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 2017年12月31日 礼拝説教  【すべての民を導く人】 佃 雅之

イザヤ書49章7-13節、マタイによる福音書2章1-12節



今日は2017年12月31日です。今年最後の主日礼拝になりました。私たちは先週24日にクリスマスの礼拝を主にお献げしました。この国で暮らす多くの人にとっては“クリスマスはもう終わった”と思っている人の方が多いかと思います。クリスマスの飾りを外し、正月の準備を始めた人の方が多いことでしょう。ですが私たちは、教会の扉からクリスマスの飾りを片づけることをしません。むしろ一層鮮やかにしようとクリスマス・リースを改めて見つめ、キャンドルに再び火を灯して今日の礼拝を献げたいと願いました。この国の多くの人たちには、ただ過ぎ行こうとしているこの年を、私たちは、今、まだ、お生まれになったばかりの救い主イエス・キリストがくださる真の光を通して顧みることができる、これは本当に幸せなことであります。

今年も教会には数多くのクリスマス・カードが届きました。ただその中には喪中を知らせるはがきが何通かありました。“この年、家族を失い、そのために新年の挨拶を控えたい”という内容です。ですがそのような方でも礼拝には集わられます。却って見送った家族に導かれて普段は教会に来ない方が教会の扉を開き、この礼拝堂の座席に腰を下ろす、そのような新しい救い、新しい慰めを求める全ての人のために、“人となり、この地上にお生まれになった主イエス・キリスト”、今年もまた、御子の誕生を祝う光は、そのような私たちのこの一年の歩みの中にあった悲しみや寂しさにも、温もりを与えてくださいました。私たち教会は、その慰めと赦しの光の中を、今、歩んでいます。

主イエスがお生まれになった頃ユダヤのヘロデ大王の時代は、社会的には繁栄の時であったと言われています。今もパレスチナに残っている壮大な遺跡の大部分はこの時代のものです。エルサレム神殿をはじめとする大規模土木工事事業が次々と行われていた時代です。経済的に活気に溢れ、目立った戦闘もなく、表面的には落ち着いていた状態であったようです。ですがその根底には、精神的、宗教的不満がはっきりとありました。その時、東の占星術の学者が現われます。この学者たちは、“本物の王が生まれたことを時の王様であったヘロデに向かって告げる”という奇妙な行動を取ります。“これを聞いたヘロデは不安を抱いた”と聖書は伝えています。このヘロデの抱いた不安の理由は幾つか挙げられます。一つはヘロデが潜在的にもっていた不安です。“自分はユダヤの王となったが純粋なユダヤ人ではなく、ユダヤ人とエドム人の混血であったこと、いずれ自分の政権が純粋なユダヤ人に取って代わられるのではないか”という恐れです。もう一つは、“王としての権力に誰よりも固執する人間であった”こと、今の表面的な平和と繁栄が破られることをヘロデは恐れていました。そしてその不安と恐れの根源は、彼が神から離れようとしていた、ユダヤの王でありながら神を見ずに自身が神となろうとした、そういう想いがあったからでしょう。

キリスト誕生の噂を耳にすることになったヘロデは慌てて“祭司長と律法学者を呼び寄せ、旧約のメシア預言について、その誕生が預言された場所を問いただした”とあります。その答えは言うまでもなく『ベツレヘム』でありました。無慈悲な手段によって、今やこの地の王となり、その権力を増し加えて来たヘロデが、不安と恐れを抱いた時に預言者の存在を思い出し、その預言の言葉を聴こうとする、何とも滑稽とも思えますが、これが人間の素直な心境であるということなのでしょう。

古代イスラエルにおいては民族を指導する資格を持っていたのは預言者でした。ですから王は、本来預言者に従うべき者でありました。このことは特に出エジプトからカナンに入るまでのイスラエルを指導したモーセにおいて明らかにされています。モーセを始め預言者たちはしばしば“主の僕”と呼ばれています。イスラエル民族の指導者は本来預言者であるが、その預言者を助けるために実質的な指導に当たる者が立てられる、そういうことがあるというものです。モーセには兄アロンと70人の長老、女預言者デボラにはバラク、預言者サムエルによって油注がれイスラエルの最初の王となったサウルも本来そのような役割を担わされた者でありました。しかしイスラエルにおいて王は本来預言者に従うべき者でありますから、王が預言者を無視して勝手な振舞いをするならば、真の主の僕によってその王は退けられるのです。私たちに与えられた預言者イザヤの言葉に聞くならば、この49章7節から始まるテキストが、主がその僕に対して新しい約束を言い渡した言葉であります。神に選ばれし真の僕によって全ての民が解放されるときの知らせです。8節をもう一度読みます。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して、荒廃した嗣業の地を継がせる。

   この言葉は、直接的には捕囚されたイスラエルの民の解放と祖国への帰還を約束するものであると理解されます。ですからこのことは、神の新しい歴史行為、しかも歴史的な私たちへの救済行為の始まりを告げているのです。今、私たちに差し出された神の恵みであるイエス誕生の出来事を、“ただ素直に受け取るように”というメッセージが聞こえてくるようです。クリスマスに受け取るべき神の恵み、それは新しく神ご自身によって、形づくられ、立てられ、始められる歴史的な救いの行為なのです。

この神の私たちへの救済の約束が、その私たちに向けられた神の愛が、動かぬはずの星を動かした、ということです。その星の導きが東の学者たちを旅立たせました。それは救い主、真の主の僕との出逢いを真摯に求めた者だけに認識された星なのです。ヘロデ王によって抑圧されていた多くの民の真の救い主を求めるその気持ち、即ち“人々の渇望を神が聴き取って引き受けてくださった”と言ってもいいかも知れません。この東から来た旅人は、星の導きを受け、遂に幼子のいる場所に辿り着きます。そこには一軒の家があり、その“上に星が止まった”とあります。その家に入ると、そこには幼子がおられました。


   神がその生涯の初めに幼子の形をとったのは何故か、このことにも大きな意味があります。私たちは大人になると小さな者、非力な者を見下す時がある、しかし現実は、その小さき幼き者から真理の言葉を受け、すでに大きな者、力を蓄えた者の方が新しくされるのです。この新しさは私たちを幼子に戻す、そういう力を秘めています。その力は、私たちを地上での生涯を幼子から始めてくださった主イエスに倣って考えるようにと導く力です。それは、救い、慰めを求める人の声を何倍にも真摯に受け留める人間、静かに耐え忍んで待つことが出来、孤立することを恐れない人間、そういう人間にするということです。今がどのような社会であっても、自分がどのような立場にあったとしても、争いを興す、争いに巻き込まれることを全く望まないそういう人間です。パウロの言葉に置き換えるなら「キリストの内に生き、またキリストがその内に生きている(ガラ2:20)」そういう人間のことです。ですから「彼らはひれ伏して、その幼子を拝み」ました。そして「宝の箱を開けて献げ物をした」とあります。

この献げ物に対する解釈は多様です。或る注解者は、「黄金」は王、「乳香」は神、「没薬」は死者を象徴する古くからの教訓的な習わしであると言っています。つまりその幼子は、幼子でありながら既に王であり、神であり、更に死すべき者、全き人であるということ。そしてその上に、“王としての裁き”、“神としては復活”、“人間としては死”というキリストの三つの業の認識を含むものだと言います。つまり“この献げ物は、主イエスの救い主としての役割の象徴である”と言うのです。また或る注解者は、“彼らは占星術師として職業上不可欠なものを献げたのだ”と言います。これは“ヘロデとの関係を断つ”、つまり“この世の諸悪との関係を断ち切ろうとした行為である”と言い、“彼らは過去を捨てて新たな生の根拠としてイエスを受け入れた、つまり真の信仰との出逢いを象徴する行為である”と言うのです。今年度修養会で学んだルターも或る日の説教でこの場面に触れ、“この場面は信仰の告白がなされている”と強調しています。いずれにしても、彼らはかけがえのない物をここに献げたのです。

   このテキストをここまで読み進めますと、私たちには、“私たちが求道者であった頃のことを思い出すように”というメッセージが聞こえてくるのではないでしょうか。東から来た学者は真の救いを求めて、ただ、星の導きだけを頼りに旅立ちました。その旅の途中、この世の権力者からの誘惑に逢うも、星に導かれるままに、つまりは神に信頼して、救い主のいる家に辿り着きます。旅人は星が止まった家におられた幼子が救い主であると確信し、「ひれ伏し、拝んだ」のです。私たちもまた、教会に初めて行ったとき、訳も分らず周りにいる人の見様見真似で礼拝をした、また洗礼を受けてから初めての礼拝で心からイエスをキリストとして、その思いを巡らしながら献げた礼拝が思い出されるのではないでしょうか。その時、献げたかけがえのない物、それは夫々であったと思います。或る人は、最初の注解者が示したように、或る意味神学的理解を伴った献身であったことでしょう。また或る人は、過去との決別としての献身、自身の生きるということの主権の交代を望んだ、これからは自分を見るのではなく神を見る、この世の価値に支配されるのではなく自分の心を神にはっきりと支配して頂くことを望んだ、そういう方も居るでしょう。また或る人は、ただ救いを純粋に求めて“イエスを主である”と告白した、そこから実質的な求道が始まった、そういう人もいるのではないかと思います。それはいずれの場合であっても、神がそういう私たち一人ひとりを目に留めてくださって、イエスの家、つまりは教会に招かれた者となり、その一人ひとりがかけがえのない物を献げ、イエスを拝んだ、ということに変わりはありません。


今日の個所にはこの「拝む」という言葉が何度か(2.8.11節)使われています。“人間が一人の人となられた神の子を拝んだ”、このことこそ、教会が今年最後に聞くべきもう一つのクリスマスの物語です。
   
   私たちは、全ての民、全世界を導くためにお生まれになった人を拝む、つまり礼拝する者でなければならないとマタイは言っています。マタイはこの福音書の最後28章16節以下にも弟子たちが復活のイエスの前にひれ伏した(17節)こと・礼拝をしたことを記しています。福音書記者マタイは私たち教会に対して主を礼拝することをその最初に教え、その終わりにもまた同様に主に礼拝することを教えているのです。このマタイの伝える礼拝の意味は、神が永遠に私たちと共におられるという約束です。そのお方は人としてこの世に来られた、そのはじめに私たちと同じように、幼子の姿で私たちの前に現わされた。神がどれほど人間的であるか、あらん限りの手を尽くして徹底的に人間に寄り添う神である、そのことをマタイは明らかにしようとしています。

マタイの伝えるクリスマス物語は、私たちに“このことに思いを巡らすように”と勧めるものでもあるのです。ですから、その幼子を礼拝した者は、その後の生き方が変えられていきます。それは全く新しい道を神ご自身が用意してくださるからです。“星を見て幼子イエスを見た者を喜びに溢れた(2:10)”とマタイは書いています。この神が、人間に与えた喜びが人間から恐怖を取り除いたのです。そのことをマタイは“夢で告げられた”と書いています(2:12)。幼子イエスを拝んだ学者たちは夢を見ました。その夢は「ヘロデのところには戻らず別の道を通って帰る」という時の権力者に対する背信というような、一見危険な歩みを取らせます。ですがその道が最も安全な道、平和への道であったであろうことは言うまでもありません。しかしまた、その道は平坦で快適な道ではなかったであろうと思います。その道は主への道、真理への道であったからです。それでも彼らはその喜びゆえ、今までの自分の、その外に出たのです。

私たちは先週24日のクリスマス礼拝において二人の受洗者を目撃しました。その際、“自身が洗礼を受けたことを想起するように”という牧師の勧めの言葉を聴きました。私たちは、この幼子を拝む者となった、そのことを今日思い起こすことが大切です。私たちは権力の都エルサレムに、ヘロデの許に帰る者ではない、私たちは今朝改めてベツレヘムの幼子を拝む、生まれたばかりの今ここに居られる救い主が、私たちをそういうものとしてくださったということを心に刻みたいと思います。

この新しい週の年も、私たちは幼子のような気持ちで、聖書から主の言葉を聴きたい、救いを求める全ての人のために教会の扉を開きたい、今、心からそう思います。祈りましょう。


   
私たちにキリスト・イエスを与えてくださった神さま、私たちはあなたの前にぬかずき、共に礼拝を献げることによって新しい道が示され、新しく生きる力と希望が与えられ、主が共に歩んでくださる生活と人生であることを知らされ、感謝します。
       

(2017年12月31日礼拝説教)


 
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