“死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。”ここには人間の様々なざわめきを劈(つんざ)いて高らかに響き渡る勝利を知らせるラッパのような響きがあります。死に対する勝利の賛歌が謳われています。力と喜びの充満を私たちは聴きます。
私たちを根こそぎのみ尽してしまう死、全てを空しさの中にのみ尽してしまう死、その死に対する勝利の歌を謳わせる力は何であるのか。それは十字架に死なれたあのイエス・キリストの復活です。そしてイエス・キリストの復活だけが、この歌を謳わせる根拠と力だと、そのように言えるでしょう。イエス・キリストの死者の中からの復活、十字架に掛けられ、死んで墓に横たえられ、陰府にまで降られたそのお方が、今、その墓から起こされて、生けるキリストとして出て来られたというそのこと、例えようもない大きな出来事が、今、ここに集っている私たち一人ひとり、また全ての人間、全世界のために興ったということ、そして私たちがそのキリストの死に対する勝利に与る者とされたということ、これが聖書の告げる復活の告げ知らせです。今、私たちはこの喜びの知らせの聞き手・受け取り手としてここに置かれています。
福音書を見ると、復活の日の朝、女性たちがイエスの墓に行った。しかしそこに見たのは空虚な墓だった。途方に暮れ、驚きと恐れの中にある女性たちに語りかけがあった。“あなた方はなぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。”と。キリストは墓には縛られない、神は御子キリストが死の力の支配のもとに服していることを善しとはされない。神は、また、私たちがその死の力にねじ伏せられていることを善しとはされない。神は御子を復活させることによって、私たちをもまた死の力の支配から解き放ってくださったのです。
福音書は語っております。“なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか、あの方はここにはおられない、復活されたのだ。”この言葉を聴いた女性たちは回れ右をしました。墓に向いていた深刻な彼女たちの顔、しかしその関心は変えられて、今や墓を背後にして、人生の終局にあった死を今や背後にして、歩み出す者とされました。死への行進としての生は、今やキリストにある命への行進へと変えられたのです。この彼女たちを、そして私たちを、回れ右をさせた力、それがイエス・キリストの復活の出来事に他なりません。いったい神は何故、キリストを復活させたのか。それは神が死に支配されるのではなく、逆に死を支配されるお方だからです。しかしただそれだけの理由からではないと、そのように思います。
『エフェソの信徒への手紙』2章4節以下には次のようにあります。憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、とあります。
私たちに対するこの「憐れみ」、この「愛」ゆえに神はキリストを復活させたのです。神はその徹底した「憐れみ」から、私たちが死に向かって、また死に於いてあるのではなく、墓と死を背後にして、墓と死を後ろにして命に向かって、また命において生きるようにしてくださったというのです。そして実際、イエスの死と復活によって、全ての人間の上に根本的な変化が起こりました。この途方もない出来事によって、闇から光へ、罪の支配から義の支配へ、不安から平安へ、悲しみから喜びへ、死から命へ、主イエスの復活によって、私たちやこの世界の一番根本の仕組みがそのように変わったのです。主の復活によって不安や悲しみ、罪や死、それらはもはや私たちの主人となることはできず、私たちを支配することはない。勿論、私たちが、そのような不安や悲しみを持たないということではありません。罪に苦しみ、死を嘆くことが避けられるというのではありません。むしろ神と直面するならば、旧約聖書の詩編詩人たちに見るように、そのような悲しみ、嘆きは深い問いともなって一層強いものになることもあるでしょう。けれども聖書は、はっきりと告げております。
あなた方は今やそれらに圧倒され、それらに打倒されることはない、それらにあなた方を食い尽くす力はもはやない。あなた方は四方から苦しめられても行き詰らずに、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない、何故ならイエス・キリストが復活されたからである。
“死は勝利にのみ込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか”、ここには私たちがそれに与ることが許されているキリストの復活の事実と力とが高らかに謳い上げられています。
それでは神がイエス・キリストの死と復活によって打ち勝った、そして滅ぼしてしまった死とは何であったのか。
聖書が言うところの死は、私たしたちが例外なく迎えなければならぬ死・死去のことでもあります。しかしここで言われている死というのは、その私たちの死・死去ということをも含みつつもっと深刻な死のことです。人間の活動の停止としての死、それは確かに本人にとってはもとより、周りの者にとっても重大事であることは、それは当然のことです。またその死去を巡って深刻な人間事情が展開せざるを得ないのも事実です。けれども聖書は、人の死・死去よりももっと深刻な死があるとそのように言います。
『コリントの信徒への手紙一』の15章26節には「最後の敵として、死が滅ぼされます」とあります。死は私たちの、それ故にまた、神の敵であるとパウロは言います。それは死が神を否定し、私たちを滅ぼそうとする力だからです。神を根底的に否定するのが罪であり、そこに根差して人間を根底的に否定するのが死です。そしてそれは私たちの力で左右することが全くできない大きな力、勢力です。
カール・バルトは「死は、“大いなる否”、“大いなるノー”、である」と、そのように言います。この“大いなる否・大いなるノー”である死は私たちに語ります。“君たちはやがて死んで、墓に入ってそれで終わりだ。後は腐り果てるだけだ。今までに死ななかった人間はいない。君たちも同じだ。考えてごらん、ついには墓に入ってしまう君たち、君たちの生活、君たちの努力、愛、熱心、君たちの信仰、君たちの一切、それらは何の確かな根拠もなく、何の意味もないのだ。君たちは死に、腐り果てる者たちであるのだから、結局何の価値もない。その事実こそが最も真実で確かなことである。君たちの中に、誰かこの真理に反論できる者がいるか。いや、いやしない。”
死はそのように私たちに語りかけます。この私たちが総力を挙げても抗うことができない暗い力が日毎に私たちを襲っています。そこで私たちは自分自身や他人に対して投げやりになったりします。“わたしたちは食べたり飲んだりしようではないか、どうせ明日は死ぬ身ではないか”この第一コリントの15章32節にそのように記されています。
死は私たち人間が死去するものだということを盾に日常の生活に食い込んできます。そしてそれは根本的な“否”として、“ノー”として働く罪の力です。“死のとげは罪(Ⅰコリ15:56)”であり、“死(罪)の報酬は死(ロマ6:23a)”である、そのようにある通りです。
死ということで私たちは私たち自身の死去のことについて語らなければなりません。人の死去は確かに、あの“大いなる否”の襲撃の結果であると。けれども聖書から聴くならば、人の死去というものはそれ自体として語ることはできないと言うべきです。人の死去はイエス・キリストの死と復活、イエス・キリストの勝利の中でしか語り得ないことなのです。
“死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか”これは実に大いなる否”に対する勝利の知らせです。しかしイエス・キリストによる死に対する勝利とは何か。神のイエス・キリストによる死に対する勝利、即ち、主イエスの復活はあの“大いなる否”ということを圧倒する“然り”・“イエスyes”です。この“然り”は表現しようもない徹底した大きな確かなことです。この“然り”の前にはもはや何ものも対抗する力からを持たない、キリストの復活によって、この世界とすべての人間の上に、この“然り”という言葉が根底的に語られたのです。神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を賜った、この“然り”が賜物として、恵みとして、私たちに与えられた。
この“然り”ということをそのようなものとして聴くということ、主キリストの死に対する勝利に与るということは、この“然り”がこの世界と、そして私たちを貫き支配しているその事実を本当に知り、喜ぶことに他なりません。神の御子イエスによる私たちへの“然り”に対して、今度は私たちがその事実に対して“然り”を言い、そして隣人と自分自身にイエス・キリストによって根底での“然り”を語り、そしてそれを受け容れる、これが“大いなる否”に対する勝利に私たちが与るということではないでしょうか。
けれども注意しなければならないことは、この“然り”は何でもかんでも肯定するということではありません。主イエスの十字架がそうであるように、“然り”は“否”において、“救い”は“裁き”において成就するのです。主イエスの復活はイエスが十字架において人間のために決定的な“否”と“裁き”を担ったということ、そのことに対する神の“然り”に他なりません。キリストの勝利に与ることが許された私たちは、そのことに決して慣れてしまってはなりません。神の為さることは両刃の剣です。神は私たちに対するご自分の“然り”を貫かれるために“否”をも語られるのです。ですから神の私たちに対する“否”を聴くとき、そのとき神の私たちに対する“然り”ということもより鮮明になります。けれども一番根本的な“否”は、既に主の十字架と復活によって担われ克服されています。主イエス・キリストの十字架と復活によって根本的な“否”は既に克服されている、この確かな事実、この動かない勝利、それが実に私たちと、そしてまたこの世界を根拠づけている本当の現実なのです。
聖書はキリストの復活に与ることを「永遠の命」と呼んでいます。パウロは『ローマの信徒への手紙』で「神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(6:23b)」と語ります。私たちは主の復活によって「永遠の命」に生きることを許されている、「永遠の命」というのは何時までも生きながらえるということではありません。「永遠の命」とはキリストによる神のあの“然り”の中に置かれた人間存在のことです。「永遠の命」というのは復活して生きておられる救い主イエスが私たちと共に居てくださるという、そういう事態のことです。
この「永遠の命」に置かれるとき、そこでは死去、私たちの活動の停止であり、自然的生の終わりということは、すでにこの「永遠の命」に置かれるとき乗越えられています。あのキリストによる“然り”の中に置かれ、キリストが共に居てくださる生、それは死・死去ということを超えた永遠の事実です。人間の死去ということは、そこから、この永遠の事実から考えられなければならないのです。
愛する者の死去に伴う悲痛を経験された方、また経験しつつ在る方が私たちの友垣の中に少なくありません。しかしどうか、その悲しみ痛みをこの「永遠の命」の中で受け留めて欲しいと、そのように切に願う者です。
ご一緒にその答えを御言葉から聴きたいのでありますけれども、第一に、「永遠の命」の中に置かれてもなお私たちを不安にし、悩ます死去は必ずやってきます。それはいったいどういうことでしょうか。第二は、死・死去ということで、殊に私たちの思いを以ってすれば、あってはならないような痛恨の死があるということ、東日本大震災によるあの無辜の方々の痛恨極まりない死・死去、それはいったいどういうことかという、そういう問いです。この第二の問いについて私たちは答えを持ちません。ただ、神さまの側には確かな答えがあるということ、そのことを信ずる他ありません。しかし第一の問いについては、一応の答えがあります。それは私たちが死ぬべき肉体を負っている者たちだからです。「永遠の命」の中に置かれつつ死すべき肉体に於いてある、それが私たちの今の在り様です。その肉体を持つ者として多くの不安や恐れをもまた背負い込んでいます。この朽ちるべき者が朽ちない者を着、この死ぬべき者が死なない者を必ず着ることになります。しかしその事態は、将来に私たちは待つ他ありません。『ヨハネの黙示録』にあるように神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(21:3-4)」、
そのような事態を私たちが目に出来るのは、やがて完成する神の国に待つ他ありません。「わたしの愛する兄弟姉妹たち、こういう訳ですから動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい(Ⅰコリ15:58)」とパウロは語ります。
「動かされないようにしっかり立て」、私たちが、今、この勧めを受けなければならない、そういう状態にあるということをパウロはしっかりと見ています。諸々の悩みに右往左往して浮足立っています。逃げようとしています。ここで思い起こすのは『ヨハネ福音書』の主イエスの言葉です。あなたがたには世で悩み苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(16:33)。
私たちは皆、老いも若きもすべからく夫々限界や不安を抱え込んで悩みの中にあります。そしてそれは決して、“偶々そうである”と言うことではありません。“この世では悩みがある”、しかし主イエスは“勇気を出せ、雄々しかれ”と語られます。“動かされないようにしっかり立て”と聖書は勧めます。“あなた方にはそのことができる。何故なら、わたしは既に世に勝っているからだ”、キリストは復活されたのであるから、だから“勇気を出せ、雄々しかれ、あなた方にはそれが出来る”と語られているのです。“この世の根本の仕組みが既に変わったのだから、だから勇気を出して、全力を注いで主の業に、主キリストのために、その『善し』とされる業に励みなさい。あなた方が主イエスの勝利に与る感謝と望みに立つとき、あなたがたは主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄にならないことを知る、そのような者になる”、パウロはそのように断言しています。
キリストの復活の光の中に立ち、その光に与り、永遠の命の中で御国を望みつつ主の業に励む者とせられたい。死は勝利にのみ込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか。アーメン。祈ります。
主なる神さま、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって生ける命の御言葉にしてください。この時間の中で、私たちを治め・動かし・満たしているものは、あなたの真実な御言葉であることを率直に聞く者とならせてください。主キリストの復活の出来事が全ての場所に興り、全ての者が復活と命の約束を聴きとり、約束された永遠の命の中で、主の業に励む者とならせてください。主キリストの御名によって祈ります。アーメン。
(2018年4月1日礼拝説教)
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