信濃町教会        
トップページ リンク アクセス
われらの志 信濃町教会の歴史 礼拝 牧師紹介 集会 新しい友へ
説教集 教会学校 会堂について パイプオルガン 神学研究・出版助成金

  説教集  
     

 2020年4月19日 礼拝説教  【迷い出た者の喜び】 佃 雅之

詩編119編9-16節、ヨハネによる福音書20章19-23節



私たちの救い主イエス・キリストは、約束をしてくださった通り、十字架の死から三日目に甦られました。そして、その日から礼拝の対象とされ、「主の日」は土曜日から日曜日に移されて「マラナ・タ」「主よ、おいでください」という信仰告白が成立したと言われます。ユダヤの暦では、一日が日没から始まりますから、今日の福音書のテキストの冒頭にある「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とは、私たちキススト者にとって「主の日」となった日曜日に、弟子たちが集まっていたところに起きた出来事です。福音書記者ヨハネは、ここで「教会」の始まりを告げています。ヨハネの伝える「復活者顕現」を主題としたこの物語は、私たちキリスト者にとって、週の初めの日曜日に毎週繰り返される、繰り返される必要がある出来事だということです。主の日は復活の主基督に出会う喜びの日です。ですが、福音書記者ヨハネの伝える「その日」弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていました。今日読んだ福音書の箇所の直前「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って『わたしは主を見ました』と告げ、また主から言われたことを伝えた」とありますから、弟子たちは少なくとも主キリストが復活されたことを聞きました。けれども、弟子たちは復活されたキリストに会いに行こうとはしません。戸を閉ざし、心を閉ざし、家の中で縮こまっています。この時、弟子たちがユダヤ人を恐れていた気持ちは分かります。キリストが処刑されたのですから、自分たちも見つかれば、十字架につけられると悲嘆にくれるのも分かります。けれど、弟子たちはユダヤ人よりも、復活のキリストを恐れたのでしょう。裏切った相手と再び出会うことは、何よりも怖いことです。弟子たちはキリストが復活したことを聞いても、戸惑うばかりで、恐れるばかりで、家の戸に鍵をかけて息を潜めているしかありませんでした。神に背いた人間は、逃走し、隠れ、閉じこもることしかできません。しかし、神から目を背けても、そこには失望しかないでしょう。
   
今日の福音書の箇所に改めて目を向けると、小見出しの隣に平行箇所が示されています。聖書に親しんでいる人ならキリストの復活の記事が、すべての福音書に記されていることは当然だと思われるかもしれません。ただ、実際に平行箇所に当たってみると復活者の顕現という主題以外、書かれている内容の印象は大きく違います。ですから、この物語はヨハネだけに記されている特異な記述だとみることもできます。ヨハネの伝える復活者顕現の出来事には、この福音書が書かれた時代背景が大きな影響を与えているようです。ヨハネによる福音書が書かれたのは、紀元一世紀の終わりごろだと言われています。この時、ヨハネの教会は希望を失っていました。紀元70年、ローマとのユダヤ戦争に敗北し、神殿を失い、神殿祭儀ができなくなったユダヤ教徒たちは、その信仰を復興させるために内部の引き締めを計ります。ユダヤ教内部の引き締めは、分派と異端を許さないというものでした。ヨハネの教会は、ユダヤ教から異端として追放され、迫害に曝されるという状況の中で、キリストの言葉を受け入れるか、会堂追放を恐れてユダヤ教に留まるかという二者択一の決断を迫られました。ですから、キリストが復活されたことを知りつつ、家に隠れていた弟子たちと、この時のヨハネの教会の様子は、二重映しになっていると言われます。キリストが復活したことが伝えられ、そのことを信じて生きるように召された教会の実情が、これからどうなるかという不安を抱え、現実を恐れ、教会にも家の戸にも鍵をかけ、息をひそめて生きなければならない状況に追い詰められていたということです。
   
今の私たちには、心を暗くする弟子たちの気持ち、ユダヤ教からの圧迫と迫害に苦しんだ、ヨハネの教会の気持ちがよくわかるのではないでしょうか。日曜日の朝、喜びと期待を持って、復活のキリストに再開するために教会に向かうことが出来ない。今、私たちの日常は破壊され、未曽有の危機の中にあります。感染症に対する恐れがあり、不安があり、戸惑いながら、家に留まることを選択せざるを得ない。多くの教会は、教会に集まり礼拝することを中止して、家庭礼拝としているそうです。主の日である日曜日に、もっとも喜ばしい復活の主との再会の日に、かえって心を暗くしているのが今の私たちです。しかし、福音書記者ヨハネは弟子たちの様子を伝えたあと、一切の間を開けず、復活者が、復活者の方から弟子たちのいるところに来てくださったことを伝えます。家の戸を閉ざしていても、キリストは入って来られます。甦った方は、自分に属する人がどこにいるかを知っているからです。社会のありさまに怯え、人間を恐れ、復活の知らせにも喜ぶことの出来なかった弟子たちの、私たちの、真ん中に復活のキリストは立たれます。
   
「イエスが来て真ん中に立った」とは、弟子たちと弟子たちとの真ん中、交わりの中心というだけを指しているのではありません。甦られた方が、弟子たち一人ひとりの心の真ん中に立ったということです。心の真ん中は、神と出会う入り口だからです。人間の心の真ん中には、神の似姿が隠されていると言った人がいます。そこで、神は人間にこう語りかけるのだそうです「あなたは、私の似姿に形づくられた者だ。だからあなたは、必ず私を見出すことができる」。自分の心の中に、神を見出すことができたなら、その人は神と同時に自分自身を見出す。神と和解し、再び出会うことが出来る。なぜなら、神は私たち人間を、初めからそのようなものとして創造されたからです。私たちの心の真ん中に立たれた方は「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださいます。私たちがよく知っているヘブライ語「シャローム」です。「安かれ、平安」とも訳されます。シャロームは、当時の日常的な挨拶の言葉でした。ユダヤ人は、「おはよう」も、「こんにちは」も、「こんばんは」も、「さようなら」も、「シャローム」と挨拶を交わします。しかし、ここでのキリストの「シャローム」には、日常的な事柄ではない、特別な性格があると見ることができます。十字架と復活のキリストと、そのキリストを裏切った弟子たちとの壁を打ち破ってくださる平和の挨拶、それが「シャローム」です。主の「シャローム」は、再び私たちを捕らえて、生まれ変わらせるための神の側からの挨拶だからです。人生のあやまちの傷を癒し、これから生きることを肯定する力を与える挨拶。キリストの「シャローム」は、弟子たちに、過去に犯した罪を罪としてちゃんと引き受けさせた上で、弟子たちが弟子として歩むべき未来を示す。そして、今とこれからを一つの繋がった道としてくださるためのものです。主の挨拶の言葉を聞いた弟子たちは、神の愛が確かに私に注がれていたことを思い起こしたに違いありません。そして、今もなお、神の愛は隠れ閉じこもることしかできない惨めな私に、注がれていることを実感したはずです。弟子たちは、命の危機の中にあって、ゆるぎないみ声を聞きました。だから、弟子たちは再び主を見て「喜んだ」のです。
   
神との出会いを再び喜ぶことができるようになった弟子たちは、キリストの奉仕者として派遣されます。キリストは、派遣する奉仕者に新たな力を与えるために、命の息である「聖霊」を吹き込まれました。創世記が、土の塵からつくられた最初に人間に、神が命の息を吹き入れ生きる者とされることを伝えたように、今度は、復活のキリストが弟子たち一人一人に、弟子集団である教会に、命の息「聖霊」を吹きかけられます。キリストの息をこの身に感じた弟子たちは、主がすぐ傍にいてくださることを経験し、実感したに違いありません。弟子たちを支配していた恐れから解放し、魂の抜けたただの肉となりつつあった体を、キリストの息において「聖霊の宮」へと変えられたということです。永遠の命を得た弟子たちに、与えられる新たな使命は「罪の赦しの福音を伝道する」ということです。私たちキリストの教会は、ヨハネの時のユダヤ教のように、危機と困難にあっても、誰かを迫害したり排除して遠ざけるような道をとりません。キリストの教会は、どのような試練の時も「主の祈り」を祈る道を行きます。「我らに罪を犯した者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と、共に祈りを合わせます。礼拝の中でも日々の中でも、この一番、私たちには重く難しい祈りを、祈って生きるのがキリストの教会です。主の祈りを教えてくださったキリストが、裏切り者の弟子たちを、迫害と困難に耐えることのできなかったキリスト者を、そして、今、この世界にあって不安があり、気落ちして、主の日の礼拝に歌声をもって主に応答することのできない私たち教会を、赦し、慰め、励まし、命の息を吹き込んでくださるからです。キリスト者の平和は、苦難を通過した喜びと結びついているのは確かなことです。聖書は、時に人間には苦難が必要であること、そして必要な苦難を通過することで、神は人間を、神の側から探し出し呼びかけてくださることが伝えられています。このことについて、今日の旧約で詩編の祈り手は「迷い出る」という言葉を使っています。しかも、この迷いは神に対して意図して背くことを言っているのではなく、目の前に悪い道が現れると私たちはすぐにどうしたらいいかわからなくなってしまう。途方にくれ、自分が確かに歩いて来たはずの道を見失ってしまう。私たちは、常にそういう状態に置かれている者だから、神の言葉を心の真ん中に蓄えておく必要がある。私たちが、拠り所とするものを失うことがないように祈る必要があるのだと、詩人は言っています。今日の弟子たちの姿は、まさに、この迷い出た者の姿を伝えています。それは今の私たちの姿と重なります。迷い出た私たちは、祈りが聞き届けられないと思うばかりではなく、祈りが停止し、神が近くに居られるという思いがもはや慰めともならず、神に見捨てられた思いが、魂を冷たい疑いへと駆り立てるということもあるでしょう。けれども、この弟子たちの迷い出た姿は、自分に宿っている罪を自覚したからのものだと、私には思えます。弟子たちが部屋を暗くし、心を暗くしていたのは、自分の弱さを認め、自分たちは間違った、躓いたという罪の自覚があったからです。私たちの神は、そういう迷いだらけの私たちの日々に、鍵をかけたはずの扉をも突破して介入してくださいます。しかも、キリストは甦りの体を持って、私たちの真ん中に侵入してきてくださり、石のように硬くした心を破壊し、平和の挨拶をもって命の息を吹きかけ、私たちをも甦らせてくださるのです。私たちの神は、何度でも私を赦し、何度でも罪を取り除いてくださって、迷い出た者に喜びを思い起こさせる神だということです。
   
今、それぞれの場所で礼拝を捧げている友が数多くいることを私たちは知っています。誰もが、この場に集い、復活の主を賛美したいと思われていることでしょう。ですが、復活のキリストは、今ここにいまし、また、教会に連なる愛する私たちの友の今いる場所に直接訪ねて下さり、等しく「あなた方に平安があるように」「平和があるように」と、聖霊の息吹をもって語りかけてくださっていると信じます。人間と地球の将来が暗いように見える時、見通しが悪い時でも、それでもなお、信仰に生きようと思うことができたなら、復活者が私たちの生を支えてくださっていることを、どこにあっても感じ取ることができます。今の私たちには、迷いがあり、様々な不安、恐れがあります。しかし、主キリストは迷い出たご自分の弟子一人ひとりに、教会に、再び生き生きとした生を与えようと、命の息を吹きかけ、復活の喜びへと私たちを招いてくださっています。苦難のあとに、再びキリストを発見する「迷い出た者の喜び」が、必ずあります。この喜びを、私たちから取り去ることは、何者にもできません。祈りを合わせましょう。
   
聖なる神。キリストの十字架と復活によって、私たちが新しく生きることができることを感謝します。聖霊に励まされ、どのような戦いがありましても、どのようにこの世が変わっても、あなたの恵み分かち合いながら、あなたの言葉に留まり続け、互いに愛し合いながら、日々、平安に過ごすことができますように。この教会に、罪の赦しの福音を宣べ伝え続ける力を、聖霊によって与えてください。あなたの平和が、実現しますように。「マラナ・タ」、「主よ、おいでください」。主の御名によって祈ります。アーメン。


(2020年4月19日礼拝説教)


 
説教集インデックスに戻る


Copyright (C) 2020 Shinanomachi Church. All Rights Reserved.