2016年の最初の礼拝に、私たちも古代の信仰者の群れに倣って、ヤハウェの即位式のうたの一つである詩編93編に聴きたいと思います。
「主は王となり、支配し治められる」。ここで王位に就かれる神はイエス・キリストです。もちろん、当時の人々が「ヤハウェが支配し治められる」とうたい告白するヤハウェは、天地創造の神で、混乱に秩序を、闇に光を、死の世界に生命を創造された神のことでした。彼らはうたにより、創造の秩序をもって世界を支配する神を自分たちの主として告白し、その事実に信頼と感謝を捧げたのです。
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今この詩編によって私たちが声をあげる時、王となられる神は、イエス・キリストによって御自身をあらわされる神、すなわちイエス・キリストそのお方です。
あたかも神の創造の御業がなかったかのように、創造の秩序に背を向け、自分とこの世界を混沌へと再び崩壊させようとする人間。したがって闇や虚無への傾斜を死に向って避け難く辿らなければならないアダムの末裔。そのような人間に、イエス・キリストは御自分の犠牲による恵みの秩序を与え、決定的に新しい方向転換をさせ、救いの支配の下に置かれるお方です。十字架により救いの御業をなし、その復活によって今も十字架の主として生きて働き、この世界と私たち一人ひとりを明るみに置き、世界の王となり、私たちを支配し治められるのはこのお方に他なりません。
詩編93篇によって、「イエスは主、王となられる」と言う時、現在、今この時に、私たちそれぞれの事情や時間、また場所において、イエス・キリストは主として私たちを支配しておられるという信仰と確信を意味します。けれどもそれと同時に、将来においても、私たちの目にもさやかに見えるように、全き御支配をなされるお方であるという望みを、この詩編から私たちは聴くのです。
「主こそ王。/威厳を衣とし/力を衣とし、身に帯びられる。/世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」。
ここで「王」というのは一つのたとえに過ぎません。「神が王となられた」という言葉、神が私たちをその配慮のもとに置かれるという事実を言いあらわすに相応しい言葉がないというのが詩編作者の思いであったのでしょう。それはまた私たちの思いでもあります。その不十分さを承知の上でこの御言葉の語る内容を聴き取りたいと思います。
「王となる」ということは、勝利者となるということです。もろもろの敵対する勢力に勝ち、また勝ち続けなければ王であることはできません。イエス・キリストは勝利者であると聖書は確かに証ししていますが、何に対する勝利者なのか? 宗教改革者カルヴァンは、イエス・キリストには二つの務めがあったと言っています。
「罪に勝利するのは彼(イエス)の務めであるが、義そのものでなくて誰にこれができようか。この世と空中の権力を滅ぼすのは彼の務めであるが、この世と空中を凌駕する力でないなら、誰がこれを為し得ようか」(『キリスト教綱要』第2篇12・2)。
ここで言われているこの世と空中の権力とは、聖書の別な言葉で言うなら、サタンとか悪霊、悪魔のことで、今これをサタンという言葉で括ると、イエスが対峙しているのは「人間の罪とサタン」ということになります。この二つはイエスによって滅ぼされ、打ち勝たれるべきものである、というのです。この二つが神の秩序、神の支配に敵対し、人間と他のすべての被造物とを混沌に帰し、虚無と死の滅びに至らせる、暗い悪しき力の根であるというのです。この二つに勝つことが、すべてに勝つことだとカルヴァンは言います。罪は人間の内から働いて人間を滅ぼし、サタンは外から働いて滅ぼす力です。人間の罪とサタンの力は抽象的・一般的なことではなく、具体的に私たちの日常生活のはしばしに起って働きます。
ヨハネ黙示録6章に描かれている白い馬に乗り冠を与えられた者のように、キリストも「勝利の上に更に勝利を得ようとして」、罪とサタンの働くところに、そのために苦しむ者の許に出て行って勝利の戦いを戦って下さいます。私たちはパウロが言っているように、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしは何というみじめな人間なのだろう」と言う他ない者で、罪にからめ取られ、罪の働きに責めさいなまれている現実を自らの内に見ざるを得ない者です。また、この時代の中にも、罪とサタンが力を発揮しているのを見ないわけにはいかない。それどころか、もはや罪などについてはまったく考えもしないで日を過ごしている場合も多いと言わざるをえない。それにもかかわらず、十字架に付けられたままなる勝利者イエス・キリストは、そのような私たちのため、この世のために、勝利の戦いを戦い続けていてくださいます。この事実によって、私たちは辛うじて支えられているのです。イエスは私たちのために、この世界の全被造物のために勝利者となってくださいました。それゆえ「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」のです。
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「王となる」ということは、さらに「所有する、主権を持つ」ということでもあります。神は創造主として全被造物を所有し、その一切に対して主権を持っておられます。その所有と主権とは、すべてのものの救い主イエス・キリストを通して明らかにされます。私たちの存在自体、また私たちに与えられているすべての善きことは、イエス・キリストにおいて、神が所有しておられることです。けれども、人間は自由を求めて所有され支配されることから脱しようとします。そして、所有されることから脱した人間は、今度は自ら所有し、支配しようとします。今日の人間の根深い問題はそこにあります。けれども聖書は、そういう事態に対して別のことを語ります。「あなた方は本当は所有されているのだ、すべての所有主は神であり、私たちの主人は救い主キリストである」と語ります。
受洗に備えて志願者の方と『ハイデルベルク信仰問答』をご一緒に学ぶことが多いのですが、そのなかの第一の問い、「生においても死においても、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」という問いに対し、答えは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」。そしてさらに、「主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを、悪魔のすべての力から救い出し、また今も守って下さいます」、と答えています。
このキリストが王となられ支配し治められるのですから、「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」のです。イエス・キリストはこのような勝利者として、所有者として、王として、その支配をなさいます。敵対する様々な勢力にもかかわらず、完成に向けて、その勝利を推進しておられるのです。しかしそれだから日毎波静かかと言えばそうではありません。主が王となられたことによって、私たちの内外に全き平安があるかといえば、そうではないのです。
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3節にはこうあります。
「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。/潮は打ち寄せる響きをあげる」。
この3節の言葉は本当に恐ろしい言葉です。5年前の3月11日、あの大津波と重ね合わせてしまいます。しかし実際これが聖書の示す今の時の世界の姿です。世界の様々の出来事や私たちの国の動き、また社会の喜怒哀楽のなかに私たちは、打ち寄せる潮の声を聞かないでしょうか。自分自身の身体的な痛みとか、魂における虚無や罪との戦いなど、自分の内外にも打ち寄せる潮の声を聞かないでしょうか。3節が告げる私たちの状況です。
しかし、この詩編は3節で終ってはおらず、そのような事態に対する神のなお勝る支配を次の4節・5節で告げています。
「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。/さらに力強く、高くいます主。/主よ、あなたの定めは確か」です。
私たちを恐れさせる大水のとどろく声がないわけではなく、また私たちを滅びに押しやろうとする内外の力も決して弱くはありません。日毎の生活の中で、私たちはそういうものに追い立てられるように日を送っています。けれどもなお、それらに勝って、王としてのキリストの勢い、救い主としてのキリストの力は、衰えることなく、また確かである、と詩編詩人は語ります。何ものも、キリストの御支配を覆すことはできない、と。それゆえ「世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない」のです。
このように、詩編93編は3節が終りでなく、4節・5節がうたわれています。私たちが聴くべきは、また見るべきは、このキリストの御支配、神の力の大きさです。
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この年、私たち一人ひとりの上に、また教会の上に、どのようなことが起るか測り知ることはできません。大波のとどろく声が、私たちを脅かすこともあるでしょう。もはやこれまで、万策尽きた、と思うほどに追いつめられることもあるかもしれません。けれども、キリストが王となられたという御言葉の示す事実に、いつも目を開かされたいのです。その御言葉によって立たせられたい。慰め、励ましを受けたい。
この2016年もキリストの恵みの支配の下に置かれているのですから、心をこめて祈り、心をこめて働き、心をこめて御言葉に聴きたいのです。相共に助けあい、励まし合いつつ、祈り、働き、御言葉に聴く生活を神の前に続けたいと願います。私たち一人ひとり、どうかこのことだけはさせてくださいという願いをもって、この年を始めようではありませんか。どんな小さいことでもよい。私たちが神に仕えるということは、そういう小さいことから始まります。主は王になられたという御言葉に聴きつつ、この週の、またこの年の歩みを続けさせられたいと願うものです。
(2016年1月3日 主日礼拝説教)
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