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 2017年1月8日 降誕節第3主日礼拝説教  【キリストが拓かれた義の道】 笠原 義久

イザヤ書42章1-4節、マタイによる福音書3章13-17節



教会の暦では、1月6日、一昨日のことですけれども、1月6日は公現日エピファニーEpiphanyと言われています。この日は主の降誕を知った東方の占星術師たちがやっとベツレヘムに到着し、御子を礼拝した記事、即ち主イエスが異邦人にも公に顕わされて、世界の救い主であることを示された日、言わば世界宣教開始の日であります。その意義を更に展開しているのが今朝のイエスの受洗の記事、古来から、公現日の次の主日の聖書日課として用いられてきました。主の受洗、即ち主イエスの公生涯、公のご生涯の開始であります。

先ほどお読みいただいたマタイ福音書の新共同訳聖書の訳には、指摘されなければならない幾つかの問題がありますので、初めにそのことに触れておきたいと思います。

第一に、冒頭「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。」とあります。これは明らかに、この3章冒頭の「洗礼者ヨハネが現れた」という言葉に対応するものです。つまりイエスの受洗の出来事は、洗礼者ヨハネの出現と宣教の継続であって、またその完成であるという福音書記者マタイの理解を伝えている非常に重要な出来事なのであります。ヨハネとイエスの出現に関して全く同じ動詞が使われている以上、イエスの場合も単に「来られた」ではなくて、イエスの場合も「現われた」と訳すべきでありましょう。そして両者の出現が同時に、一方でヨハネの場合は「備え・先触れ」として、他方イエスの場合はヨハネより優れた方として、従って「ヨハネの先触れの完成として現われた」と訳すことによって、ヨハネの出現も、更になおさらのことイエスの出現も、それは神の出来事であったと、順序立て、そして段階立てようとする、そういうマタイの意図にきちんと沿うことになるように思われます。神の出来事は、先ずヨハネの出現において事実となった。続いて一段とその意味を高めてイエスの出現に至っていると言うのです。

第二は、ヨハネから洗礼を受けようとし、これを思い留まらせようとするヨハネに対し、イエスが答えた15節の言葉「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」というイエスの言葉についてです。この言葉はマタイ福音書記者が報じる主イエスの最初の言葉であるということに注目すべきだと思います。マタイはここでいわばイエスの自己紹介を意図しているのではないでしょうか。これはイエスの宣教の第一声に先立つ言葉なのです。であればこそ、この福音書全体のイエスの言葉と働き全体の中でこの言葉は聴きとられなければならない、そのように思います。ここは直訳すれば「今はそうさせよ、義の全てを成就する、(あるいは)完成することは、我々に相応しいことだ」、そのようになります。新共同訳聖書が「正しいことを全て行う」と訳したのにはそれなりの理由があることはよく分ります。確かにマタイは「義」ということを「神の戒めに従って生きる行い」という意味で捉えています。新共同訳が「義」ということを、「正しい行いを一つひとつ数え上げた上での全ての正しいこと」というふうに訳さずに、「正しい」ということを一つにまとめて・包括して「正しいことの全て」と訳していることは、それは正にその通りだと思います。しかしマタイの言う「義」というのは、何か説明的な、正しいことというような、そういうことではありません。そうではなく、やはり包括的な、あらゆるものを包括し含むような「義」というふうに捉えるべきだと思います。イエスが「義の全て」と言う時、それは正しいことに示されるような、正しい行いというものを総括したことではなくて、“義の姿勢、義の態度、心の在り方を総括した”というふうに言ったらよいかもしれません。それをイエス自身の姿勢、態度、あるいはあり方、あるいはイエスの教えというものに則して言うならばそれは、イエスご自身の「柔和」と「謙遜」ということに集約できるのではないかと思います。そして少なくともマタイはそのように見ていると思います。

マタイ福音書11章28節の有名な主イエスの言葉:疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

   イエスはそのように自己紹介をしているのです。ですからここも、「義」ということをイエス自身の在り方と教え方に則してやはり理解しなければならない。「正しい行い」ではなく、「柔和」と「謙遜」、「柔和」ということは優しく、そして柔らかく、柔弱というような意味ではなくて、もっと積極的な意味をもっていると思います。どのような苦難の中にあっても、他人に愚痴をこぼしたり、責任をなすりつけたりすることなく、謙遜にひたすら耐えて神に服従するということ、それが聖書で言う「柔和」ということの意味だと思います。ですから「柔和と謙遜」ということは「従順と謙(へりくだ)り」だというふうに言い直してよいかもしれません。神の意志に従順であること、神の意志に“そうです”、愚痴をこぼしたり、責任をなすりつけたりしないで、耐えて神に“そうです”と言って服従すること、それがここで言われている「義の全て」だというふうに言ったらよいかも知れません。

このことはその誕生から受難、そして十字架の死に至るイエスの生涯全体について、言わば通奏低音のように響いている、そういうマタイ福音書に一貫した基本的な姿勢だと思います。イエスの受洗ということに則して言うならば、イエスが洗礼を受けるという事実が正しいことなのではなくて、イエスが洗礼を受ける際にも持ち続けている「柔和、従順、謙遜」こそが、それがイエスの義の姿勢・態度、そして心の姿勢であると、そういう意味であろうかと思います。


もう一カ所、「義」という言葉が用いられているマタイ福音書の個所、それはイエスが恐らくファリサイ派の人々に語った言葉でありますけれども、21章31節以下、徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。

「ヨハネが来て義の道を示した」とイエスは言っています。ここも直訳すれば「ヨハネがあなた方の所に、義の道を通って、やって来たのに」であります。ヨハネはあなた方の所に義の道を通って来たのです。ですから今日の個所、「義の全てを成就する」ということは、一つには洗礼者ヨハネが歩んでいる義の道を全うする、義の道を完全に歩き尽くすということに他ならないのです。

   「義の全てを成就する」ということ、それはもう一つには、イエスがこの世に来られたこと、その生涯の全てのことであります。5章17節のイエスの言葉:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

律法や預言者、即ち旧約聖書全体、そこに啓示されている神の救いのご意志、その意志に自分は、柔和に謙遜に服従する、それが義の全てを完成・成就することに他ならないと、そのようにイエスは言っているのです。
   
   このようなわけで、この福音書における最初のイエスの言葉、イエスの自己紹介とも言えるその全生涯の在り方を実に的確に告知する言葉を、新共同訳が元来の「成就する」「完成する」ではなく、単なる「行為を行う」というふうに訳し、それを正しい全てのこととつなげて矮小化してしまっているのはやはり問題点として指摘されなければならないでしょう。


さて、先ほど、神の出来事は、先ずヨハネの出現において事実となり、続いて一段とその意味を高めてイエスの出現に至っているというふうに申上げました。それでは洗礼者ヨハネの出現において事実となった神の出来事とは何であったのか。今朝のイエス受洗に先立つヨハネの宣教とは何であったのか、そのことを少し振り返ってみたいと思います。

ヨハネがユダヤの荒野で人々に語ったのは火のように激しい裁きの言葉であり、悔い改めへの勧めでありました。蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。……斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(3:7,10)

私たちはこのバプテスマのヨハネの言葉の背後に彼の深い嘆きを聴き取ります。ヨハネはユダヤの指導者たちや民衆一般に向かって語っているだけではなくて、自分こそまさしくこの言葉を骨の髄まで語り込まれなくてはならない、そういう者だという思いに駆られていました。自分自身こそ悔い改めをすべき筆頭者であると、そのように見ていたに違いありません。勢い自らに語る言葉は傍らに人が居ない時のような激烈な口調にならざるを得なかった、更にまた神に対する恐れと、同胞イスラエルに対する愛は、その愛の深さの故に、激しい叱責の言葉となったのでしょう。それがヨハネの悔い改めを求める激しさの所以だと思われます。

そのヨハネが人々に施した悔い改めのバプテスマ、それは私たちが今日、社会改革であるとか、あるいは人間改革だとかというふうに言っていることと重なる事柄だと言ってもいいかも知れません。ヨハネの水によるバプテスマはユダヤの人々にとっては本当に画期的な教えでした。人々は続々とバプテスマに与りました。しかし問題はそれで解決したのではないということ、そのことをヨハネ自身が最もよく知っていました。彼のバプテスマによっても、神の人間に対する決定的な“然り”ということはまだ聴くことができません。イスラエルは依然として罪の中にあり滅びの道を免れることはできない、ヨハネにはありありとそのことが見えていました。そしてヨハネの深い嘆きはそこにあったと言うべきでしょう。

ヨハネの深い嘆き、一種の絶望感、それは私たちがどんなに悔い改めたとしても、私たちがどんなにバプテスマ・洗礼を行っても、神の義に耐え得るほどの義を作ることはできないということなのです。神の義は神の民であるユダヤの人たちの罪、またユダヤ人そのものをも焼きつくす炎となって燃え上がるものです。いったいそういう神の義の火の中に人間が生きていく望みがあるのか、義を求めれば求めるほど絶望も深くなる。

しかしその時、正にその時、イエスがヨルダン川のヨハネの許に現われたのです。イエスはヨハネに向かって語ります。“あなたが待っていたわたしが、あなたが予想していた通りではなく、このような姿で、あなたの許に一人の悔い改めるべき者として立つことによって、あなたもまた、塞がれていたと思っていた義の道が突破される、切り開かれる。”

イエスはそのように語っているのではないでしょうか。そういう意味で主イエスは、もうこの時既に洗礼者ヨハネに先駆けた者としてここに立っているのです。先を行っているのです。


このことをもう少しよく理解するために、もう一つ踏まえるべきことがあります。それはこの15節のイエスの言葉「我々にふさわしい」、イエスが洗礼を受けるということ、そのことは「我々にふさわしい」、この「我々」という言葉の中には、イエスとヨハネだけでなく、もっと広く、もっと多くの人々、そしてこの私たちも含まれるということです。言うまでもありませんが、イエスはここで、一人で立っておられるのではありません。ヨハネに向かって一人で立っているのではありません。悔い改めのバプテスマを受ける為に集まってきている人々の中に立っているのです。そしてそこから声を発しているのです。特別な玉座に座って、“わたしはなの人たちとは違う”とそのように仰っているのではありません。自分の罪を悔い改めなければならない、少なくともそのことに気付いた人々、悔い改めなければならない自分の惨めさに泣いている人々、自分の貧しさにやり切れない思いを抱いて、エルサレムの都を離れてヨルダン川の畔にまでやって来た人々、その人々にとって共通のことは、今ここで、この罪を解決しなければ自分の将来の扉を開くことができない、そういう思いだったに違いありません。何とかして押し動かそうとしているけれども、この扉は動かすことができない。であればなおのこと、ここで言われている「我々」には、今ここに生きている私たちも含まれるに違いないのです。

そういう私たちであるならば、そういう人間がなお、神の義に見合うことができるのか、相応しく在れるのか、そのことが問題になります。それは言葉を変えて言えばこういうことになると思います。私たちは本当に神を畏れることができるのか、神を畏れて自分の罪を恥じることができるのか、罪を犯したならば犯したでそれを率直に言い表すことができるのか、悔い改めることができるのか、思いがけず迫って来る自分の死に怯える時、怯えることは人間として止むを得ないかもしれないけれども、しかし、そこでなお、その思い煩いを捨てて、死を超える神との永久(とこしえ)の命の交わりを確信することができるであろうか。それが私たちの「義を問う」ということではないでしょうか。

私たちの「義」というのは、ただ私一人の、自分ひとりのこととして理解されるような、何かの徳というようなことではありません。そうではなくて「義」ということは、何時も神との関わりの中でこそ捉えられなければなりません。ですから神と何時もきちっと向かい合うことができるのか、関わることができるのか、祈ることができるのか、バプテスマを授ける時、洗礼者ヨハネがまず求めたことは、“人間は神の如く成れ”ということではなく、“本当に人間らしく神の前に立て”ということではなかったでしょうか。

しかし本当に人間らしく神の前に立つ、人間らしい義の道に生き切るということはどんなに難しいことでしょうか。そのように怯え、途方に暮れる思いに叩き込まれているような私たちのために、主イエスは正に今ここで、洗礼者ヨハネに先立って、言わばヨハネを追い抜くようにして義の道の先頭に立ち、全ての者が通れる道を開くために先立って歩み始めた。
   
主イエスの受洗ということは、主イエスが罪人の一人として洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということ、それは今申し上げたように、私たち全ての者のために洗礼者ヨハネに先立って、ヨハネを追い抜くようにして義の道の先頭に立ち、一人の開拓者として、私たち全ての者の義の道を、罪人として義の道を改革してくださったということではないでしょうか。
   
イエスがバプテスマを受けたその時、天からの声が聞こえたと聖書は記しています。その天からの声は、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」という言葉です。この言葉は私たちに二つの旧約聖書の言葉を思い起こさせます。一つは先ほど交読いたしました詩編2編7節です。主の定められた所に従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日わたしはお前を生んだ。」
   
この詩編は王の即位の詩編と言われています。ユダヤの民がその周りの国々が揺れ動いている時に、神が眞の王を立ててくださった。その真実の王の即位に際して、神が“これは私の子だ”と呼び掛けられるのです。これは王が神によってその位に就かされることを意味します。
   
   
もう一つはイザヤ書42章1節です。見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。ユダヤの民を救うためにやがて来たるべき王ではなく、僕がここでは語られています。更にイザヤ書53章ではこの僕が「苦難の僕」として次のように歌われています。彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執成しをしたのは、この人であった。
   
もう一つはイザヤ書42章1節です。見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。ユダヤの民を救うためにやがて来たるべき王ではなく、僕がここでは語られています。更にイザヤ書53章ではこの僕が「苦難の僕」として次のように歌われています。彼が自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執成しをしたのは、この人であった。
   
洗礼者ヨハネの許に来て、悔い改めるべき者の中の一人として主イエスが立った時、この「苦難の僕」の歌が成就するのです。主イエスは罪人の一人に数えられます。“この者こそが、わたしがあなたがたに与える王であり、わたしがあなた方に与える僕である。この僕はあなたと共に仕える僕、いやあなた方に仕える僕である”とそのように言われているのです。
   
この王と僕との不思議な結び付き、それこそが主イエスの奥義であり、主イエスがここで成就しようとしている神の御心の司(つかさ)でもあるのです。そしてこのことは私たちの将来を、ご自分の手にしっかりと捉えようとする主イエスによる神の御業、救いの御業の確かな始まりを告げているのです。私たちが自分の手で自分の将来を確保すること、それよりも遥かに勝る、遥かに確かな未来に生きる道であるのです。そしてそれこそが、イエス・キリストが私たちのためにバプテスマによって開拓してくださった道、義の道なのであります。祈りましょう。
   
神さま、語りました言葉を聖霊の働きによって活けるあなたの御言葉としてください。主イエスは洗礼者ヨハネを押しのけようとはせず、そのヨハネの許に罪人として立って下さいました。そしてそのような仕方で、あなたは御子イエスの手に、まことに確かに、私たちの生きる時にも死ぬ時にも変わることのない慰めを確保してくださいました。
   
私たちのただ一つの望みである主イエスを、私たちに先立っていてくださり、私たちと共にあり、私たちを後押ししてくださる主イエスを、あなたの聖霊の力の助けによって、常に知り続け、愛し続けていくことができますように。
   

(2017年1月8日礼拝説教)


 
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