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 2020年4月26日 礼拝説教  【弟子たちに顕れる復活の主】 笠原 義久

イザヤ書52章13-15節、ルカによる福音書24章36-49節



去る4月12日の主イエスの復活日に、私たちは「わたしは復活であり命である」という聖書の喜ばしい告げ知らせを聞きました。
   
しかし復活は、私たちの経験的な証明によって裏付けされたり合理的に確認されるようなデータではありません。それでは、復活の告げ知らせに対し心からの「アーメン」を私たちに告白させるものは何か。「私は主を見ました」と証言し、復活した主が今ここに確かに在し給うという主の現臨を体験し、そのことを証言した弟子たち--その弟子たちを支えたのはいったい何であったのか。今朝のルカ福音書は、そのことを雄弁に物語っているように思います。
   
この中心にある方は「平和」(シャローム)を宣言されます。詩編85編は「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます」と平和の宣言を神のわざに帰しています。ルカ福音書では主イエスの誕生と受難において平和の宣言がなされています。誕生記事の天使の賛美「地には平和、御心に適う人にあれ」、またエルサレム入城での弟子の群れの賛美「天には平和、いと高きところには栄光」。この誕生と受難において指し示された「平和」が今ご自身によって宣言されています。ここでのシャロームは天と地を結ぶ神のご支配による平和です。それが今、中心に立たれる方によって実現している。死に勝利し甦られた主イエスのみがもたらすことのできる平和に他なりません。
   
復活の主が弟子たちの真ん中に神のご支配のもたらし手として平和の実現を宣言される--この出来事に直面することが、しかしそのまま弟子たちの信仰になるわけではなかった、その消息が「彼らは恐れおののき」ということばで表現されています。ルカ福音書記者は、「恐れ」が神の出来事、特に隠されたイエスご自身の真の姿にかくぁるものであることを再三指摘しています。誕生記事にはこうあります。「天使は言った。『恐れるな、私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」、また受難予告のとき弟子たちのことを「彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」と記しています。そして直前の主の復活に際しては、「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか』」と。あのマグダラのマリアをはじめとする最初の目撃証人たちは恐れた、と。キリストの真の姿に近づくことは恐れをもたらすのです。なぜなら、キリストが近づかれることによって、本来的に恐れを自分の中に包み込んでいる私たちの真の姿が明るみに出されるからです。
   
私自身「恐れるな」というみ言葉によって自分を見るとき、自分の内外にどんなに多くの恐れを抱え込んでいるかを思わざるを得ません。人を恐れ、おのれを恐れ、聖なる神を恐れている。かたちは違っても皆それぞれに恐れを抱え込んでいる。そしてこの恐れはまた、キリストの真の姿に触れることでしか解消されることはない。主キリストが「恐れるな」、より正確に訳すなら「もう恐れ続けることはない」と語りかけて私たちに近づき、そのご本質を露わにされる、その時恐れはきれいにぬぐい去られる、ということでしょう。
   
さてここでの弟子たちの恐れは亡霊を恐れる恐れでした。亡霊は実体のないものです。亡霊に対する恐れは、恐れる根拠のない迷信的な恐れだと言ってよいでしょう。しかしそうは言っても、人間が死を克服することができない限り、この恐れもまた人間を支配するのです。実体のないものは恐れによって支配する。死の支配する力も恐れです。
   
しかし、まさにこの時、亡霊への恐れは過去のものとなったのです。死に究極的に勝利された方が、その方の死をめぐって集まっている者たちのただ中に、中心に立っておられる。亡霊のように実体のないものではなく、実体をもった方であることが明白になった、キリストの真の姿がこれ以上ない仕方で露わにされ、その姿に弟子たちは触れることが許される--そのとき「恐れ」は霧が晴れるように一瞬にして消え失せるのです。
   
キリストの真の姿が露わにされる。それは39節の最後のことば「わたしである」(エゴー・エイミ)によって余すところなく示されています。まさにイエスがここに存在するあやふやな得体の知れない存在ではなく、イエスという人格の存在であることが明言されています。弟子たちにとって、それは師と弟子という関係であり、弟子一人びとりにとっては「我と汝(わたしとあなた)」という関係、つまり弟子たちが召命を受けたときから現在に至るまでの関係すべてを含んだその方、イエスという人格そのものであることが明らかにされたのです。
   
エゴー・エイミ「わたしは在る」。「在る」ということは命をもってそこにおられるということです。「在る」と言われる方が、命をもってそこにおられることで、死がもたらす恐れは過去のものとなったのです。
   
弟子たちは、これまでの中心をめぐっての空しい堂堂巡りの議論から、今そこに存在する明白な命を受け入れることへ導かれました。この転換をもたらしたのは、イエスがご自身の手と足を示すことによってでした。イエスは「わたしだ」と言って顔かたちを示されたのではありません。イエスの手と足は十字架の釘跡鮮やかなものでした。「わたしだ」と言われる方は、十字架につけられた方として、私たちの前に立たれるのです。復活のキリストは、十字架で死なれたあのイエスに他ならない。同一人物である。十字架のイエスは罪の贖いのために、破壊された神との関係の代償として、神なしに死ななければならない私たちの死を負われたのです。イエスの十字架の死なくして私たちと神との関係の回復はあり得なかったのです。それ故十字架の釘跡は和解のしるしなのです。

十字架につけられることによって、弟子の一人びとりに対して、それは同時に私たち一人びとりに対して、「わたしは在る」といって「わたし」となってくださっている方、「我と汝」の関係に立ってくださる方、それが十字架のキリストです。その手、その足の傷によって「私の神」となってくださる方です。

私たちはこの方に向かい合います。それはまさに、この方が私たちに向き合われる「わたし」として御自分を露わにされるからです。私たちの罪による神からの離反をその傷によって負い、その傷によって克服してくださった方が、今や私たちに向き合ってくださっているのです。
   
甦りの主イエスは、さらに「触ってよく見なさい」と言います。ここに示されているからだとは、私たちがもつ死に至る肉体のことではないでしょう。死に至ることのないからだ、新しい存在のことです。それは、私たちが決して突き抜けることのできないものを突き抜け、私たちの経験と思考の及ばない仕方でそこに存在しているからだのことでしょう。しかし、依然としてその姿は触れることのできるもの、見ることのできるものです。
   
ヨハネの手紙一の冒頭のことば「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触ったものを伝えます。すなわち命の言について」。命の言であるキリストは見ることのできるもの、触れることのできるものとして、からだをもった存在であり続けているのです。
   
そして、この事態が私たちと私たちの信仰をも巻き込み包み込んでいると言ってよいでしょう。当然のことながら、私たちのからだは死という断絶を負っています。しかし聖書の証言によれば、私たちにも復活のからだが与えられる、キリストの復活のからだを着るものとされる、とあります。「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」と。つまり天にキリストの似姿が与えられると約束されているのです。それがどのような形・姿であるか、私たちにはこれ以上詮索することのできないものです。にもかかわらず、目に見え、触れることができるという希望の約束を与えられているその光栄に、私たちは身を打ち震わせるべきでしょう。
   
このキリストの姿は弟子たちに喜びをもたらしました。しかしそれは一種の興奮状態であって、信仰とは違ったものであった。彼らはまだ信じられず、訝しく思っていた。信仰はここから更に新たな踏み出しを求めます。キリストはここで焼き魚を食します。魚は弟子たちの日常の食べ物です。同時に弟子たちの召命、また多くの群衆に対する給食の奇跡にもかかわり、イエスが弟子たちと共に過ごしたその歩みを思い起こさせるものでした。魚を食するキリストはその食卓へと弟子たちを、また私たちを招いておられるのです。

使徒言行録によれば、復活のキリストは、この後40日の間弟子たちに顕れ、食事を共にし、宣教を命じ、天に挙げられている、とあります。このことは、私たちの真ん中にあって私たちと食卓を共にされるキリストの姿が決して一過性のものではなく、現在も地上において私たちの中心に立っておられることを示しています。そしてまさにこのところで教会とその信仰とが起こったのです。成立したのです。

ですから教会は魚を食するキリストの姿と一つであり、その中心に魚を食する復活のキリストの姿を示し続けるものでなければならないのです。ルカ福音書は、主イエスの歩み全体が神の救いの出来事であることを証言しています。さらにその出来事が現在の教会の時にまで受け継がれていることも明らかにしています。今日、主が私たちの間に顕れて焼き魚を食べることはもはやないでしょうが、しかしまさにそのような生き生きとしたキリストの現臨を、今もなお生きておられる御国の働きが継続しているという復活のもっとも説得力ある証明を証言していくこと、すなわち宣教への召しを、わたしたちは、教会は、復活の主ご自身から求められています。


(2020年4月26日礼拝説教)


 
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