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 2018年11月4日 礼拝説教  【来たるべき都を探し求めて】 笠原 義久

ヘブライ人への手紙13章7-16節



先ほどお読みいただいた『ヘブライ人への手紙』13章7節の言葉、
   
あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
   
この言葉は、御許に召されて在る私たちの信仰の先達の方々を記念しようと集められている私たちに向けられている最も相応しい勧めの言葉であると言えましょう。    
   この一年の間に天に召された教会の会員は次の方々です。
   
竹原  仰さん  2017年11月18日逝去
   
兼子 英子さん  2017年11月22日逝去
   
原田シズ子さん  2017年11月25日逝去
   
西塚  宏さん  2018年01月07日逝去
   
三好 洋子さん  2018年01月17日逝去
   
荒井美貴子さん  2018年02月17日逝去
   
篠澤 公平さん  2018年04月29日逝去
   
内田 里子さん  2018年05月02日逝去
   
蓜島 弘子さん  2018年07月07日逝去
   
行木 咲子さん  2018年08月22日逝去
   
菅野 沖彦さん  2018年10月08日逝去
   
以上の方々です。

さて、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。」 この「思い出す」というのは「思い起こす」「想起する」あるいは「記念する」ということです。主イエスがこの地上での最後の日、弟子たちと共に最後の晩餐の席に在って命じられた「わたしを記念するためこのように行いなさい(ルカ22:19)」、この「記念する」ということです。既に御許に召された者を「記念する」、信仰の先達が、その生涯を貫いて、正に全身全霊を以って表したことを過去の思い出とするのではなく、今また新しくここで聞かれるべきこととする、御許に召されて在る方々は今なお私たちに語り掛けている、その語りかけ、その言葉を、今ここで、聞かれるべきこととして「思い起こす」ということ、「記念する」ということの意味の一つはここにあります。

けれどもそれだけでは必ずしも充分ではないと思います。『ヘブライ人への手紙』の著者はさらに続けます。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と。
   
御許に召されて在る方々が生涯を掛け、地上に残した遺産は様々あります。生前、親しく交わりを許された者にとって、果してその遺産とは何であったかということを「思い起こす」のは大層意味の深いことであります。或る人にとってその遺産とは人間としての「真実」とか、「誠実」とか、そういう言葉で言い表すことも出来るでしょう。しかし、それらの根っこのところにある最大の遺産とは、信仰の遺産であったと思います。それは、いと親(ちか)しい者はもとより、教会にとっても、そのことは私どもが思う以上に大きなことでしょう。

『ヘブライ人への手紙』の著者は言います。「その信仰を見倣いなさい」、「汝ら、生くべし、信仰によって生くべし」と。これは今、地上にある私どもに対する信仰の旅路への促しです。勇気と希望とを新しくする、私たちの存在の基から湧いてくるような信仰への招きです。

ドイツの神学者ユルゲン・モルトマンの著書の中に次のような印象的なエピソードが記されています。それはモルトマンの個人的な経験でありますけれども、彼の親しい友人であった哲学者エルンスト・ブロッポが死んだ時のことです。モルトマンは直ぐ近くに住んでいるブロッホ夫人を訪ねます。彼女はモルトマンに近づいて来てただひとこと尋ねました。“彼は今どこに居るの?”、“死者はまだそこに居ます”と応えたかったけれど言葉が出なかった。モルトマンはその時学んだと言います。残された者たちにとってこの“何処に”という問いがいかない重要であるかということを。何故なら、残された者たちは、この“何処に”という問いに対する応えなしには、このブロッホ夫人が“私のエルンスト”と呼んでいたような、愛していた人との交わりをしっかりと持ち続けて行くことはできないからだと。

事は生きている者たちと死んだ者たちの交わりについての問いに係わって来ます。いと親(ちか)しい愛する人を葬り悼む時、私たちはその死んだ人の未来について問います。“死んだ人は何処に居るのか?”と、“死後の生というものは果してあるのか?”、言葉を変えて言えば“存続する生というものがあるのか?”、そして“そもそも存続する生とは、いったい何であるのか?”、そのようなこれは必死の問いであります。
   
旧・新約聖書は私たち人間と、この世の生きとし生ける全てのものを生かしている神の霊、聖書の言葉では「ルーアッハ?????」、ギリシャ語では「プネウマpneu/ma」と言いますけれども、その神の霊について語り、その“霊において神は不死である”と、言っています。人間はその不死である神の似姿として創造されました。ですから神とその似姿である人間との関係は、神が神であり続けるならば、人間の神に対する罪の反抗によっても、死によっても壊されることはない、人間が神の似姿であるということは変更することも破壊されることもなく、存続し続けるのです。もしそうでないのなら、時間や死の力の方が神よりも強いということになってしまいます。
   
聖書では、神の人間に対するこのような特別な愛の関係から出てくるものが「命」、「魂」、あるいは「霊」と呼ばれています。神のこの命の力は生きている私たちの生全体を充たしています。私たちの生全体とは、私たちの誕生から死に至る全生涯のことですから、神の命の力は私たちの全生涯を充たしていることになります。
   
『イザヤ書』43章1節はこう語っています。
   
ヤコブよ、あなたを創造された主は
   
イスラエルよ、あなたを造られた主は
   
今、こう言われる。
   
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
   
あなたはわたしのもの。
   
わたしはあなたの名を呼ぶ。
   
   この御言葉を教会は、病床で、また墓前で語ることがよくあります。

あなたはわたしのもの。
   
わたしはあなたの名を呼ぶ。
   
   人間をご自分の似姿に創造された神が、私たち一人ひとりをその名を以って呼んでくださる。葬儀の時によくお話しすることですけれども、「名」というのは、その固有名によってその人の本質を表わします。「真の正体」と言ってもよいでしょう。ですから、ここでは「名」ということによって、一人ひとり個別性をもった全生涯の姿、空間的、時間的全生涯の歴史のことが意味されています。私たちの全生涯の姿と全生涯の歴史が神によって呼ばれるということ、“わたしはあなたの名を呼ぶ”というふうにして、神によって呼ばれるということは、私たちの全生涯は、神と私たちとの関係において永遠であるということです。死ぬべき、過ぎゆく人間としての私たちは、しかし、死ぬことのない、また過ぎ行くことのない神との交わりにおいて、“死ぬことがなく、過ぎ行くことがない”と、そのように言ってよいのです。

 死は実際私たちの生の限界、終りです。けれども私たちへと向かう神との関係の限界・終わりではありません。
   
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
   
あなたはわたしのもの。
   
わたしはあなたの名を呼ぶ。
   
   語りかけ、呼び、そしてそのようにして私たちをご自分の語りかけのパートナーとしてくださり、最後に私たちを贖い救ってくださる神の私たちに対する関係は、それは永遠に留まり続けるのです。

こういう言い方も出来るでしょう。信仰によって私たちは主キリストにある神との交わりへと引き入れられています。積極的な復活の希望へと導き入れられています。そしてその希望によって、既にここで、来たるべき神の世界の永遠の命に与っているのです。実にその永遠の命を復活の御霊において、既に今、この世で、永遠の溢れる命として経験しているのではないでしょうか。

先ほどお読み頂いた『詩篇』90編で詩編詩人が嘆き悲しんでいるように、 我々の生は過ぎ、われわれは飛び去ります。如何なる瞬間をも私たちを留(とど)めおくことは出来ません。全ては過ぎ行きます。私たちは裸でこの世に行き、そして裸でこの世を去っていく、死において全てがおしまいになる、これが私たち人間の厳然とした事実です。
   
   けれども同時に、何ものも消えゆくことはない、全ては神において存続するのです。私たちは死ぬべき存在でありながら、神によって死んでも生きる者とされている。『ヨハネによる福音書』11章25節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」、私たちの過ぎゆく生が、キリストにあっては消え去ることのないものであり続けるのです。『ルカ福音書』が「神にあってはすべてのものが生きている(20:38)」と記している通りであります。
   
   先ほど発せられたあの“彼は今、何処に居るの?”という問いに戻りましょう。私たちが死者と呼んでいる人々は消えてなくなったりはしません。その人たちは私たち生きている者たちと一緒に居るのです。同じ希望の中に守られ、それ故、私たちと共に神の未来への途上に居ます。その人たちは私たちと共に目を覚まし、私たちはその人たちと共に目を覚ましています。それは死んだ者たちと生きている者たちの、そしてまた生きている者たちと死んだ者たちとの希望の交わりです。生きている者も死んだ者も、共に、主キリストの復活に与っている、即ち、体、私たちの存在全体が贖われ、そのような者として御国の世継ぎとされる、そういう約束を、生きている者も死んだ者も共に与えられているのです。

  私たちが御国の世継ぎとされている、これは実に大変なことです。そのことを「想起する」こと、新たに見出すということは私たちの希望を新しくし、また今この世にあることの責任と勇気とを新しくします。ここでの希望というのは、キリストにおける希望であって、自分の願望が叶うのか叶わないかというようなことを超えたものであるということは確かです。そしてその希望というのも、体の甦り、私たち存在全体の甦りへと繋がるような、そういう徹底した全体的なものなっているかどうか、そのことが問われなければならないと思います。

『ヨハネの手紙一』に次のような件(くだり)があります。
   
わたしたちは今や神の子である。しかし私たちがどうなるかまだ明らかではない。彼が現われるとき、わたしたちは自分たちが彼に似る者になることを知っている。その真のお姿を見るからである(3:2)。
   
   つまりその時、私たちはキリストに似る者となり、キリストの栄光の体と同じ姿に変えられる、そのように約束されています。それ以上のことは私たちには分らないし、今はそれで充分だと、そのように言うべきでしょう。むしろそのことの光栄に慄(おのの)く思いがします。

そして最後に確認したいことは、召された者も、今、地にある者も、共に神の愛の内に置かれているということです。

   『ローマの信徒への手紙』8章38節から39節を「祈り」として献げ、終わります。
   
祈祷

   
   
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。アーメン。


(2018年11月4日礼拝説教)


 
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