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 2016年4月24日 礼拝説教  【目が開かれ、心が燃える】 笠原 義久

列王記下6章8~17節   ルカによる福音書24章13~35節

 
 この物語に登場する2人の弟子は、エルサレムに滞在していたときに主イエスの十字架を目撃し、その後エルサレムから60スタディオン離れたエマオへの途上にありました。十字架の出来事から3日目で、彼らは十字架を目撃し、埋葬されたことも知っていて、さらにその墓が仲間の女性たちの報告では、空虚であった、ということも聞いていました。エルサレムからわずか12キロほどしか離れていない場所で、ここに記されている出来事は起こりました。

 この2人に、十字架につけられ、死んで葬られ、そして復活された主イエスが自ら近づいて来られました。しかし、2人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかったのです。

2人の弟子の心はキリストの接近にもかかわらず、閉ざされたままでした。「2人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」という事態は、決して肉体的な問題ではありません。そこに起こっている出来事が救いの出来事として読み取れない、復活が分からないという事態なのです。

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 「聖なる解釈」という言葉があります。聖書をとおしてのキリストとの「真実な出会い」、すなわち聖書によるキリストを知る方法のことを、ある人は「聖なる解釈」と呼んでいます。少々難しい言い方ですが、近代語の「解釈」という言葉の語源となった言葉が、この物語の中、27節で使われています。イエスは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。この「説明された」という言葉がそうです。ですから、聖なる解釈 とは、イエスが言うところの「聖書」すなわち旧約聖書が、主イエスの十字架と復活について証ししていること、そしてその証言をとおしてキリストを知るということは、その聖書の言葉をとおして生けるキリストと出会うことに他なりません。まさにこの出会いへと人々を招くこと、それが聖なる解釈です。そのような聖書の読み方、あるいは聴き方を私たちは、礼拝をとおして身に着けることを求められています。

 「大きな古時計」という歌があります。「おおきなのっぽの古時計、おじいさんの時計、百年 いつも動いていた、ご自慢の時計さ」という歌詞で始まります。この古時計は誰でも見ることができます。しかしこの古時計を見て、この時計を「おじいさんの時計」と呼べるのは、おじいさんとの出会いを経験している人だけです。この出会いを知らない人は、その品質やメーカーや年代によって、この古時計を観察し、理解したと言い張るでしょう。しかしこの方法をもってしてはどうしても理解できない次元があります。それが「おじいさん」という次元です。それは出会いによってしか埋められません。この「おじいさん」という次元こそが、ここで言われている「遮られて」見ることができなくなっている次元なのです。この次元は説明されても理解できない。ただ「おじいさん」と出会うことによってしか知ることのできないものなのです。

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 イエスの十字架の死を、ラディカルな社会改革者のローマ帝国による処刑とみなし、イエスの復活を信仰的な熱狂による集団的幻想とまで言い切る時代に、生けるキリストを紹介する、それが聖なる解釈なのです。聴き手を「おじいさんの時計」と呼べるように導く、すなわち、今ここに立っておられる、寄り添って歩まれるキリストの存在に気づかせる。救いの出来事が起こっているにもかかわらず、それを別の現象であるかのように理解することから、既に起こっている救いへと人々を招くこと、生けるイエスとの出会いを引き起こすこと、それが聖なる解釈なのです。

 旧約聖書は、「今、ここで」起こっている主の救いのみ業が見えないという事態に、人間がしばしば陥るということを何回となく証言しています。

 旧約聖書列王記にあるエリシャの物語は、その典型的なものです。

 私たちは、その目を開かれることなしには、神が今ここに在し給うこと、神の現臨を知ることができないのです。たとい、この目の前に私たちのために神が遣わした火の馬と戦車が大きく展開しているとしても、です。主がここにおられるのに「目が遮られて」主の現臨を見ることができない魂の持ち主、この2人の弟子はエマオに向かう道で、まさに聖なる解釈へと招かれる経験をしたのです。

 さて、2人の弟子たちが聖なる解釈に導かれる前、すなわちなお目を開かれる前の状態にあった時のことで、ひとつ指摘しておかねばならない重要なことがあります。それは今ここにメシアが立っているのに、なお誤ったメシア像を持ち出す人間の愚かさです。この2人の弟子たちの議論は、いわば「空虚な解釈」によって支配されていました。ナザレのイエスについて論じてはいますが、そのことに心は占領されていません。見てはいるけれど、目は開いていない。議論のために議論を重ねる空虚な解釈なのです。

 実際、この2人の弟子たちの議論の主題は、預言者としての「ナザレのイエス」の十字架における処刑であり、この人こそイスラエルを救済する人だと期待していたのに、期待が外れたという話題です。しかも人から伝え聞いた話によれば、この処刑され、墓に葬られたナザレのイエスの墓は空虚であったというのです。彼らはイエスについての評論はするけれど、そのイエスと出会っていないのです。このことが決定的なのです。

 ある人はこう言います。「この弟子たちは、十字架によって、期待の人イエスが死んだことは納得できた。その失敗した解放の希望を受けとめることもできた。それは信仰の論理からすれば誤っているけれど、人生の経験から生まれる論理とすれば納得できる事態であった。『あの政治的な解放劇は失敗に終わったのだ』と言えばすべては問題なく受けとめられる。しかし彼らはその死体がなくなったということについては納得できない。だから延々と議論していたのだ」と。復活は、この世のどのような知恵も、論理も、議論もそれを証明することはできないのです。「空虚の墓」についてさまざまな解釈がなされてきました。しかし生きておられるイエス・キリストとの出会いなしには復活は理解できないのです。私たちは信仰の名のもとに、十字架や復活を論じ、その話題によって心が支配されることはあっても、実際、甦りの主ご自身によって心が支配されることは少ないのです。

 信仰とは、十字架や復活について知っていることでも、それについて議論できることでも、そのことが解決しないので頭がいっぱいになることでもありません。信仰とは、復活のいのち、主のいのちの息吹に支配されることに他なりません。

私たちの教会の創立者高倉徳太郎牧師の先生である植村正久牧師の、エマオ物語の説教が残されています。その中で植村は、信仰とは復活のキリストと「分けて親しく懇ろなる関係を結」ぶことで、主によって心が支配されることに他ならないという趣旨のことを言っています。キリストとの真実な出会い、まさにその時に「空虚な解釈」から「聖なる解釈」への転換が起こるのです。

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 物語のこの箇所において、一貫して2人の弟子に近づき、2人の弟子を導いているのはたとい「目は遮られて」いても、主イエスに他なりません。主イエスは自ら、積極的にこの弟子たちに寄り添います。この弟子たちの目が開かれるまで語りかけ、そして聖書を通して、ご自身において神が現れてくださっていることの意味を語ります。すなわち聖書を説き明かすのです。救いは向こう側から、聖なる解釈も向こう側からもたらされるのです。

 したがって、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」というイエスの言葉に始まる25節以下の箇所は、主イエスご自身による「聖なる解釈」の提示となっているのです。「目が遮られている」2人の弟子たちの状況は、「物分かりが悪く、心が鈍く、信じられない」と言い換えられています。その弟子たちの魂に主イエスご自身が聖なる解釈を提示するのです。その内容とは何か? それは聖書全体が、旧約聖書の全体が、今まさにイエス・キリストというお方自身によって成就していること、そしてそのお方が語りかけてくださることによって心が燃える、つまり聖書の言葉が生きた言葉として、人間を生かす言葉として、人間によって「生きられる」という経験をする、ということです。それが救いです。

「心が燃える」ということは、熱狂的な経験の中で聖書の言葉を認識するということではありません。またそのような心理的状況を作り出すことが、イエスの聖なる解釈の提示ではありません。そうではなく、聖書を読み解くということ、すなわち聖書全体がそこへと集約されていくイエス・キリストの十字架と復活を理解するということは、まさに生ける復活の主と出会うことによってのみ可能となるのです。

「出会い」という、今日では地に落ちてしまったようなこの言葉のもつ真の意味を回復し、2人の弟子たちが最初していたような空虚な解釈ではなく、まさに生ける主との出会いによって生み出されるもの、それが信仰なのです。そしてこの礼拝こそがその出会いの場に他なりません。私たちは、主イエスご自身がしてくださったこの事実の証人となり、近づいてくださる主に目を向け、目を開かされ、救い主としてこの魂に受け容れることへと招かれています。

(2016年4月24日 主日礼拝説教)

 
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