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 2018年10月28日 礼拝説教  【キリストに贖われた共同体】 笠原 義久

出エジプト記24章3-8節、ヘブライ人への手紙9章15-28節



今朝の『ヘブライ人への手紙』9章は、偉大な大祭司であるイエス・キリストを主題とする4章の終わりから語られてきたこの手紙の中核をなす議論のいわばハイライトに相当する部分です。この箇所の重要な特徴は、大祭司イエス・キリストについてのいわば神学的な議論というものを、私たちキリスト者のこの世での生き方の根拠と密接に結び付けている点にあります。“何が私たちのこの世での生活を決定づけるのか”、これが今朝のメイン・テーマであります。まずは著者が語っていることを少し丁寧に見ていきたいと思います。

ヘブライ人への手紙の著者はこれまで二つの章にわたって、古い契約と新しい契約という新旧の契約を比較しながら話を進めてきました。ところが言葉の一種の“語呂合わせ”と言ってよいと思いますけれども、これまで「契約」という意味で使われてきた言葉を、「遺志・遺言」の意味に転換しています。新約聖書のことを英語で“New Testament”、即ち“新しい契約”と言いますけれども、この“testament”という言葉は「遺言」という意味でも使われています。元のギリシャ語も同じであります。ヘブライ人への手紙の著者は、このちょっとした言葉の洒落を通して、“遺言はそれを作成した人が死んで初めて有効になる(17節)”と言います。即ち“遺言状は死があるまでは無価値で無効な一枚の紙切れにすぎない、正にそれと同じように契約も死があるまでは全く取るに足りないものである、このことは最初の古い契約にあてはまる、そして確実に新しい契約にも妥当する”、そのように言うのです。

あのシナイの山で、死の犠牲に相当する出来事によって最初の古い契約は成立しました。お読みいただいた出エジプト記にあるように、その時モーセは、犠牲の動物の血を巻物と幕屋と礼拝のために用いる器具とイスラエルの民全体とに振りかけてこう言いました。“これは神があなた方に対して定められた契約の血である”と。この最初の契約を後押しする律法の下では、ほとんどすべての清めの儀式は、死と犠牲と血の使用を必要としました。そして著者は契約と死とが切っても切れないほどしっかり結び合わされているという最も大事な点を読者がしっかり捉えることが出来るように、古代からよく知られ、また読者にも馴染みのある言葉を引き合いに出します。“血を流すことなしに罪の赦しはありえないのです”、と。

聖書は「赦し」ということについて多くの例を挙げてこれを説明しようとしています。その中には、死がなくても赦しが生じる、そういう例も含まれています。“ケーキを作りたいなら卵を割らなければならない”、そういう西洋の格言があります。“ケーキを作りたいなら卵を割らなければならない”、この格言と同じ論理の筋道で問題の核心を突く説明を引き出そうとしているように思われます。“契約が本当に必要ならば、それは高くつきますよ”、ということです。特に“新しい契約の、あの大きな神の慈しみである人間の赦しには実に重大な代価が伴う”、そういうことを著者は言わんとしているのでしょう。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ないのです。このことを著者は既に15節、16節で仄めかしています。

さて、著者は、今、お話ししたように、古い契約がどのようにして動物の犠牲をもって始められたか、ということを描きました。そしてそれに続いて今度は、新しい契約の側に移動して詳しく語りだそうとしています。“古い契約の下での犠牲の祭儀、即ち礼拝は本物ではなかった”、と言うのです。それは天における礼拝を真似て倣ったものであった、天にあるものの写しに過ぎなかった、その写しである礼拝においてさえ、犠牲である動物の血は欠くことのできないものであった。まして天に在るもの自体、即ち、真の礼拝には犠牲の動物に勝る犠牲が必要になるということは言うまでもないことではないかと、そのように論理を展開するのです。そしてその更に勝った生贄についてもっと立ち入って描くために、著者はこれまでにすでに展開してきた多くのモチーフをここで再現します。イエス・キリストは人間の手で作られた荒れ野の天幕にではなく、神が玉座に座っておられる天そのものに入ったということ、そのことを私たちは再び聞くことになります。

またイエスは、古(いにしえ)の大祭司が何度も繰り返し、毎年毎年、天幕に戻って、そしてそこで犠牲を献げなければならなかったのとは異なり、最もふさわしい決定的な生贄をイエスはただ一度献げたということを再び語るのです。イエスは果てしなく続く磔にされた状態、苦難の終わることのない循環、一連の果てしない決して終わることのない償いをここで宣告しているのではありません。そうではなく、“贖いの業は直ぐになされ、そして完了し、完全である”、著者はそのように言うのです。イースターの時に歌う賛美歌にあるように、    
争いは過ぎ、戦闘は終わった。    
命の勝利が勝ち取られた。    
勝利の喜びの歌が始まった。ハレルヤ。    
“イエスはただ一度、身を献げた、それは多くの者を救うに充分であった”と言うのです。

著者が地上の幕屋、即ち神殿で行われてきた度々の、また繰り返し、繰り返しの犠牲と、このイエスによるただ一度の犠牲を対比するのは理由があってのことであります。手紙を宛てている教会の人々の間でキリストの犠牲のリアリティーが乏しく感じられ、人間的な行為や儀式によってキリストによる罪の贖いのリアリティーを補い足そうとする、そういう人々が居たからでしょう。“救いのためにはキリストの犠牲ともう一つ何かが必要だ”と、そういう考えは時代を超えて存在します。聖書の時代のユダヤ教式キリスト者は、“キリストの贖いに加えて律法を守ることが必要だ”と主張しました。中世の教会はキリストの贖いに加えて、“人間の功績、業績が必要だ”としました。今の教会はどうでしょうか。著者はキリストの犠牲の一回性と、そして優越性を強調することによって、このようなキリストでは不十分なところを補う、という考え方に対して明確な“ノー”を発しているのです。

さてこのようにして、“イエスはただ一度身を献げた、それは多くの者を救うに充分であった”という福音の善き訪れを聞いたばかりなのに、私たちはまた常識的にもよく知られている、或る意味当然と言えば当然の言葉をここで聞かされることになります。 “誰でもがただ一度死ぬ、その後、審きがやってくる(9:27)”という言葉です。“死に続くのは審きだ”という考えは非常に通念的で遍(あまね)く思い抱かれている考え方で、当時ユダヤ教の会堂でも、また一番最初の頃の教会でも頻繁に説教されていたことでしょう。“死の後には審きがやってくる”、この考えはその昔から、ギリシャ人によってもごく普通に受け入れられてきました。プラトンもそう言っている、プルタルコスもそう言っている、また今日でもごく普通に、それは事の当然の成り行きというものだと、そのようにして受け入れられている考え方だと言ってよいと思います。

しかし、ヘブライ人への手紙の著者は、この“誰もがただ一度死ぬ、その後、審きがやってくる”という常識的な知恵の言葉を驚くべき仕方で展開し始めます。イエスは十字架上でただ一度身を献げた、そしてその犠牲を繰り返す必要はなかった、“ただ一度だけ死ぬ”、そこまでは普通の人間と同じことは確かなのだが、“その後、審きがやってくる、死の後の審きは必定”という死のパターンを著者は完全に打ち破り、そこを突き抜けているのです。28節「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」と。

著者が言わんとしていることはこういうことでしょう。
   
“イエスの死において起こったことは、罪の力が敗北したということである、イエスは実際多くの人の罪を負った、彼は審きを自分に引き受けた、それ故イエスは、自分に属する人たちを罰するためにではなく、救うために再び戻ってくるのだ”と。    
“その全き死と、その犠牲の完全さゆえに、イエスはもはや罪を負うために戻ってくる必要はなかった、悪の巣窟を空にするために、また罪人たちを罰し痛みつけるために戻ってくる必要はなかった、何故なら罪は既に打ち破られたから”と。

イエスが再びやってくるのは、彼の到来を恐れず、彼を信頼して、彼を待望している彼の兄弟姉妹たちを集め、彼らを神と自らが住まう天の家に連れて行く、そのためなのです。イエスが神に“ご覧ください、ここにわたしを信頼している私の兄弟姉妹たちが居ます”と、そのように紹介してくださる、そういう情景を著者は思い描いているのです。“イエスは怒りに溢れる審き手としてではなくして、救い主としてやってくる、そこでは人は一度死に、審きに直面するのは必定である”という、そういう考えはもはや妥当しない、“今や、真理はイエスはただ一度死んで、その後には救いの慈しみが来る”、そのように神は定められた、これが真理となったのです。

それでは最初に申し上げた、“何が私たちのこの世での生活を決定づけるのか”という問いに向かいたいと思います。“イエスはただ一度死んで、その後には救いの慈しみが来る、そのように神は定められた、この真理の下に置かれているキリストに贖われた共同体としてある教会が、今朝、聞き取るべきことは何か”ということです。

第一は、“キリストによる一回限りの犠牲は何者によっても補われる必要のない完全な犠牲である”ということです。10:14「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとなさった」、それにしても、このことを著者はどうしてこれほどまでに繰り返し語るのでしょうか。このヘブライ人への手紙の読者は、迫りくる迫害と困難のため大きな恐怖と不安を抱えて生きていました。それは自分たちが最後まで信仰を固く保ち、救いへと至ることが出来るかどうかという、そういう恐れであり不安です。それに対して著者は厳しい警告と共に“決してひるまないように”という勧告をしています。試練や迫害の形式は時代によって異なりますけれども、私たちが絶えず信仰の危機に直面しているということに変わりはありません。しかしどのような現実の中にあっても、キリストが献げてくださった一度限りの完全な犠牲によって私たちはキリストに贖われた共同体とされている、この事実こそが私たちが感謝をもって忍耐し続けることができる根拠なのだということ、そのことを心に銘記したいと思います。

第二は、“天におられるキリスト”ということです。ヘブライ書には「キリストの復活」という言葉はありません。それに代わるのが「高くあげられた」「天そのものに入られた」「神の御前におられる」というそういう表現です。この“地を離れ天に居る”という事実は、キリストのリアリティーを弱めるように聞こえますけれども、ヘブライ書の著者にとっては弱めるどころかまさにキリストによる救いの根拠となっているのです。ご自分の血によって私たちを清めてくださったキリストが、天の神の御前に居られるので、私たちも真心から神に近づくことが出来る、天に居られる信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら生きることが、キリストに贖われた共同体に属する者たちの信仰に立った生き方、その生き方に他ならないのです。

16世紀から17世紀にかけてフランスにあったユグノー、即ち、カルヴァン派のプロテスタントのことでありますけれども、そのユグノーが危機に直面していた時、カルヴァンがユグノーの指導者である提督に書き送った手紙が残されています。

閣下は、この世より高いものを凝視なさるべきです。どうか錨を天に投げてください。

困難に直面し危機の中にある時こそ私たちもそうすることを求められています。“この世よりも高いものをしっかりと見るということ、そしてそこに錨を置く”ということです。

第三は、“キリストを待望する”ということです。今朝お読みいただいた聖書個所の一番最後28節は、キリストの二度の来臨について述べています。
   
   “最初にキリストがこの世に来られた時、この一度目の来臨によって、あなた方はキリストの一度限りの完全な犠牲によって完全に贖われ、聖なる者とされている、そしてイエスの血によって聖所に入ることが許されている、しかしあなた方は未だ天そのものに入ってはいない、ただキリストだけがそこに入られた、そのキリストは救をもたらすために二度目に現れて来て下さるだろう”、と。

   ヘブライ人の読者たちと同様に私たちは今、このキリストの二つの来臨の間を生きています。そしてこの二つの来臨の間を生きている神の民は、天の故郷を熱望し、来たるべき都を探し求めている旅人に他ならないのです。ですからキリストに贖われた共同体である教会は、天を目指してこの世を旅する旅人の共同体なのです。その生き方全てが旅人であるという教会の本質に基づいて形づくられるべきなのです。ですから教会が語るべき最も重要な使信・メッセージは、“如何に人々を安心させ、この世の善い定住者にする”、というよりはむしろ、“この信仰共同体が歩んでいる旅へと人々を招き、キリストの二度目の来臨の時まで、共に歩む旅人であり続けるように”と促すこと、そのことが、私たちがこの世に対し、そしてこの世に御言葉を宣べ伝えるということ、その時に私たちが語るべき言葉は、そのことではないでしょうか。祈祷を献げます。

   
   
主なる神さま、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって、生ける命のみ言葉にしてください。どのような現実の中にあっても、私たちが主キリストによって贖われた共同体とされていることが、生きる喜びであり、希望であり、根拠であることを忘れることなく、御国を目指して日々歩ませてくださいますように。主キリストの聖名によって祈ります。アーメン。


(2018年10月28日礼拝説教)


 
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