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 2017年6月4日 聖霊降臨日主日・創立記念礼拝説教  【聖霊の導きによって生きる】 笠原 義久

使徒言行録2章1-13節



今日はペンテコステ、教会の誕生日だとよく言われる日です。ペンテコステとはギリシャ語(penthkosth,)で「50日目」という意味です。ユダヤ教の大切なお祭りである過越の祭から数えて50日目、この50日目に祝われるのが五旬祭と呼ばれるお祭です。旧約聖書では七週祭とも記されています。五旬祭は、過越祭、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祝祭の一つで、かつてモーセがシナイの山で神から律法を授けられたことを記念するお祭であります。律法というのは言うまでもなくイスラエルの単なる宗教的な規則集ではありません。それは“あなたがたはわたしの恵みと慈しみによって律法を与えられた自由の民として、わたしの意志を体現しているこの律法によって生きなさい”という神の宣言であり、奴隷の家からの解放者である神と、解放された神の民であるイスラエルとの間に結ばれた契約に基づいて、真の命の在り様を示した神の言葉なのです。「あなたの御言葉はわたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(詩119:105)」、このイスラエルの民の解放を記念する五旬祭、正にその日に聖霊がエルサレムに到来したのです。預言の成就として、また弟子たちの期待を込めた祈りへの応答として、であります。

教会は自らの手で物事を運び、組織し、旗を挙げて勇ましく出発したのではありません。弟子たちはむしろ、待ち望み、祈るために退いていたのです。復活の主イエスは弟子たちに約束しました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知る所ではない。あなた方の上に聖霊が降るとあなた方は力を受ける(使1:7-8a)」、そのように約束しました。そして弟子たちはイエスから教えられた主の祈りをひたすら祈り続けていたのではないでしょうか。“御国がきますように、御心が行われますように”、そう祈ることは神がご自身に対して真実・誠実であられるから、その神が約束されたものを私たちに与えて下さるようにと祈ることです。こうして祈ることは、神はその約束に忠実・誠実であられるという信頼、神はご自身に対して真実であられるという信頼から生まれた大胆さであるということができるでしょう。

教会が聖霊を、また神の国、力、神の国の回復を受け取ることができるようにと祈ることは、教会の不遜の祈り、神を縛り付ける傲慢な祈りのように思われます。けれどもこの祈りは実際には最も深い謙遜から出た祈りではないでしょうか。つまり、神お一人だけが教会の最も必要としているものを知っておられ、それを与えることができるという謙虚な理解と信頼に教会が立っているからではないでしょうか。

さて、教会の誕生ということを語るとき、忘れてはならないのが、この使徒言行録の著者と同じルカによって書かれたルカ福音書のイエス誕生物語です。使徒言行録における教会の誕生とルカ福音書におけるイエスの誕生との間に実に興味深い平行関係が有ります。両者とも聖霊の到来で物語が始まります。どちらも誕生の直前には聖霊の働きが有ります。またどちらも聖霊の約束は洗礼者ヨハネと対比されています。イギリスの詩人T・S・エリオットは「私の始まりの中に私の終わりが存在する」という意味のことを言っているようですけれども、イエスはその誕生物語に於いて既に世の救い主、主メシアであると天使によって告知されました(ルカ2:11)。またシメオンによって剣で心を指し貫かれる(同:35)と、そのように言って十字架の死も預言されていました。それと同じように、この教会誕生物語の中に、今日まで至るその後の教会の方向性を指し示す何かが隠されているのではないか、一番初めの教会の揺籃期における物語から多くを学びたい、そんな思いを強くする者であります。

それでは、この日、弟子たちに注がれた聖霊とはどのような方なのでしょうか。聖霊とは私たち個々人の生活の中で、教会の中で、またこの世界の中で、今、ここに臨在し働く生ける神のことです。このように聖霊は、今、ここに臨在し働く生ける神ですから、一つの人格をもったお方です。私たちがよくするところの誤りは、聖霊というものを中性形で、中性の形で語る、物として語るということです。即ち、“それが私たちの生の内に働くとき”、であるとか、あるいは、“それが私たちの感覚や言動を支配するとき”、そのようにして聖霊を「それ」として、「物」として語ることです。聖霊というものを人の中に何らかの仕方で入り込む人格的ではない、神の力やエネルギーのようなものとして考える向きが有ります。聖霊というものを電気のようなものとして考えることがしばしば行われますけれども、これは大変誤った比喩であります。神というコンセントに接続されれば私たちの内に力が流れ込み、心に明かりが灯されるなどという言い方がそれにあたります。こうした比喩は聖霊というものを非人格化し、更には人間をも非人格化します。聖霊は私たちの内に入り込む魔術的な何かあるものではなくて、私たちのもとに来て、その内に、また私たちの間に棲んでくださる、宿ってくださる或る方なのです。人間もまた何か或る外の力によって灯されたり制御されたりする電球やバッテリーのような物体ではありません。そうではなく、私たちは自分で考え、意志し、感じる、そしてまた私たちの命の源である神に応答する、そういう人格なのです。このように聖霊と私たちとの関係というものを、神と私たち自身との間の人格的な関係として考えることが先ず第一のこととして有ります。

   聖霊を人格であると言いましたけれども、ヨハネ福音書は聖霊のことを「パラクレートス(par,klhtoj)」と言っています。これは「パラカレオー(parakle,w)」「傍らに呼ぶ、傍らに招く」という意味を持つ動詞から出来た「傍らに呼ばれたもの」という意味をもっている言葉であります。パラクレートス、新共同訳聖書では「弁護者」と訳されていますから「炎(父である神の傍らに在って私たちの罪の赦しのために)弁護する者」という意味になるでしょう。パラクレートスはその他、「慰め手」とか「助け手」とも訳されています。いずれにしても父である神の傍らに呼ばれるという父と親しい関係に在る一人の人格であることは間違いありません。

聖霊をこのように三位一体の神の一つのペルソナ、即ち人格として考えるとき、聖霊というものを ―「もの」というふうに言ってはいけないと思いますけれど― 聖霊という方を神の女性的な面として考えるべきであるという、そういう見方が有ります。旧約聖書のへフライ語では「霊」を表す「ルーアッハ ????」という言葉は女性形です。また新約聖書ヨハネ福音書では人間の性の始まりが霊から生まれることとして語られています。また「慰めを与える」という聖霊の役割は、旧約聖書イザヤ書の「母がその子を慰める(66:13)」ように、私たちに心を配る神のことを想起させます。しかし三位一体である神は、女性を排除しての、そういう意味での兄弟関係でもないし、父と子というこの二つの男同士の関係という、そういうことでもありませんし、二人の男性と一人の女性という、そういう組み合わせでもありません。聖霊としての神は私たちのあらゆる性別を超えた方と、そういうふうに言うべきでありましょう。

それでは今朝の使徒言行録の物語が伝えようとしている聖霊に目を向けてみたいと思います。冒頭の1節に「一同が一つになって集まっていると、」とそのようにあります。集まっている一同の上に、即ち教会の上に、神の霊は注がれたのです。信じ祈っている共同体の上に注がれたのです。聖霊というものは信じる個々の者が私物化できる、私の物とすることのできる個人的な神からの賜物ではないということです。その神の霊が彼らの間に、彼ら各々の上に、神に属する民を、そのその他から区別する際立ったしるしとして与えられた、そのようにここでは語られています。

 この五旬節の新しい日は、風のような天からの音の噴出によって始まります。この風は一番初めの創造の時水の上を覆っていた風かもしれません。かつて風が再び物事に命を、ここで新しい命をもたらすのです。最初は音だけでしたけれども、今度は目に見える物が現れます。「炎のような舌」です。この後、4節になって初めて私たちは、この突入してきた不思議な物が約束された聖霊に他ならないことを知ります。神の力の象徴として「炎」を用いることは聖書ではごく普通のことです。洗礼者ヨハネは後に行われる救い主の洗礼は聖霊と火を伴うものであって、そこには審判と清めの意味が有る (ルカ3:16a-17) のだと、そのように語っていました。

   この「炎のような舌」がそこに集まっている人々に奇蹟的に語らしめた他の国々の言葉という霊の賜物へ展開されていきます。霊の最初の賜物は言葉の賜物、異なった言語で語るという賜物であります。確かに霊的な恍惚状態に陥った人々が自分の知らない外国の言葉を語るということは異言として知られていますけれども、ルカがここで言わんとしているのは別のことです。ルカはこれに続く場面の中で、自分はペンテコステに於いて弟子たちが語り出した事の内に全世界的な教会の宣教が予め示されているということを確かに見た、そういうことを明らかにしています。その時、全ての国の人々が、聖霊の力に於いて、福音の教えを通して、一つの理解の中に入れられると、そのようにルカは言うのです。

さて、場面は素早く変わり、弟子たちが集まっていた上の部屋の中から既に福音が民衆を惹き付けている、こういう外の通りに場面は移ります。ルカはその福音書の初めに、洗礼者ヨハネを、イスラエルの多くの子らをその神である主の下に立ち帰らせる者として描いています(1:16)。外の通りでは「天下のあらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人が」初めて、この弟子たちの教会に出逢い、呆気にとられているのです。
   
   霊の突入は教会を宣教へと導きますが、またそれは傍観者である民衆の戸惑いを引き起こすことにもなります。民衆の中には、起こったことが何であるか知ろうともしない人々もいたことでしょう。しかし中には洗練された高度の教養を持ち、このような或る意味奇妙な宗教的熱狂の表れに対して“あの人たちは新しい酒に酔っているのだ”とそのように嘲る人もいました(:13)。彼らは教会が神の賜物として宣言したこの霊の力のことを「酒に酔っている」という説明の仕方をするこの世の大方の見方を代弁しているとそのように思います。いずれにしても、霊の突入は、通りにいる民衆を心の底から不安に陥れ、とても恐れさせたこと、そのことは間違いないと思います。

このような民衆の在り様が、弟子の一人が立って語るための切っ掛けとなりました。先ほどの聖書朗読には在りませんでしたけれども、これに続く14節からペトロの説教が始まります。私たちはこの五旬節の出来事に先立って弟子たちが上の部屋に集まっていた時のペトロのことを既に知っています。それは裏切者ユダに代わる者を見出すことが必要だと、そのように語るペトロです(使1:16-22)。私たちはペトロの繰返しイエスを否認し裏切ったことの経緯を未だに強く印象付けられているので、裏切者ユダに代わる者を見出すべきだという、そのようなペトロの言葉は聴くに堪えないそういう想いが致します。確かにあの時、弟子たちの中でペトロだけが遠く離れて従ったのでありますけれども、女中に問い詰められて「私はあの人を知らない(ルカ22:56-58)」という言葉を語ったのはペトロだけでした。ユダだけが裏切者ではなかったということを想うとき、ペトロがユダを非難し、彼に代わる者を直ぐに選び出そうとしたことに私たちは何か空虚なものを感じてしまいます。しかしここでは、半ば不審顔で、半ば嘲っている民衆を前にして、ほんの数週間前には、真夜中女中にさえ語ることができなかった言葉をペトロは初めて声を張り上げ、そして昂然と語っているのであります。

創世記(2:7)によると神の霊は塵に命の息を吹き入れ、そして人間を創造しました。この使徒言行録2章では、神の霊はかつて臆病であった弟子たちに命を吹き入れ、今や大胆に語ることができる賜物をもった新しい人間をここで創造したのです。

神の霊は教会が福音を携えて民衆の場へ出て行く力です。教会に民衆を惹きつける力です。新たな風がこの地上に解き放たれた。その風は或る人にとっては怒りと混乱の嵐を引き起こし、また他の人々にとっては希望と力を与える生き生きとした息吹となるのです。

五旬祭の出来事は神の救いの歴史における特別な瞬間ではあります。けれども教会を清め、エンパワーメント(empowerment)する神の霊の注ぎ出しは、神がご自身の救いと贖いの約束にあくまでも忠実・誠実であろうとしてキリストを通して今も生きて働いておられることの何よりのしるしなのです。

今から93年前の6月、高倉徳太郎牧師を中心として誕生した小さな教会エクレシア(evkklhsi,a)、その時与えられたキリスト・イエスによる神の霊、聖霊は、今も確かに、事新しく、私ども教会に与えられています。弟子たちがそうであったように、大胆に語ることのできる賜物をもった新しい人間を教会の中に創造し続けておられます。教会の創立を記念するということは、キリスト・イエスによる神の霊・聖霊が、今、確かに与えられている、この命の事実に感謝と喜びの声を高く挙げることではないでしょうか。そしてこの事実を語り合い、その事実によって互いに励まし合おうではないか、それが“記念する”いうことです。今朝の聖書はそのように私どもに語りかけています。


祈祷致します。主なる神よ、語りました言葉をあなたの聖霊の働きによって活ける命の言葉としてください。私たちは自らが無価値なことを認め、あなたが私たちの体や魂に何度も繰り返し向けてくださる善き賜物を感謝しつつ、あなたの御前に歩んで参ります。

どうかあなたの御霊を与え、私たちを助けて、あなたの善き御業の内に、あなたを正しく認識し、義しく褒め、称えるようにさせて下さい。

どうかあなたの光が私たちを照らしてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
   
私たちのただ一つの望みである主イエスを、私たちに先立っていてくださり、私たちと共にあり、私たちを後押ししてくださる主イエスを、あなたの聖霊の力の助けによって、常に知り続け、愛し続けていくことができますように。
   

(2017年6月4日礼拝説教)


 
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