしているが故に愛する、根拠のある愛です。しかし神の愛はそうではない。神は「もしあなたがたが、まず自分の罪を悔い改めて信じるなら、私はあなたがたを愛そう」とさえ言わないお方です。そうではなく、パウロの言葉を借りるなら、「キリストは不信心な者のために死んでくださった。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」、そういうお方なのです。
   
第三は、「神の愛は自分の方から働き出て行く愛です」。私たちが神を求め神に向かうずっと前に、神は私たちを捜し求め私たちに向かってくださいます。「人の子は、失われた者を捜して救うためにきたのである」とルカ福音書が記しているとおりです。
   
第四は、「神の愛は誠実・信実である」ということです。カール・バルトという人はこう言っています。「神はその昔、イエス・キリストにおいて人間を愛することを決断された」。神は、私たちを愛するという自分の約束を決して取り消すことはありません。私たちが不誠実であるときも、神は誠実であり続けるお方です。私たちは神に背を向けるかも知れないが、神は決して私たちに背を向けることはありません。神は、罪の故に私たちを裁き懲らしめるときでも、神はなお私たちを愛しておられます。
   
第五は、「神の愛は和解させる愛です」。神は、罪深い反抗と隣人に対する憎しみによって神の敵になっている人間を愛してくださいます。神は敵対する人間の罪と向かい合いそれを裁くときでも、愛してくださいます。それは、傷つけるよりもむしろ癒すためであり、打ち滅ぼすよりもむしろ回復するためであり、報復したり仕返しするよりむしろ矯正するためなのです。このようにキリストにおける神の愛は、和解させる愛なのです。人々を神から、また、人間同士から分離させている敵意という隔ての壁を取り壊すために、「神はキリストによって世をご自分と和解させられました」と聖書が記しているとおりです。
   
第六は、「神の愛は自分を与える高価な愛です」。神は、超越したはるか遠くの安全な高みから、「私は、下の低みにいる哀れなあなたたちを愛する。あなたたちの苦悩や苦痛は私の心を深く動かす。だから助けてやろう」とおっしゃる方ではありません。むしろ、キリストにおいて、私たち人間の一人として、私たちの苦悩や苦痛を分かち合うために、私たちと共に、私たちのそばに立とうとして来られるお方です。
   
最後に、「神の愛は、助け、事態を全く新たにする愛です」。神の愛は、私たちが何をしたとしても、またしなかったとしても、あるがままの私たちを赦し受け入れる、そのような愛です。しかし私たちをあるがままに放置してはおかない愛です。人はこう言ってはならないでしょう。「神は赦してくれるだろう、そのために神はいるのだから」と。これでは人間が神を手玉にとっていることになってしまいます。神の愛は、私たちが神と隣人に対して正しい関係に生きることを学ぶことによって真の人間性をもつ、これまでとは違う人間、「新しい人間」になることを可能にし、またそうなる力を与える愛です。神の愛は、私たちを自立させ、強く、行動的で、責任ある人間にし、イエス・キリストの中に見られる成熟した人間に成長させ、神と他の人々を、自分のすべてをもって愛するようにさせる、そのような愛である、と言うことができるでしょう。

   
今朝、私たちは「真のぶどうの木」の歌を歌うようにと招かれています。主キリストの愛の内に留まること、そのいのちの主に信頼することへと招かれていることを感謝して、賛美の歌を共に献げましょう。

(2020年5月24日礼拝説教)


 
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