生きていくということは疲れることです。適度に体を動かした後のさわやかな疲れなら、あっても良いでしょうが、生きていく力が奪われるような疲れは問題です。
疲れには肉体的疲れや精神的疲れなどの種類がありますが、まず第1にやってくるのが精神的な疲れでありましょう。たとえば、人間関係から生じるのは、精神的な疲れです。人間は、人との関わりの中でしか生きていくことができませんが、その人間関係の中で、私たちは疲れを覚えるのです。なぜでしょう。私たちはお互いに棘を持っているからです。人と関わりを持つために近づくと、お互いの棘がお互いの心を刺して、傷つけあい、心の傷と痛みによって私たちは疲れてしまうのです。
また第2に、私たちには、肉体的な疲れが生じます。それは、多くは自分の本分である仕事から来ます。労働時間の長さや仕事の量で、体は疲れ果てます。振り払ったはずの仕事が、2、3倍になって押し寄せてくるようなこともあるでしょう。人のいい人が、より多くの労苦と荷を引き受けることになってしまうのではないでしょうか。また仕事が早い人が、頼まれたことをすぐやるので、より多くの仕事を頼まれるようになり、負担が増えていくようです。そして、このままでいくと自分が潰されてしまうという恐怖感さえ持つのです。
第3に、ボランティアや奉仕も疲れの原因になることがあります。自ら引き受けたボランティアであっても、だんだん疲れて来ます。我慢してやっているうちに、どうにもならないくらいの負担になってきます。
その他にも、私たちには、自分固有の重荷というものがあります。人知れず抱えている病気やハンディーなどです。その大変さは、人に言っても決して分かってもらえるものではありません。そのように、私たちが抱える疲れとその原因は、挙げ出せばきりがないのです。
しかしながら、今日の箇所でイエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言っておられます。様々な重荷を負って疲れ果てている私たちに、このように語りかけてくださる方がおられるのです。
ここで言われている「休ませる」とは、最早疲れることがなくなるようにしてくださるという意味ではありません。この世に生きている限り、重荷自体はなくなることはありません。しかし、癒され、新しい力を与えられて、また人生の歩みへと戻っていける、そういった休みを与える、とイエス様は言われるのです。このみ言葉は、世の疲れや重荷でもって息も絶え絶えの人だったら、皆、関心を持ち、耳をそばだてるみ言葉ではないでしょうか。
さて、イエス様は、休みを得るため私のもとに来なさい、と言われますが、いったいどこに行けばいいのでしょうか。イエス様は、今は天におられますから、地上のどこかに行けばイエス様に会える、ということではありません。一言で言うと、教会に行くことです。今日、教会はいわばイエス・キリストの体として、世にあるのです。11章29節では、「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。ですから、教会に来て聖書に学ぶことが、イエス様のもとに行くことなのです。そして、教会で、魂に安らぎが得られます。
もっともイエス様は、同時に、私の軛を負いなさい、とも言われています。軛とは、魂の安らぎとは正反対の、あまり良くないイメージの言葉ではないでしょうか。軛というのは、車のながえの先に取り付ける横木であり、それを牛や馬の頭に当てて車を引かせるための道具です。これに繋がれると、牛や馬は自由を奪われて、車を引くことしか出来なくなります。飼い主の指示する方向に、指示された時に歩かなければならなくなります。イエス様は、人生に疲れた者に私の元に来なさいと言われますが、私たちを軛につなぎ、束縛されるのでしょうか。そうではありません。ここのところは少し難しいかもしれません。この、「私の軛を負え」とは、その後の「私に学びなさい」という言葉とセットになっています。つまりイエス様が教える、人の道の教えに学び、生きるようになることが、イエス様の軛を負う、ということなのです。
ユダヤ教の時代にも人の道の教えはありました。律法です。でも、律法の教えとは、人が守り切れない倫理的教えであり、多くの人にとって相当に重い軛だったのです。ユダヤ教の教師たちは、自分でも守りきれない律法の教えを民衆に押しつけていました。しかしイエス様は、ご自身の新しい教えを語り、律法の教えという重い軛から人々を解放しようとされたのでした。つまり「ユダヤ教の教師が押しつける厳格な教えから、私の教えに乗り換えて生きる方が、やさしい」ということ、それが「私の軛は負いやすい」と言われたことの意味だったのです。だから、ここでイエス様は、軛を取り替えよと言われたのでした。何だ、軛を取り替えてもらうだけであり、軛自体からは解放されないのか、と、皆様は、思うかもしれません。でも、どうでしょう。何らかの、人の道の教えから自由になることは、いいことではないのではないでしょうか。人間というものは弱いもので、何らかの、人の道の教えというものから解放されても、今度は罪の奴隷という軛に繋がれて、サタンの奴隷という不自由の身になるのです。従って、イエス様の教えという軛に繋がれることが、私たちにとって最も自由になる道なのです。そういうわけで、イエス様は、軛を、私のものと取り替えよと、勧めておられるのです。
日本にも仏教などの、人の道の教えがありますが、それも軛です。熱心な人は善人になろうとして懸命に努力し、宗教的教えを実行しようとします。しかしそれが満足いくところまで実行出来るほどに、なれるでしょうか。自分を変えることは大変難しく、正しい人になりたい、心清くなりたいと願い、修行をしますが、心が清くならないということで悩み、疲れ果てる、ということが起こるものです。そのようにユダヤ教の律法だけではなく、およそすべての宗教の教えというものは、実行できない重たい軛なのです。だがそのようなことで疲れている者に対しても、イエス様は今日の箇所で呼びかけておられます。「私のもとに来なさい。軛を取り替えよ、私の教えという軛は、負いやすいのだ」と。
今日ここにおられる方の中にも、また私たちの身近な人の中にも、イエス様の教え以外の、様々な人の道の教えという軛に繋がれ、疲れ果てている方があるかもしれません。その軛をイエス様の教えという軛に取り替えることが、勧められています。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われているのです。
イエス様の教えとは、律法に対して「福音」と言われているものです。福音(よきおとずれ)とは、イエス様は十字架上で私たち全人類の罪を代わりに背負って精算して下さった、故にイエス様を救い主と信じる者は、神の御前において義人とみなされる、というものです。
世の様々な人の道の教えは、自らの修行や人間の努力によって神の前に義人になるべきと教えていますが、いまやその方法ではなく今ひとつの道が開かれたのです。このイエス様によって新たに開かれた「福音」という軛に取り換えませんか。そうすることによって、私たちには何が生じるのでしょうか。軛がはるかに負いやすくなります。
そしてそれだけではありません。イエス様の軛に共に繋がれるようになるのです。実は先ほどから話に出てきているイエス様の軛とは、一方にイエス様が繋がれているところの軛なのです。つまりその軛に私たちも繋がれるならば、それによって、イエス様が私たちの人生の荷を一緒に引いてくださるようになる、ということなのです。すると私たちの荷は軽くなるのです。イエス様がご自身の軛につないでともに並んで負ってくださるようになるので、軽くされるのです。それが、イエス様の招きに答えてイエス様のもとに飛び込んだ時に起こることです。
「足跡」という詩を紹介します。
人生を終えたある男が、自分が歩いてきた道を振り返りました。するとそこには2組の足跡があるのが確認できました。1組は自分で、もう1組は自分と共に歩いてきてくれたイエス・キリストの足跡でした。それを見ながら男は、ああ、あのときはあんなことがあった、と思い返していたのですが、でもよく見ると、部分的に、1組の足跡しかないところがありました。そのときは実はひどく辛い思いで毎日を過ごしていた時期でした。男はどおりで、と思いました。あのときは、イエス様はともにおられなかったのだ、と思いました。でもなぜあの時あの一番辛かったときに、イエス様は私とともにおられなかったのだろう、と男は疑問に思い、なぜでしたか、とイエス様に尋ねました。するとイエス様は答えました。あなたが苦しんでいたあのときのあの足跡は、わたしの足跡である、と。男は、驚いて言いました。ではあの時の私の足跡はどこにありますか、と。するとイエス様は言いました。わたしがあなたを背負って歩いていたのです、だからそこにあなたの足跡はないのです、と。
ということで、イエス様は、ともに歩んでくださる方でありますが、それだけでなく最も苦しい時に、私たちの重荷を担ってくださる方、それどころか私たち自身を背負って歩いてくださる方なのだということです。
今朝私たちは、全ての重荷を携えて、主のもとに行きましょう。この方の「わたしのもとに来なさい」という招きは、この方との出会いの中に飛び込んでいくことが求められている招きです。イエス様は私たちを招き、いつもともに歩もうとしてくださり、私たちの重荷を一緒に背負ってくださろうとされます。そして本当に私たちが重荷で苦しむとき、イエス様は私たち自身を背負って歩いてくださるのです。私たちはこの朝、主の招きの言葉に応じましょう。心の重荷があれば、あるだけ携えて、密室で祈りの内にイエス様にお会いし、そして心の内を主にうち明け、その重荷を主に共に担っていただく人生に、導いていただきましょう。
(2016年5月22日礼拝説教)
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