信濃町教会        
トップページ リンク アクセス
われらの志 信濃町教会の歴史 礼拝 牧師紹介 集会 新しい友へ
説教集 教会学校 会堂について パイプオルガン 神学研究・出版助成金

  説教集  
     

 2018年8月26日 礼拝説教  【神の国への一歩】 佃 雅之

マルコによる福音書12章28-34節



教会は8月に予定されていた行事をすべて終え、秋に行われるプログラムへの準備へと、その一歩を踏み出そうとしております。振り返れば、平和聖日から始まり、主の平和“シャーローム”と言われる主の呼びかけに耳を澄ますことから始まりました。その後に持たれた平和聖日集会では、隣人と和解し、平和を作り出すための具体的な手掛かりを講壇から、そして講演を通して学びました。また教会学校ではサマー・キャンプを予定通りに行うことができ、天候にも恵まれ、子供たちと一緒に、主が創造され配置された自然豊かな環境の中で、主の恵みを全身で感じることができたことは本当に感謝のことです。

教会学校ではこの夏、イスラエルの王となったダビデの生涯をたどりましたが、先週の主日に与えられたテキストは、列王記上2章に示された“ダビデ王最期の時、ダビデ王が息子ソロモンに遺言を残す、信仰を継承する”、そういう場面でした。40年にわたりイスラエルの王としてその役目を果たしたダビデは、息子ソロモンにこう語ります。「あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を進み、モーセの律法に記されている通り、主の掟と戒めと法と定めを守れ(王上2:2-3)」、とあります。ここにある「あなたは勇ましく雄々しくあれ」という言葉は、ダビデの自責の念、深い後悔と神への感謝の表れです。“神の言葉を聞かず神から離れようとしたとき、それでも私たちの神は赦し憐れんでくださった。だからあなたは神から離れるな、いつも固く結びついて離れるな、真の強さを持つ神に従い行け”とダビデは語っています。

聖書には多くの契約の言葉がありますが、このダビデの言い残しました神の約束の言葉は「条件付き契約」と言われます。私たちもまた信仰を告白し、バプテスマの受領によって神との契約に入りました。ですが私たちキリスト者は、そのバプテスマによって或る意味無条件の契約に置かれている、そういう思いを抱くこともあると思います。“神に愛され、一方的に恵みを受ける、私たちはただその恵みを受け取るだけでいい、信仰によってのみ義とされる、業によって救われるのではない”、多くのキリスト者にそういう思いがあろうかと思います。ですが、信仰によって救われた私たちにとって律法は無用なものになったわけではありません。バプテスマによってキリストを通して与えられた神の愛に応え、聖霊の力にすがって地上の日々を神の御心に従って生きるようにされたのが私たちです。ですからその恵みにどう応えるか、私たち人間の側にできることはないのか、すべきことはないのかと思いを巡らせる、私たちにはそういう必要があります。

昨日、この礼拝堂は大きな悲しみの中にありました。週報に書かれているように、教会は大切な友、神の家族を御国へと見送りました。闘病生活にあった行木咲子さんは、昨年の10月15日、今日と同じ子供の教会方式による全体礼拝において、お連れ合いの康雄さんと一緒に洗礼を受けています。今月のはじめ、一日の日に清瀬にある東京病院の緩和ケア病棟に入られた咲子さんは、朝となく夕となく、祈りと賛美を欠かすことがなかったそうです。咲子さんは祈り、賛美する毎に“本当に申し訳ない、まだ私は神さまに何もお返しできていない、教会に連なり、多くの人の親切を受けるばかりで奉仕一つできていない”と悔やまれたそうです。ですが、そうではないでしょう。その洗礼式を多くの子供たちが目撃した、咲子さんが主に差し出された決断はこの教会に良い感化を与え、その良き志を主が貴く用いられることを私たちは知っています。キリストの教会にはそういう信仰者一人一人が歩んだ印がはっきりと残されていく、そういうものであろうと思います。

神は、私たち一人一人を知って下さり、私たちすべての信仰者の思いに先立って、“心を尽くし、魂を尽くして私たちを愛してくださっている”、この言葉は先ほど触れたダビデ王の遺言にも記されています。私たちが主に倣って、心を尽くし、魂を尽くして主の道を歩むなら、私たちの神は必ず愛してくださるという約束なのです。この神の愛に感謝をして改めて今日の御言葉から聞きたいと思います。

朗読された御言葉は、キリストの活動をまとめる箇所だと言われます。キリストが神殿にやってきていろいろな人たちと議論したのはエルサレムに入城した週の火曜日です。その日、神殿の境内でキリストに対していろいろな問いが投げかけられました。キリストを試み、罠に陥れようとする問もありました。その中で神殿でのキリストと他の人たちとのやり取りを聞いた一人の律法学者がキリストの答えのすばらしさに感嘆して一番大事なことを聞きました。「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか」、その掟・律法には生活の細かな部分まで及ぶ613の掟があったと言われています。キリストはここまでに権威や納税の問題、復活をめぐっての議論をしてきましたが、結局、その中で一番大切な掟、一番大切な教えは何であるのか、一人の律法学者は最後に、いってみればキリストの結論を聞きたかったのです。キリストはそれから三日後の金曜日には十字架に磔になって殺されます。この時、キリストはすでに生涯の終わりに立たされているのです。その生涯の終わりに、今までキリストが語り、議論してきた一番大事なことを問われて語ろうとしています。ですからここでのキリストの言葉もまた遺言と言ってもいいのかもしれません。

キリストの活動は一言でいうと“神の国運動”だと言った人がいます。キリストがその活動を開始するときに語った「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マコ1:15/並行)」、この言葉が福音書によって綴られてきたキリストの活動に貫かれてきました。ごく短い期間、1年ないし3年と言われますが、キリストがその生涯をかけた神の国運動と呼ばれるものは何なのか。つまり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」キリストがそう語って始めた神の国運動の結論を私たちも、この一人の律法学者と同じようにキリストの口から今、聴こうとしています。

その問いに答えてキリストが語ったのは決して新しいことではありませんでした。

「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

神を愛すること、隣人を自分のように愛すること、これがキリストの律法理解の要(かなめ)です。ですがキリストは律法学者の“どれが第一か”という問いに二つの掟を持ち出されたようにも読めます。しかしそれはそうではなく、キリストはこれら二つの掟を一つのものとして考え、まとめて第一の律法とされたのです。「神を愛する」という信仰と「隣人を自分のように愛する」関係とを切り離すことのできないものとして把握されたということです。

しかし、ここで大切なことは、モーセの十戒と同様に、神と人間との信仰の関係がまずあって、その後に人間同士の関係が続くということです。そしてキリストはここで、神に対する愛と隣人に対する愛とを改めて人格的交わりの中に置かれます。人格的交わりをもって互いに愛するということは、“ただ好きだ”、“好意を持っている”、というような事柄ではなく、人と人、人格と人格とが時としてぶつかり合い、火花が散るような関係こそが真の愛であると言われているのです。そこに人々を立ち返らせその真剣な神の愛に応えようとする共同体こそ、キリストがその生涯をかけて造られた神の支配、神の国だからです。

キリストはこの三日後には十字架に磔になります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」そう語り始めてから十字架に至るまで、キリストがその命を懸けた神の国運動そのものが、文字通り、神を愛し、人を愛する生き方を貫くことであった。神を愛し、人を愛することがキリストのすべての言葉に、すべての業に貫かれているのです。

この第一の掟、二つで一つの一番大切な掟を聞いた私たちは、キリストを信じるか、そしてキリストに従って生きるのか、神を愛し人を愛したキリストに従うのか、私たちもそのような生き方を願い志すのか、今日のテキストは、私たちをも、その決断の前に立たせているのです。

この問いを発した律法学者にキリストは「あなたは神の国から遠くない」と答えます。このキリストの律法学者への答えは何を意味しているのでしょうか。この人はキリストが言うように大切なことがよく分かっている、そういう意味においてはこの人は神の国に遠くない。彼は今一歩で神の国へ入り得る境界線に立ってはいます。しかし神の国の民となるにはこの二つの戒めを知っていることだけでなく、この最も重要な戒めと自らが取り組んで、行動を開始した時からなのです。彼にはその戒めを、具体性をもって実行する力が欠けていました。ですから彼は神の国に入っているのではなく、「遠くない」のです。

人間の知識や思いを実行にまで導く力、それは何であるか。それは言うまでもなく、神への愛です。神を愛する、そのことからすべてが始まるのです。“神を愛する”ということは具体的には“キリストのみ言葉を聞く”ということにほかありません。“聞け、イスラエルよ、”という呼びかけにまず応える、ということです。キリストの言葉を聞き、心から従い、神を思うとき、私たちの心は自から自分を取り巻く人々へ向けられるようになるからです。私たち自身を必要としている人を見出し、この人が私の愛すべき隣人であることを知ることができるようになるということです。そしてまた、キリストの言われた“自分のように隣人を愛せ”、この言葉こそ、その愛するという行為を具体的な実行へと導く鍵語です。

この一人の律法学者は、知識は長けていたが、具体性、実効性に欠けがあった、そのことで今、自身の目の前に居るキリストが、自分の愛すべき神であり、隣人であることに気付くことができなかった“神を愛し、隣人を愛す”、それは主イエス・キリストを愛するということにほかありません。イエス・キリストという愛と人格的な交わりを持つ、ということです。そして、そのキリストの言葉に向かって、その愛に向かってその一歩を踏み出すのか、それとも留まり、あるいは振り返ってしまうのか、その決断が重要です。その決断がなければ、神の国が目前まで近づいていても、入ることはできないからです。

キリストは神を愛し、人を愛することを、私たちにはっきりと命じて十字架へと進んでいかれました。今朝キリストは、この戒めを、繰り返し、繰り返し読み、わたしが教え示した永遠の愛のうちに生き生きと生きることがどれほど大事なことであるか、神の恵みのうちに力強く生きることがどれほど大事であるかということを知りなさい、私たちにそのように語りかけているのではないでしょうか。

キリストは今朝私たちに、神が与えてくださった生、生きるということの基本的な座に立ち返らせようとされています。


最後に、この主イエス・キリストの教え、その生涯を証しする御言葉に触れて終わります。

わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました(ロマ5:8)。
   
主イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。だからわたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです(Ⅰヨハ3:16)。
   
この言葉から、神と人を愛し、その生涯を貫いたキリストの恵みに応えたい、その思いが生まれるに違いありません。
   
『イスラエルよ、よく聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。』『隣人を自分のように愛しなさい。』
   
このことをその言葉通り生きぬかれたキリストの生涯にあっての私たちです。そのキリストの愛に、心から感謝し、主の平和を願いつつ、主の愛を受けて救いへの道へ、心を新しくして、また一歩、進み出したいと思います。祈りましょう。
   
   
聖なる神、あなたを愛し、私たちを愛するキリストの生涯が私たちにも愛する心を作って下さることを覚えて感謝いたします。この感謝の心、喜びの心が、どうか私たちの生活の中で失われることがないように聖霊が導いてください。
   
私たちがいつもあなたに固く結びつき、あなたの言葉を聴き、キリストの十字架に至るその生涯を思い起こし、キリストに従い生きるものとさせてください。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。


(2018年8月26日礼拝説教)


 
説教集インデックスに戻る


Copyright (C) 2020 Shinanomachi Church. All Rights Reserved.