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 2018年11月11日 礼拝説教  【悔い改めにふさわしい実】 佃 雅之

イザヤ書40章1-8節、ルカによる福音書3章1-14節



キリストの生涯を伝える福音書は四つありますが、夫々に特徴があり、伝えたい出来事への力点に違いがある場合が見られます。このことが、福音書が四つ存在する理由であるとも言われます。福音書記者たちはキリストの御生涯を十字架と復活、召天の後、時が進み時代が移り変わる中にあっても、その現実を引き受けて、語り継がれた神の言葉によって、多層的に理解して、リアリティーを伴って甦らせています。今朝はそういう思いに心を向けながら、『ルカ』という名の福音書記者の視点に立って、キリストの公生涯の始まりを告げるために、神がその使者として派遣された洗礼者(バプテスマ)のヨハネの語る説教に聴きたいと思います。
   
   福音書記者ルカは、このテキストの冒頭、注意深く配列した時間的資料と地理的資料によって洗礼者ヨハネの時をはっきりさせたうえで2節の終わりに、この福音書にしか記されていない、他の福音書にはない決定的な言葉によって洗礼者ヨハネを私たちの救いの歴史の只中に登場させます。それが「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った(3:2)」という一つの真実です。この「神の言葉が降った」という表現は旧約には数多く見られますが、新約聖書の中ではここに在るだけです。ルカはヨハネという人を、単に、バプテスマを授ける者、または、キリストの先駆者として立たせようとはせずに、ヨハネは神から預言者として任命され派遣された者であることをはっきりさせようとしています。その理由はいくつかあるようです。一つには、ヨハネがこの時、派遣されるまで世界は長い神の沈黙が覆っていました。預言者は絶え、久しく現れませんでした。しかし1節にあるように、皇帝ティベリウスの治世15年、紀元28年ないし29年と定めることが出来るこの時に、神の言葉がヨハネに降ったことで神の沈黙は終わり、生ける神はこの時から再び語り始められた、ということです。そういう驚きと喜びをルカは伝えようとしています。
   
   もう一つは、“荒れ野から福音が始まる”、ということです。“荒れ野”と聴いて私たちが思い起すのは、“イスラエルが約束の地を目指してエジプトを脱出した後に40年放浪した”という出来事でしょう。この時、民を導いたのは預言者でした。旧約で「荒れ野」は“神の啓示の場所”、“神の民の訓練の場所”、“神の審きによって鍛え抜かれ、新たに神の民が形成された場所”です。“荒れ野で預言者を通して神の言葉を聴く”というイスラエルの原体験、救いの原体験がもう一度、ここに始まるのです。
   
   福音書が書かれた当時、ルカの教会にはキリスト来臨の遅延によって混乱があったと言われています。ルカはこの時、その混乱を暗に過去の習慣になぞって改革しようとはしませんでした。ルカの教会改革は聖書の示された救済史を、より丁寧に辿り直し、その上で、新しい回答を用意しようと努力し挑戦しようとするものでした。その努力と挑戦によってルカは一つの答えを導き出します。それは、“時を分ける”いうことです。福音書記者ルカは、“律法と預言者はヨハネの時までである(16:16a)”と断言して、“ヨハネの時”と“イエスの時”をはっきり分けて捉え直しているのです。過去の時と今日の教会の時を分離して、分けた上で、その中に積極的な関係、連続性を見出すことによってルカは教会を守ろうとしました。そのために何よりもルカは永遠に変わることのない神の言葉に立ち返ります。
   
歴史の変化は表舞台では支配者の交代、あるいはそれに伴う混乱に現れるものです。ですがこの世がどのような混乱の状態にあっても、その背後で神の計画、神の必然、その摂理、“この歴史を神が導いてくださっている”という神への信頼が何より大切だからです。私たちもまた、私たちに与えられた時代と共に、その背後にある、また今も、その先にもある目には見えない神のその働きを忍耐と謙遜をもって臨み見る必要があるということでしょう。

今日のテキストの4節の終わりから6節までは預言者イザヤの言葉ですが、今日読まれた旧約のテキストにはこの言葉の続きが書かれていました。ここで主は、私たちに“呼びかけよ!”と言われます。そして、“何と呼びかけたらよいのか”という問いに、“肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの”だと答えられるのです。活き活きとした活力に満ちて役立つ草も枯れる、美しく咲き誇る花もしぼむ、そういう時がくる、そういう時が必ずあるとイザヤは言います。しかしその上で、8節の終わりで、“わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ”ことが宣言されます。“神の言葉はとこしえに立つ”ということは、“神の言葉は変わることがない、永遠に存続する”ということです。預言者ヨハネは、そういう神の言葉によって主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにして、救い主に会うことが出来るようにと、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。

「悔い改め」という言葉はルカの重要な語句の一つです。「方向を転換する」、そういう意味です。元々の意味は「心を変える」「考え方を変える」ことです。では、何によって悔い改め、方向転換するのでしょう、それは永遠に変わることのない神の言葉によってであります。そして悔い改めるということは、5節にあるように「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」、それほどの変化が真の悔い改めということでしょう。
   
   当時の悔い改めは具体的な所作を伴う儀式でした。それは何も難しいことはありません。頭から灰を被り、神殿で犠牲を献げる、あるいはヨハネが宣べ伝えたように、身を洗い清めるという意味で水による洗礼を受けることでした。もちろん、儀式を行う時は形式も大事ですが、心から行われることが大切です。多くの人たちが悔い改めて新しくやり直そうと心から思ったに違いありません。そのためにヨハネの下に来て、集まった大勢の人たちは、そのバプテスマを望みました。しかし集まった群衆に対してヨハネの放った言葉は「蝮の子らよ、指し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と、まことに厳しい審きの言葉です。ヨハネは先ず、人間の奢りを打ち砕きます。

蝮は毒蛇です。狡猾で悪質で人を誘惑する者を象徴する言葉です。この言葉は、エデンの園での蛇を連想させます。野のあらゆる生き物の中で最も賢かった蛇がエヴァをそそのかし、アダムと共に神との約束を破るよう仕向けた物語です。この物語には自分の事だけを見つめ、自分の願い、欲望の現実ばかりを求めて生きる、そういう人間の根本的な罪がはっきりと描かれています。しかし私たちが自分自身を振り返る時、“私は蝮の子ではない”と顔を上げられる人はどれほどいるでしょうか。ヨハネの審きの言葉は、この時の人たちばかりではなく、今の私たちにも向けられた言葉です。

預言者ヨハネに与えられた神の審きの言葉は、さらに激しさを増します。9節では「良い実を結ばない木はみな、切り倒され火に投げ込まれる」とまで言っています。旧約の預言者たちが繰り返し語り続けた神の厳しい審判、その審きの宣言がいくつも思い起こされます。ここでヨハネが言っているのは、一つには“洗礼という儀式を受けさえすれば、それで罪が赦され神の怒りを免れることが出来る、という安易な考えを抱くな!”、ということです。心のない儀式、形ばかりの悔い改めは真の悔い改めではないからです。そしてヨハネの言う悔い改めには、この時すでにキリストへの信仰が含まれているのは明らかです。“悔い改めにふさわしい実を結べ(:8)”とは、これから来られる真の救い主に従い行くために悔い改めた者になって、そのことを日々の生活の中で証ししていく必要がある、ということです。

預言者の伝える言葉を受けた群衆は10節以下で、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と、繰り返し尋ねます。預言者とその言葉を聴く者とのやり取りは繰り返される対話によって救いへの道筋が示されていくのです。神に心素直に問いかける、これはとても大切なことです。神の御言葉を聴き、それによって自らの罪を示され、悔い改めを求められた者は、「わたしはどうすればよいのですか(:10)」と、神に問うのです。問いを抱くことが信仰への一歩となるからです。「悔い改めにふさわしい実を結べ(:8)」という勧めの言葉に対して、この問いが発せられたのですから、本当に悔い改めるとは具体的にどういう生活のことであるのかが、この問いによって示されます。
   
   先ほど、「悔い改める」とは、“神さまの方に心の向きを変えること、考えを変えること、そしてまた悔い改めた者として、そのことを日々の生活の中で証ししていく必要がある”と話しました。ですが私たちは、悔い改めるということを何か精神的な心の問題として捉えてしまいがちです。確かに儀式も含め心の問題は大切なことですが、心の向きが変わるということは、体を伴って生活全体が具体的に変わることです。「悔い改めの実」もまた心の姿勢と体の姿勢が連動したものでなければならないのです。内と外、心と体の一致が必要です。まことに心が変われば態度が変わる、生きる姿勢にも変化があるのです。
   
   ですがここで、預言者ヨハネの群衆の問いに対する応答は“蝮の子ら”とまで言った語気を忘れたかのように“下着や食料を分けろ、規定以上の税金を取るな、自分の給料で満足しろ”と、預言者の言葉としてはやや拍子抜けするものでした。表面的には道徳的な分かち合いの勧めにも聞こえます。しかし実際はそう優しいことを言っているのではありません。“下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ、食べ物を持っている者も同じようにせよ”、この言葉は、“余分に持っている物を互いに分かち合うように”という勧めではありません。荒れ野なら、夜ともなれば急激に冷え込みます。そういう場合に備えて、この土地の人は命を守るために着込むための下着をもう一枚持っていたのです。食べる物も余分にある食べ物ではありません。万一に備える必要な食べ物です。つまり、それらを分かち合うことは命の危険に直面する恐れすらあるということです。まして、善きにつけ悪しきにつけ、今まで当たり前のこととして行ってきた習慣を捨て、新しい価値観に生きるということは決して簡単なことではないでしょう。些細な小さなことほど変えることが難しい、当たり前と思える小さな良き業を行い続けることは決して容易(たやす)いことではありません。私たちはそのことをよく知っているのではないでしょうか。
   
   悔い改め方向転換し、神を信じ、人を愛して生きるということは、過去の自分を乗り越えて、“そこまでする”、ということです。ですがヨハネは、私たちが悔い改め、人生を新しくやり直すのに“徴税人をやめよ”、”兵士をやめよ”とは言いません。“持っている物すべて与えよ”とも違います。ヨハネはここで、今の仕事のままで、今の在り方のままでも、主の恵みを分かち合って生きることが出来るということを示しています。そのためには、日々犯してしまう自身の罪を、そういう人間の不完全さを、私たち自身の足りなさや弱さを認めることこそが必要だと言うのです。人は自身の罪を認めて、受け入れて初めて神の恵みに本当の意味で気付くことが出来るからです。神の言葉によって、今までは何もできなかった私が、自ら進んで分け与えることが出来る人に変えられていくのです。そしてこの神の言葉は、それぞれ個別に、誰か特定の人を対象に話したものではありません。今、預言者ヨハネの説教を聞いているすべての者に向けられています。
   
   「悔い改めにふさわしい実を結べ(:8)」、ここで言われている「ふさわしい」とは「支配されている」という意味です。「悔い改めよ」という神の言葉に「あなた方はいつも支配されていなさい」と預言者は言っています。“その状態が保たれ、変わることがないようにしなさい。そうすれば実を結ぶことが出来る”と言うのです。ここでの「実」という言葉は複数形で使われていますから明らかに共同体に向けられているのです。ルカの伝えるヨハネの説教は、“今、ここに心を新たに、教会が丸ごと悔い改めて、心素直に神に問いかけ、必ず応えてくださる神に立ち返って、忍耐と謙遜の態度を保って、連帯して働くように”と言っているのです。神がキリストにあって、私たちの人生を新しくしてくださらないはずがないのです。私たちは悔い改めて、悔い改めの共同体となって神の恵みを分かち合い、良い実を結び、主の栄光を表すことが必ずできるのです。
   
真の悔い改めを通して、私たちが気付かされることは、実はキリストこそが何時も、新しく、私たちの方に向かって、私たちに入り込んできてくださるというリアリティーです。キリストはいつも新たに、ほとばしる愛をもって“わたしを呼び、わたしを求めよ、そして生きよ”と語り掛けてくださっています。その御言葉を聴き、その御声を聴いて、主の名を私たちが宣べ伝える時、キリストが信仰によって生きようとする私たちの中に「永遠の命という実」を実らせてくださいます。
   
祈りましょう。

   
聖なる神、あなたがキリストによる恵みを注いでくださっていることを感謝します。どうか私たちがキリストの御怒りに会うことがないように真の悔い改めを成して、神に立ち返り、何時も主の名を心から呼ぶことが出来ますように。御言葉に立ち返り、その恵みを分け合い、私たちができる小さな一つひとつのことを、あなたの愛に応えて祈りをもって行うことが出来るよう聖霊が導き、御言葉がその力をお与えください。どうか悔い改めにふさわしい実を結ぶ者に、この朝、私たちを生まれ変わらせてください。主の聖名によって祈ります。アーメン。


(2018年11月11日礼拝説教)


 
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