礼拝共同体である私たちは、「礼拝堂に集って礼拝」を行えない、今のこの世の有り様に戸惑い、葛藤に苦しんでいます。孤独を感じている方もいるかも知れません。このような日々の中にある私たちに、今朝キリストの使徒パウロは「霊に導かれて生きるあなたがたは」と語りかけます。口語訳聖書はこの言葉を端的に「霊の人であるあなたがた」と訳しています。パウロは誰か特殊な人を選びだして霊の人と呼んでいるのではありません。教会に連なるすべての人を霊の人と呼ぶのです。洗礼を受けた私たちの内には、等しく聖霊がくだり、聖霊によって神との絆が結ばれ、霊の賜物が与えられている。主の霊に導かれて生活する私たちキリスト者は霊の人だと言います。霊の人とは、神の罪の赦しを知っている人のことです。自分が罪人であることを認め、キリストに救い出された人です。
使徒パウロは、霊の人となった私たちに「兄弟が罪に陥ったなら柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と教えます。柔和とは、へりくだった人の姿です。キリストの姿です。自分の心の中に主キリストの姿を見ることが出来れば、私たちはへりくだることが出来るでしょう。そういう私たちなら、不注意にも誘惑や試練に負け、過ちに陥っている兄弟姉妹がいたなら、放っておいたり、見下して自分を誇るのではなく、その人も自分と同じ霊の人であることを思い起こすことが出来るはずです。私たちが本当に「霊の人」であるかどうかは、他人の過ちや欠点に対して、どのような態度を示すかによって試されます。それが愛によって互いに仕えることの実践だからです。
漁師にとって網は、生活の糧、命に直結するものですから、網のほころびに無関心でいることは出来ません。同様に兄弟を「正す」ことは、口先で行うものではなく、真剣な眼差しと行為をもって、丁寧に相手をいたわることだと言うのです。加えて、その真剣な眼差しを自分自身にも向けさせるためにパウロは「あなた自身も誘惑されないように気をつけなさい」と言います。私たちの信仰生活は、他者の労苦を思いやることと同様に、自らの罪の深さを見つめることでもあるからです。パウロの語る霊の人は、特別な人ではありません。教会の人たちは、皆、霊の人です。霊の人は決して間違いをしない、誘惑にも負けない、試練に耐えられる訳ではありません。霊の人であっても、誰もが不注意にも何かの罪に陥ることがあるからです。
私たちも、この一週間の歩みを振り返ればそのことは分かるでしょう。私たちは弱くまた甘く、霊の人でありながら、聖霊の導きに従って十分に生きることができませんでした。ですから、今日も礼拝の最後の主の祈りの中で「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と私たちは祈ります。この祈りは霊の人とされた者の切なる祈りなのです。
今、私たちは「礼拝堂に集って礼拝する」ことが出来ませんが、信濃町教会に連なる兄弟姉妹と共に、定めの時刻に合わせ、自宅で主を賛美し、聖書を朗読し、キリストの使徒パウロからの手紙を読んでいます。それは、主キリストを礼拝しているということです。私たちは今、この瞬間も、教会に集えなくても、目には見えない聖霊に導かれています。聖霊が私たちにくだり、キリストが宿ってくださっているのです。だからこそ霊の人です。
私たちがより一層、霊の人になるために「めいめいが自分の重荷を担う必要がある」とパウロ続けます。重荷とは何でしょうか。ある神学者は、日常生活において実感する様々な苦悩、それをも含む罪の誘惑だと言います。またある説教者は、ここでパウロが示す重荷は、あなたの兄弟姉妹のことだと言っています。なぜなら、ここで聖書は「互いに重荷を担いなさい」「互いに重荷を負い合いなさい」と言うからです。聖書が「互いに」という時、それは漠然とした誰かを指してはいません。今、あなたの隣にいる人、あなたの身近にいる人のことです。その姿があなたの目に入り、その人の声が耳に入り、多くの場合、あなたに厄介をかける人のことだと言います。厄介をかける人とは、あなたの神経を逆なでし、あなたの大切な時間を奪う人のことです。もし、あなたがその人を見過ごし避けようとなら、その人は何も変わらないし、またあなたも何も変わることは出来ません。しかし、主からの霊を受けた私たちは、厄介なその人の重荷を負う者となることを求められています。
キリストの生涯を思い起こしてください。キリストは、世の罪を担う神の子羊として、世のすべての罪、全世界の欠陥をご自分のものとして負ってくださいました。キリストはむしろ喜んでこれらすべてを負い、私たちの罪を自分の罪とし、私たちの嘆きをご自分の嘆きとされたお方です。ですから互いに重荷を担うということは、決して厄介を無視したり、排除することではありません。私たちは皆、キリストに招かれた「霊の人」ですから、この重荷をキリストのように担うこと求められています。
今日の旧約サムエル記上24 章は、神が油注いだ二人に和解が与えられる場面です。今朝は家庭礼拝ですから、24 章全体に目を向けてみてください。ここに神の言葉は一語もありません。ダビデは、命を奪おうと追い回す、自分にとっては最も厄介な人であるサウルを前に、報復することを選ばず、それどころか顔を地に伏せ、礼をして「わが君主、王よ、父よ」と呼びかけ、自身を「死んだ犬、一匹の蚤」だとへりくだります。神がダビデに「柔和な霊」を注がれたからです。霊に導かれたダビデの言葉と行為によって、サウルの気持ちが再び神へと向かったのは確かなことです。この二人の和解の出来事を支配されているのは、主の霊の働き、つまり神ご自身です。神は、自身が油を注いだ者の内にあり、背後にもあって、二人を和解させた上で、それぞれが歩むべき道を示されました。神は、困った時に突然現れて知恵を授けるのではなく、問題の最初から関わってくださっていて、必ず出口を用意してくださる方なのです。相手ばかりを見るのではなく、状況に左右されるのでもなく、主の霊に聞き従うことが出来たなら、私たちも相手の重荷に気づき、へりくだることができます。へりくだることは、決して弱さのしるしではありません。へりくだることは、神への信仰と隣人愛の結合した姿だと言っていいでしょう。私たちも互いにへりくだり、互いに重荷を負い合うことが出来たなら、ほんの僅かであっても、キリストの求めに応じたことになることでしょう。
パウロは、聖霊に導かれた生活の実現こそ、霊の人である私たち一人ひとりの責任だと言います。その責任とは、自分に対してでもあり、兄弟姉妹に対するものでもあり、最後は主に対する責任です。そして、この責任を十分に負ったかどうかで、「霊の人」として私たちは本物だったか、偽物だったかが分かります。
パウロは4 節で「各自で、自分の行いを吟味してみなさい」と教えます。「吟味する」とは、本物かどうかを確認するということです。真面目に吟味したなら、霊の人である私たち一人ひとりも、なお罪を犯す弱い存在であることを、認めないわけにはいかないでしょう。それどころか、なんと自分は惨めだろうと思うことさえあるでしょう。
聖書は、罪を赦すことの難しさ、他人にへりくだることの出来ない私たちの弱さを突き付けます。御言葉によって、本当の姿を突きつけられた私たちは、自分が何者かに気づかされます。これは厳しいことです。辛いことです。確かな重荷です。ですが、この厳しい求めの背後には、主キリストがおられます。私たちは一人では自分の十字架を、自分の重荷を負うことができません。だから、キリストが共に一つとなる軛で私たちとつながってくださって、二頭立ての馬車となって重荷を共に運んでくださいます。
5 節まで重荷を負うことを求められた私たちに、6 節では分かち合いが勧められます。しかも「持ち物をすべて分かち合いなさい」とあります。「持ち物」とは、直訳では「良い物」です。ここでは決して物質的なことばかりではなく、この「持ち物」とは、私たち一人ひとりが、主から与えられた霊の賜物のことでしょう。しかも、この「持ち物すべて」に続く「分かち合い」とは、交わり、共有者、パートナーになると訳される「コイノニア」という言葉です。信仰によって与えられた良き賜物を分け合う。互いに良き理解者になる。一方が教え、一方が物を与えるというのではなく、両方が神から賜った良きものを与え合うということです。私たちは信仰を語り合うのです。教会がこの教えの実践の場です。
私たちの人生は福音を信じ、洗礼を受けることが目的ではありません。霊の人になって人生完成、目標達成ではないのです。霊の人としてスタートして、終わりの日まで私たちは途上にあります。霊の人の生き方を全うするように、パウロは7節で「最後の審判」について語ります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。」神の恵みは、人間には計り知れない程、深いものです。それ故、自分は信仰深いと言う人ほど、神の恵みを都合がいいものにして、神を侮ってはいないでしょうか。神をごまかすことはできません。神は全てをお見通しです。
そのことを知るパウロは、人は自分の蒔いたものを「また刈り取る」という神の秩序に触れています。未来に責任がある私たちは、福音の種を肉にではなく、霊に蒔かなくてはならないと言うのです。「自分の肉」つまり自己中心でやっていたら滅びるということは、私たちにも分かります。私たちの日常の有り様が、御心を求めているかどうか。内なるキリストに自身を献げることが出来ているかどうかです。最後は、肉から滅びを刈り取るか、聖霊に導かれて永遠の命を刈り取るか、どちらであるかで決まるのです。これは厳粛なことです。簡単な求めではありません。
ですが、私たちは一人ではないのです。私たちは、一人では重荷を担いきれないのも分かっています。ですから、キリストは私たちを群れとしてくださり、教会を建ててくださいました。私たちは決して孤独にされてはいないのです。霊の人は、いつも信仰によって家族となった人々と、つまり教会の兄弟姉妹と互いに重荷を負い合うのです。兄弟姉妹と共に、お互いが祈りあって、支えあって「善を行う」のです。私たちが行おうとする善を喜んでくださる方が、教会の頭となって、共に一つとなる軛で私たちとつながってくださり、一緒に重荷を運んでくださいます。私たちが、教会の頭であるキリストに倣って、善を行うことに飽きずに励むことが出来たなら、どのような状況に陥ったとしても、キリストが繰り返し礼拝に招いてくださり、私たちは永遠の命をいただくことが出来ます。必ず、再び「礼拝堂に集って礼拝する」時が与えられます。感染症にも自粛生活にも疲れることのない信仰を、主は私たちに与えてくださっています。私たちは、この神が備えてくださった時を、共に精一杯に励んで、御国を目指して前進しましょう。それが善を行う群れである教会の聖霊の導きを信じて生きる霊の人の生き方です。
祈ります。
聖なる神。あなたが今日も礼拝を通して私たちに御言葉を蒔いてくださり感謝します。命の御言葉によって私たちが聖霊に導かれて柔和な心で祈りあい支えあい、あなたの恵みを分かち合って生きることが出来ますように。たゆまず善を行うことが出来ますように。苦難の中にあっても「霊の人」として日々生きることが出来ますように。
主の御名によって祈ります。アーメン。
(2020年5月10日礼拝説教)
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