新約聖書にある四つの福音書は、そのほとんど半分を十字架に向かってのイエスの最後の数日の事にあてています。福音書だけでなく新約聖書の全ての書が十字架のイエス・キリスト、十字架に死に、十字架に死んだ方として復活し、そのような方として救いの支配を為したもう、新約聖書全ての書はそのキリスト証言です。
わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。使徒パウロのこの言葉はその消息をよく伝えています。十字架のキリストこそが、キリスト教の中心です。核です。言うまでもなく2千年前、イエスがゴルゴダの丘へと自分の十字架を担がされて行ったその十字架は、荒削りの木の十字架であったでしょう。聖書の言葉で言えば、それは「呪いの木」です。イエス・キリストの十字架は、この世にとって、私たちにとって、またこの私にとって一体何であるのか。
私たちは先ずキリストの十字架の持つ否定的な面、つまり、問いや裁きとしての十字架について語らなくてはなりません。問い、なくして、答えはなく、裁き、なくして、救いはありません。
第一は、「問い」としてのキリストの十字架、ということです。私たちは夫々に、人生の、また生活の労苦・重荷を負っていますから、その上に「問い」としての十字架などということはあまり聞きたくない。むしろそのような人生や生活の労苦に共感して、“さあ、それを神さまに預けて楽になろう”、そのように思いたい。けれども主イエスの十字架に目を向けるとき、簡単にそうはいきません。十字架は私たち人間が抱えている深い淵を私たちに開き示しています。私たちが根本のところで搦め捕られている混沌とした現実、カオスの現実というものを明らかにしています。神の独り子イエスがその身を代価として十字架に支払わなければならないほどに、私たち人間の問題は深く、暗く、重い、聖書はそのように告げています。神はキリストによって不安や恐れに慄く者を救おうとしておられるだけではありません。むしろ神ご自身が私たちの内に不安や恐れを引き起こされるのです。キリストの十字架というのはそういう出来事です。
神がキリストによって私たちの内に不安や恐れを引き起こされる。或る人は言っています。“聖書においては不安を通して神を知るのではなく、神を通して不安を知るのだ”と。神が私たちに引き起こされる不安・恐れ、それはキリストの十字架によって見えてくる私たちの深い淵です。それは私たちが根本から欠けを抱え込んでいる存在であるということです。私たちが或る意味で欠落存在であるという、そういう事実です。
あれこれの不足や限界を持つという、私たちの日常生活での欠落状態があります。更に、私たちの存在自体の意味の不明さ、私たちが何故生きているのか、何処に向かって生きているのか、またなぜ死ななければならないのか、その根本のところでの欠落状態、聖書はそのことを私たちが“罪を負う存在であるからだ”と、そのようにはっきりと語っています。キリストの十字架は私たちがそのような欠落存在だということを最も確かに、深刻に抉り出して示しています。そのような十字架との出会い、いやむしろ十字架に出会わされる中で私たちは呻かざるを得ません。
そこで私たちはどうするのか。この欠落を何とか埋めようとします。人生の意義を求めて他者と出会おうとします。他者や、またこの世との出会いを求めて私たちは旅立とうとするのです。しかし他者とはいったい何でしょうか。出会うべき究極の他者とは誰でしょうか。聖書は告げています。それは神である、イエス・キリストにある神であると。
アウグスティヌスという人は『告白』の冒頭でこのように語っています。神よ、私の心はあなたの内で安らうまでは安んじません。出会うべき究極の他者である神、その神との出会いの中で本当の自分というものが見えてくる。神と真に出会うということ、そのことにおいてだけ人は自分自身と出会うことができる、自分自身が何者であるかということが分ってくる、それが本当の意味での自己確認であり、自己確立ということでしょう。しかしこの自己確立というものは常に、また問いとしての十字架、私たちを他者との出会いへと旅立たせる者としての十字架の前に置かれているのです。この出会いへの旅の道、出会いによる旅の道には試練があります。求める者としての悩みがあり労苦があります。しかしそれを負わずして自分自身を見出すことは難しいのです。そのことを避け、他の物に寄り掛かろうとする、真の神ならぬものに寄り掛かろうとする。それは私たちが真の神ではないもの、つまり偶像に操作されることに他なりません。自分自身を無くしてしまう、そういう在りように他なりません。あの欠落感、あの不安と恐れと直面することなくして自分を無くしてしまうような、そういう在りようから抜け出ることそれは不可能です。私たちは本当にキリストの十字架によって、私たちが深いところで抱えている闇、私たちが欠落存在であるということを、身を以って知るのです。そしてその十字架が私たちに対して、そして今の時代に対して、根底からの問いとして、私たちの目の前に立っているのです。
次にお話ししたいのは裁きとしての十字架ということです。人間の深い淵、人間が欠落存在である、そのことを聖書は、その根底に目を向けて、それを罪ということで語っています。人は罪の存在である、そのことで例外はないと。「正しい者はいない、一人もいない (ロマ3:10)」、罪というのは一言で言えば、存在に対する否の力です。私たちは神によってその祝福の中に存在することを許されています。神はその私たちの存在を喜びとして、良いこととして赦し、そして承認しておられます。人間の存在ということを科学的・物理的に説明することは出来ます。如何にして存在するに至ったかというそういう説明は科学的・物理的には説明できます。しかし、何故存在するのか、その説明を聴くことは出来ません。聖書は唯ひと言、“人は神によって、神のご意志によって、神の祝福として存在するものだ”と、そのように語っています。そしてそのような者として他者、その他者もまた神による存在でありますけれども、その他者との間柄において、関係において存在している、人は互いに神にあってお互いに生かし合う関係の中に存在しているのです。罪はそのような存在に対する否として働いているそういう力です。人と神との関係を、そして同じ神にあって生かし合う関係の中に置かれている他者との関係を破壊する、人と人との関係を破壊する、そういう力、それが罪です。
神による存在ということで言えば、人は“自分は何故あるのか“、そのことをいくら自分に問うても答えはありません。自分はなぜ存在しているのか、それは、人は自分の意思で存在するに至ったのではないからです。“自分で意味があるから、楽しいから存在してみよう”と言って存在するに至ったのではありません。自分自身で存在の意義を見出すこと、それは私たちには不可能です。何故ならば、人の存在は神の全き善き意思に依るからです。そして人はどのような時にもその神の善き意思に守られて在るのです。罪はそのような神によって存在している私たちへの、更に、神ご自身に対する否です。そしてその罪は、私たちの外に在るのではなくて私たちの内に在ります。しかも私たちの存在の根本のところに、存在と分かつことができないものとしてこの罪は在るのです。神によって在るのに神中心ではなく、自己中心に在ろうとするこの全くの根本矛盾、この罪が個々人の日常生活や今日の時代に様々な様相を以って力を揮っているのです。
病気には対症療法も必要でありますけれども、病巣を根本的に処置することが最も必要です。罪の問題はこれと似ています。罪は今お話ししたように、神による存在と関係への否です。キリストの十字架はこの罪への否です、裁きです、徹底した裁きです。キリストはその十字架によって御自分で全ての人の罪を担い、ご自身の死と共にそれを滅ぼされたのです。根本的に病巣を処置されたのです。パウロは言っています。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ロマ6:6)
キリストの十字架によって私たちは罪が何であるかを知ります。それ以外に私たちの罪が全く顕わになるところはありません。主の十字架によって私たちは罪の深刻さを知るのです。しかしその同じ十字架によって罪に対する徹底した裁きが為されているということを知ります。裁かられるべき自分を知り、立つ瀬のない自分というものを知るのです。が同時に、この自分への裁きをキリストが負ってくださっているということ、いや、負ってくださったということ、そのことを知るのです。キリストの十字架が裁きとして、今、私たちの眼前に、この時代の中に峻厳な事実として立っています。そしてこのキリストの十字架ゆえに私たちは生きることが出来るのです。
今度はキリストの十字架が持っている肯定的な面、即ち、救い・解放としての十字架ということをごく短くお話ししたいと思います。
第一は勝利としての十字架ということです。キリストは十字架に死に、復活されました。十字架は復活に裏打ちされて初めて十字架となります。もしキリストが復活されなかったならば、キリストの十字架は歴史上無数にあった刑死・死刑の一つの形に過ぎなかったでしょう。しかしそれは聖書の言う十字架ではありません。十字架のキリストは復活のキリストであり、復活の主は十字架の主です。キリストの十字架は復活によって明らかのように、勝利の十字架です。何に対する勝利であるのか、それは端的に罪に対する勝利です。神による存在の一切を根底から損なうあの罪に対する勝利です。キリストが担ってくださったことによって根本のところで罪の力はもはや失せたのです。
十字架はまた死に対する勝利です。「罪の値は死である(ロマ6:23)」と聖書に在ります。死は正に関係の断絶です。押しても叩いても応答がない、これが死の現実です。それは生物としての物理的死をも含みつつ、そのことを超えた事態です。全てを虚無の中へと呑み込んでしまう、そういう力です。死は神による存在への否として働く罪の結ぶ実です。しかし、キリストが罪に対して勝利されたことによって、死に対してもまたキリストは勝利されました。私たちが死して向かい行くのは腐れでも虚無でもありません。キリストの勝利による永遠の命です。
『ヘブライ人への手紙』はこう記しています。主イエスは「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした(2:14b-15)」。
死の力を揮う悪魔は私たちの内外に在ります。主の十字架はまたこのサタンに対する勝利でもあります。
主の十字架がある以上、私たちは罪から、死から、そしてサタンの力から解き放たれています。それらのものが究極のものとして力を揮うことはもはやありません。勝利のキリストこそが最初にして最後の方です。そしてこの勝利の十字架が、今、私たちの生きている状況の只中に立っているのです。『ヨハネ福音書』が記すように、「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(16:33)」。復活された、それは、キリストの言葉です。「わたしはすでに世に勝っている」と。だから「勇気を出しなさい」と。そのように十字架のキリストは、今、私たちに語っておられます。
十字架の持つ肯定的な面の第二は救いとしての十字架ということです。キリストの勝利が私たちにとって救いです。勝利者キリストが私たちの主としておられ、究極の主としておられる、そのことが私たちにとっての救いです。ですからキリストは私たちの救い主なのです。
キリストの勝利の十字架は私たちにいったい何を告げているのでしょうか。それは端的に“然り”です。“善し”ということです。私たちの存在への留保なしの“然り”、それが救いです。それで“善い”のだと、それで“宜しい”、それが救いです。この救いが主の十字架によって出来事となったのです。この“善し”“然り”ということは、私たち個々人に対してだけではなくて、共にあること、共に存在し、共に生きることへの“然り”でもあります。そしてその“然り”を空しくするものはもはや何もない、救いとしての十字架、それが私たちの魂と、そしてまたこの世界を覆うものとして私たちの眼前に立っています。
言うまでもなく、否定の十字架と肯定の十字架という二つの十字架があるわけではありません。主の十字架は一つです。否定は肯定のためです。裁きは救いのために他なりません。しかし十字架というものは本当にダイナミックス、十字架による救いに置かれた者は自分に対する問いとしての、裁きとしての十字架というものを、常に眼前にしている、そういう者のことです。私たちが懺悔し、悔い改めるということ、そのことと感謝ということは一対です。内に戦いや不安を持たない平安というものはありません。慰めに満たされて、あの根底からの“然り”を聴きつつ、にも拘らず、当面する魂の不安と世界の不安を担いつつ生きる、試練を生きる、それが世に在る私たちの平安という、その様相ではないでしょうか。祈祷を献げます。
主なる神さま、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって生ける命の御言葉にしてください。どうか私たち一人ひとりに、あなたの聖い御霊の幾分かを与えてくださり、それによって私たちが、今の時に、あなたを、また私たち自身を少しでも良く理解し、また私たちの間でも、お互い少しでもよく理解し合えるようにさせてください。救い主キリストの御名によって祈ります。アーメン。
(2018年3月4日礼拝説教)
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