今から73 年前に書かれたフランスの作家アルベール・カミュの代表作とも言える『ペスト』という小説が、まさに新型コロナウイルスというパンデミックの災厄の中にある今、多くの人々によって思い起こされ注目されています。
北アフリカにあるオランという港町を襲ったペスト、この致命的な疫病によってこの町は外の世界から完全に遮断され、町の市民全体が生存を脅かされるという「極限状況」にさらされます。この小説は、オランを襲ったペスト事件を、医者であるベルナール・リウーという人物による経過記録という形で物語っています。
約1 年近く続いたオランの町のペスト事件に、その発見から収束に至るまで、それこそ献身的に尽力したのは主人公リウーでした。続々と命を奪われていく人々を前に、彼は繰り返し治療の空しさを実感させられるにもかかわらず、ペストの症候を示す患者の表情を目にすれば、医師としての倫理的責任を果たすのをやめることができない人でした。そして自分が助けることができなかったペスト患者の苦悩の運命に対してこそ、自分の倫理的責任を覚えるとはっきり言います。自分が何をしたかということより、これらの人々の命こそが遙かに高い価値あるものとしてあったのです。医師リウーは、ペストが終焉した後で、自分に残された課題として「ペスト」の記録に着手し、それによって犠牲者たちの味方になる意志を明らかにした後、執筆意図について注目すべき言葉を付け加えています。「天災のさなかで教えられること、すなわち人間の中には軽蔑すべきものよりも賛美すべきものの方が多くあるということを、ただそうであることだけのために」私は記録に留める、と。
この言葉には、リウーという人における人間に対する「希望」のしるしを認めることができます。「ペスト」において、一人びとりの人間は、個人の運命を越えた同じ運命を担う他者と繋がっていることを否応なく認識せざるをえませんでした。実際、この小説の登場人物は、いずれも同じ不条理の苦難の中に立たされながら、しかし苦難を分かち合うこと、連帯しながらそれと闘うことを自分にとっての価値あることと感じ取っています。そしてこのような友情・愛・連帯感が、不条理な生の感情に対抗することを可能にする人生の価値だと思うようになったと伝えています。
今日の聖書、ローマの信徒への手紙を記しているパウロも、今日の私たちと同じ質をもつ「時」の中に置かれています。ここでの「時」(カイロス)とは、一定の期間の中で極めて決定的な質をもつ「時」のことです。一回限りの「時の点」、他の「時の点」とは代わってもらえない、掛け替えのない「時の点」のことです。そしてこの「時」を特徴づける言葉として、「夜」と「日」ないし「昼」とが対立的に配置されています。「闇」は「夜」に通じ、「夜」は「眠り」を連想させます。また「眠り」は「酩酊」というあり方にも繋がっています。これに対して、「日」は「光」また「昼」に繋がり、さらに「覚める」という言葉もこれと同じ系統の言葉です。また「品位をもって」という言葉も「覚めて」と訳すことのできる言葉です。
ともかく、暗闇と光との対立が一つの出発点となって二つの鎖が対立しています。しかしこの二つの鎖の中で、「光」に繋がる鎖の方が圧倒的に力強く描かれています。つまりこの時の中において「光」の方が圧倒的な勢力としてある、ということです。
パウロはこの事実を的確に見据えています。暗闇がいかに深く覆っているように見えようとも、この時代が虚無と不条理に充ち満ちた暗い時代に見えようとも、それをはるかに凌ぐ光が、今この時を支配しているのだという事実―― この事実は、神の憐れみの支配の下にあるこの世界のあらゆる領域の上、あらゆる被造物の上に、それを取り巻くすべての状況、事情の上に確かである。それは神の支配を否定するものの上にも確かな事実として厳然としてあるのだ―― これがパウロが語っているところです。私たちは、程度の差こそあれ、自らの内にある闇の大きさ、深さにがく然とした思いをもっています。そのような虚無にさいなまれつつ、またこの世界の不条理、死と苦難の問題をしっかりと見据えつつ、しかし、そのような暗闇をはるかに凌ぐ光が今のこの時を支配している、この神の憐れみの事実こそが、恵みの事実こそが、この世界のあらゆる領域の上に、あらゆる被造物の上に、またそれを取り巻くすべての状況・事情の上に確かである、そのことを信じたいのです。
それでは、そのような時の中に置かれている私たちが生きるとは具体的にどのようなことなのか。実は今日の聖書箇所は、パウロが信仰による生活の勧めをしている文脈の中に置かれています。そしてその勧めはただ一つの言葉で受けとめられ、表現されています。すなわち、どんな掟があっても結局は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に尽きる、すべてはそこに集約されるとパウロが語っていることに着目したいと思います。そしてこの愛についてパウロはこう言います。「互いに愛し合うことの外は、だれに対しても借りがあってはなりません」と。愛は私たちにとって無限の負債である、どんなことをしても、それで払いきった、それで償い得たということはない、例外なくすべての人が生涯負わなければならない、負うことが許されている負債、それが愛である、と。あなたがたは自分の体をもって、すなわち存在のすべてを動員して、その愛の支払いをしていくことが許されている、と。
今の時を生きる、すなわち「ペスト」の時代を私たちが生きるとは具体的にはどのようなことなのか。それは私たちが無限の負債である愛に生きるということです。愛に生きること、そのことがここでは、「主イエス・キリストを身にまとう」という言葉で言い表されています。イエス・キリストを着るということは、端的には、あの神の憐れみの御支配を私たちが受け入れるということ。イエス・キリストにおいて、闇の中にある私たちと共に生きようとされた神、私たちを徹底的に愛し、見捨て置かれなかった神の憐れみを私たちが受け入れるということです。その憐れみに応えるということです。この憐れみへの応答が、互いに愛し合うこと、あなたの隣人を愛するということです。隣人を愛するとは、病に苦しむものを癒し、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出し、悲しみ泣く者と共に泣き、貧しい者、社会から見捨てられている者たちの傍らに立ち給うたイエス・キリストのみあとに従うということです。自分のことで精一杯、困難な問題や悩みを抱えてどうにもならない自分がどうして他の人のことなどを……。このような私たちの偽らざるギリギリの有様を神は先刻ご承知です。しかし、その私たちのためにこそキリストは十字架につかれたのです。
神が自分の似像に造られ、そしてその似像に相応しく生きるようにしてくださったその恵みを否定するいっさいの力、人間が人間らしく生きることを許さない一切の勢力、人間が人間として尊ばれないあらゆる人間破壊。隣人愛とは、このような力に対してはっきりした「否」を語り、このような状況の真っ只中へと身を挺して入り込むことです。『ペスト』の登場人物たちは、同じ不条理の苦難の中に立たされながら、しかし苦難を分かち合うこと、連帯しながらそれと闘うこと、すなわち愛の連帯性へと導かれ、魂の深淵において、最後までしっかり手を握り合っていました。
今般のコロナウイルスに対する有効な社会的措置として「接触を避ける」ことが強調されています。人間相互のコンタクトの遮断としか言いようのないこの振舞いも、実は私たちを確実に結びつけるものではないでしょうか。身体的に距離を取ることは、自分もウイルス保持者かもしれない以上、他者への敬意、他者への愛を示すことに他ならないのではないでしょうか。苦難を分かち合い、連帯しながらそれと闘う愛の連帯性に繋がることではないでしょうか。
「夜は更け、日は近づいた」。今朝私たちは、この御言葉に励まされ、現在の事態収束の時を、共々に祈り求めたい思います。
(2020年5月17日礼拝説教)
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