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 2018年7月1日 礼拝説教  【キリストにある自由】 笠原 義久

申命記5章1-6節、ガラテヤの信徒への手紙5章2-11節



ナチスドイツの悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所での俘虜体験を記した『夜と霧』の著者であるヴィクトール・フランクルに、『それでも人生にイエスと言う』、そういう書名の別の著書があります。

この“イエス”と言うのは、勿論“ノー(No)”に対する“イエス(Yes)”のことですけれども、この本の中で、フランクルは同じナチスのブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、過酷な現実の中で、“それでも人生にイエスと言おう”、そのように謳い行動していたという話を引き合いに出して次のように語っています。“人間はあらゆることにも拘わらず、人生に「イエス」と言うことができるのです”と。

どうしてそのように言うことができるのか。それは、神がイエス・キリストにおいて、私たちをありのままに愛し、“イエス、然り、それでよし”と、宣言し、是認・肯定してくださっている、少しの曖昧さもなく、本当に確かな方向から、永遠の天にある神から、この恵みの言葉が響いているからだ、そのように言うことが許されるでしょう。

今日のガラテヤの信徒への手紙を記しているパウロもこの恵みの言葉を自ら受けた者です。

2節「わたしパウロはあなたがたに断言します。」 ここでは「わたし」と言うことが明らかに強調されています。“他ならぬこの私が”と言うのです。それは、ガラテヤの教会を創設したのは“わたしパウロ”、そのことを主張していると同時に、あの2章19節から20節において告白されているパウロの姿がここには響いているのです。

19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

「わたしパウロ」、それは“生まれながらの自己中心で自分に固着している古いわたしではなく、キリストと共に十字架に死に、キリストと共に新しく生まれ、キリストが自分の中に生きて、深いところで一つとされた新しいわたしだ”と言うのです。その「わたしが断言する」、神を証人として呼び、はっきりと言います。「もし、あなた方が割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たない方になる」、更に言葉を重ねて、「割礼を受けるならあなた方はキリストとは縁もゆかりもない者とされ、頂いた恵みも失われる」と、そのようにパウロは手厳しく断言します。

パウロがここで重大問題として取り上げている「割礼」とは何であるのか。そして今日の私たちとどう関わるのかといいうこと、そのことを先ず押さえておきたいと思います。

先ほどお読みいただいた申命記5章の、十戒の前書きにあたる、まあ十戒の序文というふうに言ったらよいかもしれませんけれども、そこには神とイスラエルの民との「契約」のことが記されています。「契約」というのは一言で言えば、“神はどんなことがあってもイスラエルの民を見捨てない”という神の意志の表明であり、また約束であります。そしてこの「契約」の本質は、神がご自身の本質を顕わにする申命記の言葉「わたしはあなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」、この言葉からも明らかなように、この神は「解放」する神なのです。そしてこの「解放」ということこそが「契約」の本質であって、それが十戒の全体に意味を与える根拠となっています。そしてまた目標となっています。ですから十戒を守る道は苦しい道徳的義務の道ではなく、実に「解放」の喜びを約束する自由への道なのです。それは正にこの『ガラテヤの信徒への手紙』でパウロが言うように、「キリストが私たちを自由の身にしてくださった(5:1)」、そのことと同じだと言ってよいと思います。

神によって、どんなことがあっても決して見捨てられることがないという救いの中に入れられたイスラエルの民が、「汝ら、これによって自由の民として生くべし」として与えられたのが、この十戒をはじめとする律法です。ですからイスラエルの民が律法をよく守ろうとするのは自分の救いを獲得するためではありません。“彼らは契約によってあなた方を見捨てることはない”と、その救いの中に既にイスラエルの民は入れられているのです。律法をよく守る、遵守しようとするその訳、それは“既に入れられている救いの中に留まり続けるため、あるいは救いに入れられているその恵みへの応答である”と、そのように言うことができるでしょう。そして自らが救いの中に留まっていることを確かなこととして確認できるもの、それが2章で言われている「律法の実行」「律法の業」であると言うことができます。

しかしそれはいったいどのような「業」であるのか、それはユダヤ人としてのアイデンティティを明瞭に示すもの、即ち「割礼」、「安息日」、そして「食物規定」、まあ、この三つが最も重要なものであったと、そのように言えるかと思います。これら律法で定められている業をきちんと実行してさえいれば、彼らは自分が神の救いの中に確かに継続して留まっていることを確認できるというもの、それが「律法の業」、あるいは「律法の行い」ということです。ですからそのようにしてユダヤ人が、謂わばバッヂのようにして胸に着け、自分は救いの中に入れられているということを誇示することが出来たもの、それが「律法の実行」「律法の業」ということの正確な意味であろうと思います。

ですからパウロが、「人は律法の実行によっては義とされない」と言うとき、それは、神の救いは、今挙げた主としてこの三つの最も重要な律法をきちっと守っているというバッヂを身に付けている者だけに及ぶという、そういう当時のユダヤ人の、とりわけユダヤ人であるキリスト者の救いの理解に関して、“否、そうではない”というパウロの断固たる“ノー”を言っているのではないでしょうか。人はそのような救いに入れられているというバッヂ、そして救いはそのようバッヂを付けている者だけに及ぶという、そういう理解に対して、“そうではない”と、パウロはそのことに関して断固たる “ノー”を言っているということができるのではないでしょうか。

パウロは同朋のペトロに対して、「あなたは異邦人に対してどうしてユダヤ人のように生活することを強要するのか」、そう言ってパウロはペトロを非難しています。つまり異邦人に割礼を受けさせるということは、文字通り異邦人をユダヤ人にすることを意味します。ユダヤ人のアイデンティティの印をユダヤ人(異邦人?)に強要することです。パウロは異邦人の使徒として召されました。異邦人に対する伝道者として召されました。そして小アジアをはじめとし、地中海沿岸の諸都市で積極的な伝道を展開し、新しい異邦人教会を次々と興していきました。けれどもこれら教会の新しく得られた異邦人の改宗者たちに対して、創設者であるパウロがその教会を去った後、これら教会にやってきた別の伝道者たち、あるいはガラテヤ書にあるようにエルサレム教会と何らかの繋がりがある、そういうところからやってきたユダヤ人、彼らは恐らく次のように言ったことでしょう。

“あなた方が本当に救われるためには、キリスト・イエスを信じる信仰だけでは駄目である。それに加えて異邦人であるあなた方はユダヤ人と同じように割礼を受けること、即ちユダヤ人になるということ、それが救いに入れられるための絶対的な条件である”と、恐らくそのように言ったことだと思います。

パウロは2章でペトロに対して語りかけています。わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。(15節)つまり、“自分たちは生まれながらに神との契約によって既に救いの中に入れられた者たちであって、神の救いから除外されている罪人である異邦人とは異なる者たちですよね”と、謂わばペトロに確認を求めている言葉です。そして、それに続いて、けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。(16節)と、そういうふうに言葉を繋ぎます。

自分たちユダヤ人は既に契約の民として救いに入れられている。けれども、ユダヤ人はそれでよいかもしれないけれども、ユダヤ人以外の民はいったいどうなるのか。自分は神によって、自分の内に御子キリストを啓示され、異邦人に対する使徒として神から直接召された。その自分が異邦人の使徒として召されている、であるならば、一体異邦人が救いに入れられる道はどのようにしたら開かれるのか、自分たちは、“人はただイエス・キリストへの信仰によって義とされる”という福音を聴いた、異邦人が救いに入れられる新しい道が開かれた。それは、これまでの救いは契約の民だというバッヂを胸に付けている者だけに及ぶという救いの理解、救いというものの謂わば民族独占的な在り様に終わりをもたらすものであった、“ペトロよ、自分たちユダヤ人は、そのことをトコトン知らされた者たちですよね、それで私たちもキリスト・イエスを信じたのではないですか、それなのにどうして、イエス・キリストを信じることに加え、ユダヤ人になることが救いに入れられるための必須条件であるとして、そのことを異邦人キリスト者に強要するのですか。”2章はそういう文脈で「律法の実行」、即ち「律法の業」、直接的には割礼問題が語られているのです。

今日の5章はどうでしょうか。ガラテヤの異邦人キリスト者たちがその割礼をガラテヤ教会に入り込んだ煽動者たちから強要される、そういう状況が生じていることがよく分ります。パウロはそのことにガラテヤ書の冒頭から激怒しています。たとえ私たちであろうと、天からの御使いであろうと、私たちが宣べ伝えた福音に反することを宣べ伝えるなら、その人は呪われるべきである(2:8)。

以上のことを踏まえて、今日の聖書箇所の中で中核を為している御言葉、それは5節から6節ですけれども、その御言葉に聴きたいと思います。5節、6節にはこのようにあります。5わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

パウロのここでの真意を汲み取るためには次の二つのことを踏まえておくことが重要です。一つは、「義とされた者」とありますけれども、その場合の「義とされる」というのはいったいどういうことなのか。もう一つは、「信仰に基づいて」、それから「愛の実践を伴う信仰」、つまりここでは、「信仰」ということと「行い」ということが語られています。「信仰と行い」ということは果して対立するものとして、対置するものとして考えてよいのか、どうなのかというその問題です。第一の「義とされる」ということについてであります。パウロがこのガラテヤ書も含めて自らの手紙の中で用いているこの「義とされる」という元の言葉の意味は、「罪責のない者を潔白であると考える」「罪のない者を潔白である」というふうに考える、あるいはそのように宣言する、元々はそういうふうに、どちらかと言うと法廷で用いられた言葉であります。有罪宣告の反対、つまり無罪宣告という意味で元々は用いられていた言葉です。パウロがそういう意味で「義とされる」ということを、そのように“無罪であるというふうに宣告される”という元々の意味で用いている箇所もありますけれども、多くはそういう枠を超えた意味で用いることが実際には多いということが言えます。つまり、明らかに無罪宣告という元の意味とは違う意味で用いることもあるということです。例えばロマ書の6章6節から7節、古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。この一番最後の「死んだ者は、罪から解放されています」、この「罪から解放されています」、ここに同じ「無罪を宣告される」というこの言葉が使われています。一見して明らかですが、その前の「奴隷である」ということの反対は「潔白」、あるいは「義しいと宣告される」ということ、これが反対語ではありません。「奴隷である」ということの反対は新共同訳聖書が正しく訳しているように「解放される」ということです。「奴隷から解放される」ということです。

この例から明らかなように、パウロの手紙において「義とされる」という、受身で用いられている言葉ですけれども、これは殆ど常に「変えられる」、あるいは、或る一つの領域から別の領域へと「移される」という、そういう意味で用いられていることが多いのです。例えば、罪から従順へと、死から命へと下にある、そういうところから恵みの下へと「変えられる」、あるいは「移される」、「奴隷」であるそういう状態から「解放」され、つまり奴隷という状態から別の状態へと移されると。ロマ書の例で言えば、今申し上げたように、“奴隷である状態から解放されて自由へと変えられる”ということです。先ほど引合いに出したガラテヤ書2章、パウロのペトロへの語りかけ、“自分もペトロも以前は異邦人なる罪人ではなかったけれども、キリストへの信仰によって義とされた”と、そういうふうにパウロが語った時、パウロは“以前は自分たちに罪責があったけれども、今は潔白である”、そういうふうに言おうとしているのではないでしょう。彼らはユダヤ人として、契約の民として、以前も充分に潔白であり、そして異邦人のような罪人ではなかったのです。しかし彼らが「義とされた」とき、ユダヤ人であるペトロやパウロが義とされたとき、彼らは「キリストと一つにされた」、あるいはパウロの別の手紙の言い方に従えば、彼らは「新しく造られた者(Ⅱコリ5:17)」の一部となったのです。あるいは今日の6節、新共同訳によれば「イエス・キリストに結ばれていれば」と訳されていますけれども、元の言葉は「evn Cristw/| VIhsou/ エン・クリスー・イエスウ」、英語で言うと「in Jesus Christ イン・ジーザス・クライスト」即ち、「キリスト・イエスにあって」。この「エン evn」という言葉、これは多くの場合、「支配領域を意味する」と考えられています。そうすれば、その前の「義とされた」ということを受けて、それは他ならぬキリストの支配領域へと移された、あるいはキリストという人格へと組み入れられたという、そういう事態を指しているのです。元来の言葉はそのような「変化」とか「移行」とかという意味をほとんど持っていない、それにも拘らずパウロは、この「義とされる」という言葉を無理矢理そのような「変化」とか「移行」とかという、そういう意味を持たせているというふうに言ってよいのではないかと思います。
   
宗教改革者マルティン・ルターは、「信仰による義」ということを解くパウロの言葉を、「神はキリスト者を罪人であるにも拘らず義であると見做す」という、そういう意味に読みました。「義」というものを法廷的に、即ち「義とする」という元々の意味に、即ち「潔白性の宣言」という、そういう意味に読んだのです。ルターのよく知られている言葉に「義人―正しい人―にして同時に罪人」という言葉があります。「義人にして同時に罪人」、神は私たちを義と見做してくださる、罪人であるにも拘らず義と見做してくださる、神の目には人は義人である、しかし人間の日々の経験においては罪人である、それがルターの言わんとしている「義人にして同時に罪人」という、恐らくルターの自分自身の本当に内的な神による罪の赦しを願い求め、神によって義と見做されるという、そのことを本当に追い求めたルターの苦悩を伴った言葉であると言うことができると思います。ルターはキリスト者の生というものがロマ書7章21節にある「善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る」、その言葉に要約されるというふうにルターは考えました。しかし先ほど申し上げたようなパウロの「義」についての理解というものを踏まえるならば、パウロは、これは“キリストによって解放された人々、キリストによって自由にされた者が以前に陥っていた困った状態だ”と、そのように考えているのではないでしょうか。だからパウロは言います。「あなた方は肉にあるのではなく霊にある」と。「肉にある」、あるいは「霊にある」というのは、「ある」というのは、これは「支配」のことです。「肉の支配する領域の中にある」、あるいは「霊が支配する、そういう領域の中にある」ということです。あなた方はその肉の支配領域から霊の支配領域へと移されている、それが「肉にあるのではなく霊にある」ということです。そしてパウロは「霊の支配領域へと移された者は、肉の罪深い業を行わない」と、それがパウロの考えだったのではないでしょうか。
   
第二の、「行い」と「信仰」とを対置することの問題性、そのことについてはごく要点だけにとどめたいと思います。先ほど申し上げたように、パウロの言う「律法の実行」、あるいは「律法の行い、律法の業」というのは、要するにそれによって自分が救いの中に入れられているということを確認することができる、そういう限られた「律法の業」、先ほどはそのことを“バッヂとして機能しているようなそういう行いのこと”というふうに申し上げましたけれども、そういうものとして限定して捉えるべきであって、広い意味で、「行い」一般、あるいはルターの言う「善き業」一般というふうに捉えて、そしてそれを「信仰」と対置することはやはり避けるべきであろうというふうに思われます。勿論このことは、救いにおける人間の行為、人間の功績主義、あるいは業績主義というものを徹底して排除したルターの教えというものを決して否定するものではありません。いや、それどころかルターの言っていることは強調しても強調し過ぎることはありません。救いにおける人間の行為や、あるいは業績主義というものは徹底して排除されなければなりません。しかしガラテヤ書の文脈においては、異邦人が神の民のメンバーとなることの死活に係わる根拠として、そのことにおいてはひたすら「イエス・キリストを信じる信仰」、それが唯一の要件として求められている、ユダヤ人にも異邦人にも同じようにそのことが求められている、そのことは決して忽せにしてはならないというふうに思います。
   
最後に、キリストの支配する恵みの領域へと移された者、即ち、神がイエス・キリストにおいてありのままに愛し、“イエス、然り、善し”というふうに宣言し、そして是認・肯定してくださっている者、私たちはイエス・キリストによってそのようにして、イエス・キリストを通し、神によって是認・肯定を、私たち受けている者のとして、その者は、「愛の実践を伴う信仰」によって生きる、パウロはそのことをここで強調しています。この言葉は文字通りに原文を訳しますと、「信仰・愛を通して働く」という語順になっています。「信仰」が一番最初に来ます。「愛の内に現われる信仰」、あるいは、「愛という様式で働く信仰」というふうに言い直していいでしょうか。
   
生きた信仰には内から突き上げてくるものが必ずあります。愛を試金石として私たちの信仰が問われています。“行いか信仰か”ということではありません。内から突き上げてくる信仰によって愛を行う、私たち夫々に相応しいやり方、様々な愛の形があるでしょう。しかし、“たとえ僅かであっても、信仰のパン種は必ずや愛の実を結ばせる”ということ、そのことを信じ、これからの一巡りを歩み行きたいと、そのように願う者であります。お祈りします。
   
   
主なる神さま、語りました言葉を、あなたの聖霊の働きによって生ける命の言葉にしてください。主イエスにおいて、あなたによって、“然り・善し”と根底からの是認と肯定を受けた者として、内から突き上げてくる愛の実践を伴う信仰へと私たちを押し出し、そして生きさせてくださいますように。
   
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


(2018年7月1日礼拝説教)


 
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