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 2020年5月3日 礼拝説教  【弟子への委託】 笠原 義久

イザヤ書62章1-5節、ヨハネによる福音書21章15-25節



ヨハネ福音書21 章の物語は、イエスがいなくなった後のイエスの弟子たちの、すなわち信仰共同体の未来のことに光があてられています。
   
イエスがいなくなった中で信仰共同体はいかに生きるのであろうか? 共同体が生きてゆくその生は具体的にどのような形を取るのであろうか? いかにして共同体は迫害と世の憎しみに耐えるのであろうか? いかにして共同体はイエスが今生きてここに在すことを経験するのであろうか? 信仰の民としての共同体の特質は何であろうか?
   
この中心にある方は「平和」(シャローム)を宣言されます。詩編85編は「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます」と平和の宣言を神のわざに帰しています。ルカ福音書では主イエスの誕生と受難において平和の宣言がなされています。誕生記事の天使の賛美「地には平和、御心に適う人にあれ」、またエルサレム入城での弟子の群れの賛美「天には平和、いと高きところには栄光」。この誕生と受難において指し示された「平和」が今ご自身によって宣言されています。ここでのシャロームは天と地を結ぶ神のご支配による平和です。それが今、中心に立たれる方によって実現している。死に勝利し甦られた主イエスのみがもたらすことのできる平和に他なりません。

   
今日の箇所の直前、1 ~ 14 節は、イエスの宣教における奇跡、とりわけカナで水をぶどう酒に変えた話、5 千人の人々に食事を提供した話と明らかな連続性をもっています。すなわち、この大漁と浜辺の朝食は、イエスが与えてくださる賜物が、イエスの地上での時の出来事の後にも続くことを示しています。
   
この大漁と浜辺の朝食の物語は、ヨハネ福音書の冒頭1章16 節でヨハネの共同体がなしているあの証言、「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」、その証言が真実であることの物語による証言だと言えるでしょう。弟子たちの網にかかった魚のおびただしい量と、パンと魚の恵みの食事は、神の賜物が、地上を歩まれたイエスによって得られたのと同じように、復活のイエスによっても得られることを示しているのではないでしょうか。ちょうどイエスの宣教が、水がぶどう酒に変えられるという空前の潤沢さの奇跡をもって開始されたように、まさに教会の宣教も神の賜物の豊かさに祝福されて開始される、と。ですからこの1 ~ 14 節の物語は、イエス復活後の教会に対する祝福の物語です。なぜなら、共同体のいのちの営みは、神の豊かさと空前の思いもよらなかった賜物の経験を基礎としているということを、この物語は具体的に示しているからです。
   
この喜ばしい物語が、15 節からのペトロが受け取る新たな弟子への召命のお膳立てとなっています。

   
さて15 節からのペトロの新たな弟子への召命の物語ですが、いくつか特別の注意を要することがあります。
   
第一に、イエスの最初の問いは、ペトロのイエスに対する愛と、他の弟子たちのイエスに対する愛との比較を含んでいます。イエスがペトロに問うたのは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」ということでした。しかしペトロはこの比較を無視して答えます。ここには、かつて食事の席で「この人たちよりももっと」進んでイエスのために命を捨てると偽って誇ったペトロの姿が投影されています。
   
第二は、「わたしの羊を飼いなさい」というイエスのペトロに対する要求は、マタイ福音書で「この岩の上に教会を建てる」とイエスから宣言されたペトロ、教会の基礎と位置づけられたペトロの牧会および使徒職への委任であるという解釈が一般的ですが、果たしてそうか、という問題です。ここでの「わたしの羊を飼いなさい」という指示は、告別説教における弟子たちへの戒めの光に照らして受け取られるべきだと思います。ここではペトロを他の弟子たちと区別されたイエスの後継者として見ているのではなく、ペトロをイエスの弟子たちすべてについて、真理である方を具体的なかたちをもって現す、体現者と見ているのではないでしょうか。すなわち、イエスへの愛を生き抜くことが何を意味するか、その見本としてペトロを見ているのではないでしょうか。
   
このイエスとペトロの三度にわたる問答の核心は、ペトロのイエスへの愛と、「羊を飼え」というイエスの指示、この両者の関係にあります。イエスは自分に対するペトロの愛を「わたしの羊を飼え」という指示に転換します。その時イエスはあの洗足物語の最後にイエスが与えた掟を思い出させようとしているのです。すなわち「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。つまり「わたしの羊を飼え」という指示によって、あの掟を守り、イエスの羊を飼い、あるいは世話をすることによって、イエスへの愛を実行するようにと強く促しているということです。イエスは彼の羊をペトロ一人の世話に委ねているのではなく、むしろペトロにイエスを愛することの意味をしっかり想起させているのです。


私たちは、「主イエスが、そして主イエスである神が私たちを、とことん愛し抜いてくださった、十字架の死に至るほどに」、そのように「イエスが私たちを愛してくださる」とよく語ります。しかし「私はイエスを愛します」と信仰告白の言葉としては語ることはあまりありません。いったい「イエスを愛する」とはどういうことなのでしょうか。非常に一般的な言い方になりますが、「イエスを愛することは、自分の生をイエスの生に従って形づくること」だと言えるでしょう。この箇所における三重の問答は、愛の言葉には、これに匹敵する愛の生活が伴わなければならないことを強く示唆しています。ペトロのイエスへの愛は、ペトロがイエスの羊の世話をその生活の中で命をかけて実行することと切り離してはあり得ない、ということです。

イエスがペトロを召し出した生、新たな召命、そして実際にペトロが生きた生は、ペトロにイエスが為したことに匹敵する愛の行為を要求するものでした。すなわち彼自らのいのちを与えることを要求するものでした。ペトロがここで「はい、愛しています」と三度答えるとき、彼は単に口先だけでイエスへの愛を語っているのではなく、その本質において彼の命を捧げることを誓っているのです。
   
ペトロは、イエスが弟子たちに「このようになれ」と呼びかけたところの者になった人、自分の愛に限界を設定せず、イエスのように「最後まで」愛し抜こうとする、すなわち自分の命まで差し出す弟子なのです。

   
それにしても、ペトロに典型的に代表されるこのような弟子であることの規範というものは、イエス復活後の共同体、教会にとって、何を意味するのでしょうか。もしペトロが、教会が拠るべき手本・基準ならば、もし進んで殉教を受け容れる生き方がイエスの弟子たちへの戒めを果たすことになるのであるならば、愛のために命を捨てないキリスト者、信仰のために殉教しないキリスト者はどうなるのでしょうか。このような人々はイエスが与える賜物の輪から排除されるのでしょうか。
   
ここまでの三重の問答に続く、イエスの愛しておられた弟子をめぐるイエスとペトロのやり取りは、まさにそのことを問題にしています。21 節で殉教者ペトロが殉教の死を遂げなかった愛弟子のことをイエスに尋ねるとき、イエスを愛するとはどういうことなのか、という問いが再び私たちの前に置かれます。
   
愛弟子が証言したことと弟子であることの資格は、彼の生がイエスへの愛よって命を捨てることなく終わったがゆえに無効とされるのでしょうか。22 節のイエスの叱責とペトロに対する弟子としての再委託は、このような疑問と比較がまったくの的外れであることを的確に指摘しています。「愛弟子がどうあるかということがあなたと何の関係があるのか。あなたは弟子としてただ私に従ってきなさい」。ペトロはイエスの弟子としての仕事に携わるべきであり、愛弟子もまた自分自身の仕事に携わるべきなのです。実際24 節は、この愛弟子の証言が、このヨハネの信仰共同体の生にとって計り知れない価値をもっていることを強く断言しているのです。「これらのことについて証しをし、それを書いたのはこの弟子である。私たちは彼の証しが真実であることを知っている」と。因みにここでの「証し」というもとの言葉は「マルテュス」と言いますが、これは英語の「殉教者」を意味する「マーター」という言葉の語源となっています。この愛弟子も「殉教者」なのです。


主イエスは、彼の弟子たちを彼自らの命の授与によって形成される愛の生活へと繰り返し呼びかけています。その愛の生活とはペトロがそうであったように、その本質において自分の命を捧げる生活のことです。「殉教者」としての生活です。にもかかわらず、弟子が自分のいのちを捨てることが弟子の資格を特徴づけるすべてではないことが、あの愛弟子の存在によって明らかにされています。なぜなら、この愛弟子は、ヨハネ福音書の読者であるヨハネ共同体がイエスとの特別の繋がりをもつ橋渡しとなった人物ですが、彼はペトロのような殉教の死を遂げることはなかったからです。

私たちが、愛のために命を捨てよというイエスの呼びかけの言葉を弱めたり薄めたりすることは容易にできることです。また実際そのようにしています。あるいはこれを単なる言葉のあやだとしたり、信仰生活の日々の現実と格闘からは遠く離れた理想と見なすことが多いのです。

けれども、教会の歴史は、このイエスの言葉が真実であることを知り、イエスを愛しお互いを愛せよという呼びかけに自らの命をかけて応えた人々に満ちています。ヘブライ人への手紙の言葉を引くなら、私たちは「このようにおびただしい証人(殉教者)の群れに囲まれている」のです。このような愛はしかし、教会の過去の遺物ではありません。自分の命の限界をも含めて、限界を知らない愛は、今日の教会においてもイエスの弟子であることの本質を形づくっていることは疑いえないでしょう。

その一方で、命を捨てるに至らない弟子のあり方すべてを過小に評価することも容易にできます。私たちは次のように自らに問うことがあります。「イエスへの愛に生きるために毎日自分の命を危険にさらしている人々と比べれば、あまりにも小さな私のやり方で私が闘うことの意味はどこにあるのだろうか?」と。しかし20 ~ 24 節の愛弟子についての言葉は、たとえ殉教の形をとらなかったからといって、愛弟子のイエスへの愛はその価値を減じられることは全くないということを雄弁に物語っているのではないでしょうか。

今申し上げた私たちの内にある二つの思い――一方で、殉教などということは自分の信仰生活の日々の現実からは遠く離れた理想であって、信仰の勇者にのみ可能なことだと思い定める傾向。他方で、命を捨てるに至らないキリスト者などいったい何の存在価値があるのだろうかと捨て鉢になってしまう傾向。これは、教会が抱えこんでいるディレンマです。今日の聖書箇所に先行する1 ~ 14 節の大漁と浜辺の朝食の物語は、このディレンマに折り合いをつける鍵を提供しています。21 章は、ペトロの殉教への召命や愛弟子の証言への賞賛で始まっているのではなく、イエスの大漁と朝食というイエスの恵みの授与の話から始まっているのです。イエスは船に乗っている弟子たちすべてに贈り物を与えました。殉教者ペトロ、証人となった愛弟子、見てから信じたいと望んだトマス、ゼベタイの子ら、さらに弟子であること以外何の記録もない名前の分からない弟子たち。これらの人々すべてにイエスは奇跡的な大漁を与え、浜辺の朝食を用意しました。

愛のために自分の命を捨てようとする人たちも、イエスへの愛の証言をするために最も小さな場所と見えるところで日々格闘する人々も皆、イエスの賜物を受けるのです。

この信仰共同体の弟子として召されている私たちの務めも、イエスによる神の恵みの確認と祝福をもって始まります。そして日ごとの信仰生活において、与えられたその恵みを、私たちのからだをもって、すなわち存在まるごとで現していくことを私たちは求められています。今朝の聖書は、それこそが忠実な弟子であることの尺度であると語っています。


(2020年5月3日礼拝説教)


 
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