先ほどお読みいただいた旧約の預言者イザヤの強烈な預言の言葉、この預言がなされた時代はイスラエル全体を暗さと悩みが深く覆っていた時代でした。即ち、軍事強国アッシリアの支配下に置かれた同胞北王国に続いて、シリア・エフライムの脅威に曝され、アッシリアの軍事力に頼った南王国ユダ、イザヤはこのユダ王国の中心エルサレムの上流階級の出身の預言者でした。しかしそのユダ王国もアッシリアの属国としてしか国としての命を存続させることが出来なかった時代、“アッシリアの平和”と言われる、おそらく紀元前700年頃の預言だと考えられています。
さて、イザヤは、ダビデの家系から一つの若枝、即ち一人のメシアが到来することを預言しています。イザヤはかつてシリア・エフライムの脅威に曝された時、アッシリアの軍事力に頼ろうとしたダビデ家の王アハズに、いたく失望した経験がありました。イザヤは現実の王とは対照的な理想的な王の到来を期待し、イザヤ書9章にある“インマヌエル(7:14)”―“みどりご(9:5)”―と呼ばれる男の子の誕生、即ちメシアの到来を預言しました。そのメシア、現実には王ヒゼキヤと考えられていますけれど、この王は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君(9:5)」と特徴づけられ、そして「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない(:6)」と、この王による永続的な平和を切望しています。そのメシアとは「主の霊に満たされ(:3)、正義と真実をもって、正当な裁きを行う(:5)」と言われています。
メシアに主の霊が注がれるというのは、特別な使命を帯びた者として召されということです。イスラエルの指導者として召された者には、しばしば、この主の霊が注がれて、特別な力、即ちカリスマが与えられます。かつてダビデがサムエルによって油注がれた時、「主の霊が激しくダビデに降るようになった(Ⅰサム16:13)」と記されています。主イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、「霊が鳩のように降った(マタ3:16並行)」と、そのように新約聖書は記しています。
冒頭にある「エッサイ」というのはダビデの父のことですけれども、かつてこのエッサイという、ちっぽけな家からダビデという主の霊が注がれた偉大な王が出たように、その株から再び理想的なメシアが出ると、そのようにイザヤは預言します。
このメシアはイスラエルのその後の時代においても特に、イスラエルの危機的な時代においてその到来が期待されました。イザヤより約100年後の時代を生きた預言者エレミヤは、南王国、即ちユダ王国末期の混乱の時代にこのメシアを期待いたしました。エレミヤの預言、
見よ、このような日が来ると主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起す。
王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。(エレ23:5)
そのようにエレミヤはメシアを待望致しました。
また、イスラエルのバビロン捕囚の後、破壊された神殿を再興した時代の預言者ゼカリヤは、この神殿建設の指導者であったダビデ家の一人の王をメシアとして、若枝として期待しました。
万軍の主はこう言われる。
見よ、これが『若枝』という名の人である。
その足もとから若枝が萌えいでる。
彼は主の神殿を建て直す。(ゼカ6:12)
さて、先ほど、「油注がれた者」、即ちメシアに主の霊が降る、それが王たる者の資格のようなものだと、そのように申しました。今日の聖書個所では、その「主の霊がとどまる」と言われています。これは勿論一時的なことではなく、継続的な状態のことを指します。一時的に降っても、あのサウル王のように、後になって悪霊に振り回されるようであればそれは空しいものです。「霊」というのは、イスラエルの士師たち、士師というのは王国成立より前、王のように対外的困難の際に、民衆の指導者となった者たちのことでありますけれども、その士師たちに与えられた霊のように、ここでの霊も激しい戦闘能力といったものを与えるものではありませんでした。ここで言われている霊は「知識と識別の霊」、「思慮と勇気の霊」であり、さらに「主を知り、畏れ敬う霊」であると、そのように記されています。
ここでイザヤが最も強調しているのは、「主を畏れ敬う霊」ということです。たとえ新たに即位する王が、王が持つべき一般的資質というものを満たしていたとしても、この「主を畏れ敬う霊」を継続的に与えられていないとするならばそれは空しいとイザヤは言います。主を畏れることは知識の知恵の初めであり、また主を畏れることは宝だからです。
ここで言われている「畏れ」というのは多くの場合旧約聖書では名詞の形で、辞書的には神仏や年長者を敬い畏(かしこ)むこと、憚り、慎み、と言われている、そういう意味の「畏れ」であります。実は「畏れる」という動詞の形はイザヤ書に10回も出て参りますがけれども、いずれも敵である人、その人というのはアッシリアであったり、アラムであったりするのですけれども、その人を畏れることに関して使われ、そしてそうであるがゆえにしばしば「恐れるな」と言われています。これは明らかに「恐怖」「怖がる」という意味の「畏れ」であります。つまりイザヤの目の前にいるダビデの子である王、メシアと、そしてユダ王国の民は、真に畏るべきもの、敬い畏(かしこ)まるべきものを畏れずに、恐るべきでないもの、恐怖すべきでないものを恐れて、森の木々が風に揺れ動くように動揺していると、そのようにイザヤは言っているのです。
何回も何回も“恐れるな、信じなければあなた方は確かにされない(7:9:5)”と、そのように語りかけても彼らは信じようとしない.そこで神はその不信仰に対して、
そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される
主の森の茂みを鉄の斧で断ち
レバノンの大木も切り倒される(10:33-34)
という、そういう裁きを主はくだされようとしているのです。
そして、エッサイの木、即ちダビデ王朝も切り倒されるのでありますけれども、その“株から一つの芽が出て来て、それが若枝に成長する。その枝には主の霊が降るだけでなく、とどまり、王は何よりも主を畏れ敬う霊で満たされる”。そうであるがゆえに“審きは正当にして公平であり、正義と真実に満ちている”と、そのようにイザヤは言うのです。
イザヤはここで主の霊に満たされたメシアは人間に対して全く正しい審きを行うというだけでなくて、自然界全体にも全き平和をもたらすと、そのように言います。これはいささかユートピア的であって非現実的なように聞こえますけれども、イザヤは主の霊に満たされたメシアが到来するならば、自然界にも平和が実現すると、そのように確信していました。
現実においては動物の世界も人間の社会も弱肉強食の世界です。しかしイザヤは、このような現実は本来の神の創造の世界ではないと見ているのです。現実は権力者が貧しい人を虐げ、狼は小羊を餌食にし、毒蛇が子供を噛んで死に至らせている、しかしこのような現実は決して本来の姿ではない、イザヤはそのように言います。
翻って初めの天地創造の時、人間にも動物にも食料として与えられたのは植物だけでした。ここには血を流すということは本来の在り方ではないという考えがあったのでしょう。人間に肉食が許されたのはノアの洪水の後、即ち、人間が動物を食べ、また動物も動物を食べるようになったのは、人間の罪の結果であって、本来はそうではなかった、私たちが当たり前だと思っているこの弱肉強食の世界は人間の罪の結果であり本来の姿ではない、聖書はそのように言っているのです。
ヘブライ人への手紙は詩編40篇を引用してこう言います。
キリストは世に来られたときに、神に向かって次のように言われたのです。
あなたは、いけにえを望まず、
罪を贖うためのいけにえを、好まれませんでした。
あなたが望まれること、
おお神よ、それはあなたの御心が行われることです。
ご覧ください、神よ、
わたくしは来ました、御心を行うために。
そして、ヘブライ人への手紙の著者は言葉を継ぎます。「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのは、神のみ心による」と、そして神は私たちにこう告げていると、
もはやわたしはあなた方の罪と不法を思い出したりはしない(:17)、あなた方に告げる、イエス・キリストの名によってあなた方は赦されている、だからベッドを片付け歩きなさい、起き上がって顔に香油を塗りなさい、あなたの戦いは終わっている、あなたの罪は赦されている、イエスが成し遂げたことの故に私たちは喜んでこう言う、赦しのある所、もはやいかなる犠牲も必要ない、もはや血を流す必要もない、あなた方に告げる、イエス・キリストの名によってあなた方は赦されていると。
イザヤは最後に、主の霊を与えられた終末時のメシアが現れる時、自然界も天地創造の時のような理想的な姿になる望み、その望みを高らかに謳っています。「その日が来れば(11:11)」、「その日が来れば」と、しかしどうしてそのようなことが言えるのでしょうか。
私たちはあの2011年3月11日の出来事によって、自然界が天地創造の時のような理想的な姿になることとは逆の世界を目の当たりにしました。そして私たち人間が自然の中で、その領分をわきまえて本当に人間らしく生きようとするなら、神の似姿として創造されたままなる被造物として生きようとするならば、これまで地球を支配し、収奪し、また宇宙にまで支配権を広げようとする人間の自己膨張、あるいは自己拡張、そのような人間の思い上がりに対する根本からの悔い改めを迫られました。
イザヤが望む真の平和、主を畏れ敬うことによって造り出される神との正しい関係における平和、自然との平和というものは未だ実現されてはいません。否、むしろ、私たち人間の罪によって大きく阻まれているのです。にも拘らず、「その日が来れば」とイザヤは言っています。
イザヤは彼の時代と遥かに時を隔てた御子イエスの到来を指し示しています。このキリストこそがイザヤが真に待望していた救世主、また私たち全ての希望にほかなりません。
私たちは主を知る知識、即ち、主を畏れ敬うこと、主に信頼し、主に従う意志において本当に乏しく至らない者たちです。そして夕暮れのように展望がなく、救いなく喜びがない、それが、私たちが生きる今の時代を深く覆っている状況です。しかし、今、切に待ち望むクリスマス、私たちは確信をもって次のように言わなければなりません。
神は私たちがどうなっても構わない、私たちとかかわりなくあろうとされる、そういうお方では決してない、むしろ神は私たちを存在へと至らせ、重んじ活かし、私たちをご自分のパートナーとして立て、そして用いてくださる、神は私たちと軛を共にされると。
クリスマス、神が決して私たち人間なしであり給うとされない、人間の問題を、自然をも含めた被造物世界全体の問題をご自分の問題とされる、その決意の表明、それがクリスマスだと、そのように言うことが出来るのではないでしょうか。
今朝のイザヤ書の最後、「そのとどまるところは栄光に輝く」とあります。イエスが生まれた時、正に、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしました。その救い主、イエス・キリストの誕生を喜ぶクリスマス、一度(ひとたび)キリストが誕生されるなら,あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わると言うことが出来るし、悲しんでいるようで常に喜び、どんな苦難の内にあっても喜びに満ち溢れていますと、聖書と共に語ることが出来ます。また御言葉により、そのように生きることが出来ます。だからこそ神はキリストをこの世に生まれさせ、私たちのために与えてくださるのです。お祈りします。
主なる神さま、語った言葉を聖霊の働きによって活けるあなたの御言葉としてください。
私たちは、あなたを知る知識、あなたを畏れ敬うことにおいて、本当に乏しく至らない者たちです。にも拘らず、あなたは御子キリストにおいて、私たちを存在へと至らせ、重んじ、活かし、ご自分のパートナーとして立てて用いてくださいます。その御子キリストを待ち望むアドヴェントの時、私たちの想いをいよいよ切なるものとしてください。
主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。
(2018年12月16日礼拝説教)
|