今日共に聴きました御言葉には、神の厳しい審きが鮮明に語られていました。
預言者イザヤは、活動の中心地であったエルサレムの問題に集中して、エルサレムの民が罪に陥った状況を悲しみ、その堕落を見て“どうして?”と神の嘆きを伝えます。イザヤは“ああ、どうして”と嘆きつつ、今、現実に、神の目に映る民の姿を「遊女」「人殺し」に譬えます。何故なら、本来エルサレムは、神がダビデの家系を通して、正義と公平で統治した忠実な町であったからです。しかし今、エルサレムは、この世の富と権力のために神の正義と公平を、地上の支配者に売ってしまっているのです。
ここでイザヤの言う「正義ツェダーカーhq'd'c.」は正しい行為の原理であり、「公平ミシュパートjP'v.mi」は正義の原理の具現化・具体化です。神がエルサレムの民に与えた「正義」と「公平」、神の原理である「愛」と「公正」を売り渡した者たちへ、「災いだ、わたしは逆らう者を必ず罰し、敵対する者に報復する」と神は審きの言葉を告げられます。しかし続く25節に目を向ければ、神は「手を翻し」とあります。神は“その手を再び私たちに向け、再びその御腕を伸ばして、私たちを助け出して、避け所を用意してくださる”と言われ、神はその審きを、直ちには、実行はされません。神の審きの告知は、神を信じる者たちと信じない者たちを識別するものであり、そしてまた、どちらの道を進もうとするのか、その選択を迫ります。
神は私たちを、常に新たに下される審判の中においてなお、恩寵による猶予を示されます。預言者イザヤは、私たちの前には常に審きが置かれているという現実を告げながら、そのことと同時に、神が私たちの回復を待たれる方であるという希望を伝えています。私たちの神は裁きの言葉を語りつつも、私たちが御言葉に立ち返る、その時を片時も目を離さずに待っておられるのです。
今日読みましたもう一つのテキスト、ルカによる福音書もまた、神の「正義」と「公平」、その原理としての「愛」と「公正」についての教えであると言えます。終りの日、終末を前に、真の悔い改めを促すキリストの慈愛に溢れた教えです。
13章は「ちょうどそのとき」という言葉で始まります。この言葉は直訳すると「同時に」ですから、今日のテキストの前にある12章で語られていたキリストの教えは、まだ終結していません。この時に至るまでのキリストの言葉を振り返ると、12:46以下には、「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」、とあります。そして56節の後半で「どうして今の時を見分けることを知らいないのか」と、時の理解を求め、続く57節では「あなた方は、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と、キリストは強く、正しい行為を具体化するようにと勧めます。“審きの時が正に来ようとしている、だからあなた方は、今がどのような時なのかを自らが見分け、目を覚まして祈りつつ、その時に供えるように”と、キリストは今朝、私たち一人ひとりに求めているのです。
このキリストの時と行為への理解の促しは、福音書の文脈では十字架以前の時ですが、キリストは明らかに十字架と復活を見越した「教会の時」を視野に入れて語られています。教会の時とはキリストの復活、そして昇天から再臨までの間、そういう中間時に、今、私たちは置かれている、ということです。今日のイザヤの言葉によれば、27節にある「悔い改める者は恵みの御業によって贖われる」ときであり、私たちの心の態度によっては、続く28節にあるように「打ち砕かれ、断たれる」ということです。今が「ちょうどそのとき」だということです。
13章の冒頭で福音書記者ルカは二つのニュースを告げます。前者は人間の行為によって加えられた災害であり、後者は自然的原因による災害です。
前者はローマの総督ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜたという出来事です。ガリラヤ人とはガリラヤ地方に住むユダヤ人のことで、この時代、ローマの支配に対する抵抗運動を展開したと言われています。そういう状況にあってエルサレム神殿に犠牲を献げに来たガリラヤ人の何人かをピラトはローマに対する反逆者と見做して殺害し、ユダヤ人の聖所を汚し、屈辱を与えたのだと思われます。つまり、支配されているユダヤ人が、支配するピラトに抵抗し、弾圧されるという出来事です。このようなことはイエスの時も、今この教会の時にあっても、いつでも起こり得ることです。このピラトの下でキリストも十字架に付けられていくのです。
更にもう一つのニュースがキリスト自らの口によって報告されます。シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだという事故のことでした。シロアムとはエルサレムの市街南東に造られた飲み水を貯めておく池のことだと言われています。ピラトはエルサレム市内に十分な水を供給できるようシロアムの池で水道工事を進めていて、その際、この塔が倒れたのではないか、と学者は推測します。その事故で18人もの人が亡くなったというのです。事故は何時、何ん時、起こるか分かりません。死は誰にでも不意に襲い掛かってきます。ですがこのニュースを聞いた人たちは、無責任な噂話を鵜呑みにしていたようです。犠牲になった人は罪深い者だった、だからそういう目に遭ったのだと思い込もうとしていたのでしょう。こういうことは私たちにもあります。自分はただの傍観者になって無責任な噂話を鵜呑みにする、そして言い広めるのです。結論を急ぎ、原因をこじつけて自分を納得させる、早く決着したと考える、私たちはそういう誘惑にかられます。誰にとっても人生は不確実で死は予測不可能です。ですからこの二つのニュースについて、“犠牲となった当事者が、罪深いものだったからだと思うのか”、とキリストは厳しく問うのです。キリストの問いへの答えは、“決してそうではない”、ということです。「決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、ここに繰り返されるキリストの言葉から厳しい警告が為されていることを私たちは聞き漏らすことはできません。キリストは何時の時であっても、私たちに現実の出来事を通して自分自身の心を見つめるよう厳しく警告するのです。どのような状況、どのような現実にあっても自分の心、その態度を見つめ、神の支配を望む、そのことが信仰者の姿勢であるからです。
全ての出来事について、御心は何であるのか、それは自分にとって何を意味するのか、という実存的な問いをもって受け止めて、初めて神の「正義」と「公平」、神の「愛」と「公正」に想いを向けるという道が開かれるからです。そしてその時に、まず私たちがすべきことは、自分自身の罪の深さを問題にするということです。私たちは何が正しいか、何が事実なのか、御言葉に聴き従って判断しなければならないのです。今も生きておられるキリストの言葉を聴くためにこの礼拝堂に集まっている私たちが、どう生きるかが問題だからです。
キリストは苦しみの原因や理由を探りそれを取り除くことで救いを得ようとするのではなくて、“自分自身の心をしっかりと神に向け、神と相対しなさい、御言葉を求めなさい”、と言っておられます。それはつまり、キリストに応答し、キリストとの交わりを経験し、キリストの中に流れる命を頂くということです。悔い改めるとはそういうことです。苦しみの中での救いは、苦しみの原因を探り求めることによってではなくて、神と真剣に向き合うことによってこそ与えられるのです。まことに悔い改めるとは、自分の理屈によって納得できるかできないか、ということをやめて、主なる神の御支配を認め、それに服するようになるということです。
キリストはそのことをさらに明確にするために、神の本質、神がどういう方であるかを6節以下で、一つの譬え話によってお語りになります。
ぶどう園はイスラエルの民です。イスラエルではぶどう園の空きスペースにいちじくの木をはじめ、実のなる木をいろいろと植えるのだそうです。たまたま、ぶどう園に空き地があってその土地を遊ばせておくためにその木を植えたのではありません。いちじくの木を選び取って、実を結ぶことを期待してそこに植えられたのです。しかし同時に、この期待に背くのがいちじくの木です。この譬え話は、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」、と始まります。収穫の時は終りの日の審きの時です。そして神が期待する収穫とは主の慈しみに生きる者です。しかし持ち主が実を探しても見つかりませんでした。
私たち教会はどうでしょう。真の悔い改めの実を結んで神の愛を証しする群れとなっているでしょうか。自分の利益のために人を殺し、罠を掛けながら自分は正しいことをしていると思い込んではいないでしょうか。私たちは本当に神に赦されるに相応しい者に変えられたのでしょうか。私たちは今、そういう審きと赦しの間に立たされているという自覚に生きなければなりません。
3年待ったけれども一度も実を実らせない、それはなかなか悔い改めようとしない頑なな人間の姿です。そのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさいでおくのか」と言います。神の怒りと審きがここに語られています。
ですが、この譬え話は園丁が登場します。園丁は“できる限りのことをするから切り倒すのを一年待って欲しい”と、主人に懇願するのです。いちじくの木が切り倒されないですんでいるのはこの園丁のおかげなのです。しかしそうは言っても、来年までに実を結ばなければ切り倒されるのです。今はそういう時なのです。
ぶどう園の持ち主は、この園丁の頼みを聞いたのか、聞かれなかったのか、その結末をルカは書き残しませんでした。この結末は、私たちがキリストの言葉に従って生き、信じて忍耐強く、生涯をかけて生き抜いてみなければ分からないということでしょう。ですが、今、この時も、園丁は私たちの周りを掘って肥やしを与えてくださっているのです。ですからこれは単に審きの時の延長とか危機の回避といったものではなく、その危機的と思える状況にこそ神の恵みが現れる、苦難と思える時が恵みの時に転換される、そういう時であるということを示しています。たとえこの木が目に見える実を結ぶことが出来なくとも、木の周りを掘って肥やしをやる、そして切り倒そうとする者との間を執りもってくれる園丁が今、ここに共に居てくださるのです。充分な時間と手間をかけてなかなか実を結ばないいちじくの木を信じて、信頼して、必死になってくれる園丁が居るのです。
ぶどう園の主人の、それはつまり、神の怒りと審きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執成しをする園丁、それは悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神との間に立って執成しをしてくださる主イエス・キリストだと言えます。
ですが、それと同時に、今日与えられたもう一つのテキストであるイザヤの言葉に照らすなら、悔い改めない、神の言葉に立ち帰ろうとしないイスラエルの民に審きを告げつつも、恩寵によって忍耐され、猶予を与えてくださる神の言葉であるとも思えます。
「切り倒してしまえ」と断罪する、そういう宣告をする一方で、もう一つの声、赦しの声が聞こえてきます。「今年もこのままにしておいてください」、これもまた私たちの神の声ではないでしょうか。この大いなる矛盾、その神の審きと赦しの間に執成しの主としてイエス・キリストが立ってくださっているのです。主イエス・キリストによる救いの業の根本には、父なる神の忍耐の御心があるのです。ですから私たちも、良い実を結ぶためには、目には見えない遥か先の世代のことを考えて、神の御計画を信じて歩み出すのです。やがて、実を結ぶことを望み見て、主に信頼して新しい一歩を、悔い改めの一歩を踏み出すのです。
実を結ぶとは、必ずしも目に見えるものではありません。結果を出すことに捉われることなく、ただ主に信頼して、主が御言葉によって養ってくださることを信じて、その「翻してくださる主の御手(1:25)」に全てを委ねて、今日この時から、終りの日を目指して悔い改めの一歩を共に歩み出したいと切に思います。祈りましょう。
聖なる神、あなたの期待にお応えすることが出来ず、良い実を結ぶことが出来ない私たちを赦してください。しかしあなたが、そのような私たちを見捨てることなく、今も、ここに居てくださることを示していただき、心より感謝いたします。私たちが、目に見える結果に心奪われることなく、あなたから託されている使命を果たすために生きることが出来ますように。審きと赦しの間に、私たちがそこにあることを、真の悔い改めに導いて、永遠の命を与えてくださいますように、主の聖名によっていのります、アーメン。
(2019年2月17日礼拝説教)
|