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 2015年9月27日 礼拝説教  【終わりの日】 林原 泰樹

アモス書4章12節  マルコによる福音書13章1~2節  ヘブライ人への手紙13章14節

 人間、歳をとればとるほど、時の過ぎ去るのが早く感じるようになるのではないかと思います。でもそうだとすると、人生の後半は、あっという間に過ぎ去ってしまうということではないでしょうか。若い時は、自分が時の中を駆け足で走っているという感覚を持つものです。しかしやがて、走っていたのは自分ではなく、時の方であったということに、人は気付くのです。時というものは自分がその中を走るのを止めても、なお止まることはありません。私どもには二つの終末があります。一つは世界の終末、もう一つは自分の人生の終末です。時は否応なしにその二つに向かって流れ、刻一刻とその二つの終末に近づいています。それでは、どうしたらよいでしょうか。終末を見据え、心構えを持っておかなければならないということではないでしょうか。

終末とはいかなるものでしょうか。今日の新約の箇所、マルコによる福音書13章1~2節をお開きください。イエスはガリラヤ湖周辺から上京して活動の拠点をエルサレムに移し、エルサレム神殿の境内で人々に教えることを始めました。弟子たちもイエスと共に、毎日神殿に行くようになりました。弟子たちはガリラヤからエルサレムに来たばかりですから、神殿の光景は見慣れたものではなかったので驚嘆の声を挙げました。一人の弟子が壮大な神殿を見上げながら言いました。「先生、ご覧ください。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」

当時の神殿は、ヨセフスという歴史家によりますと、積み上げられていた一つの石のブロックの大きさが長さ一三m、高さ四m、幅六mです。また西南の角にあった門は14mの石のアーチ、神殿の建っていた丘と町の間には51mの橋が掛かっており、王の回廊と呼ばれる回廊には12,5mのコリント式の柱が2本立っており、神殿の正面の外側は相当な分量の金の板で覆われていたということです。弟子たちはそれらを見、驚嘆したのも無理ないことです。

しかし、その時イエスはその弟子に対してこう言われたのです。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」そういう日が来るであろう、ということです。これは直ぐにも起こることとして言われたのではありませんでした。将来についてです。しかしこれを聞いた弟子たちは驚いたことでしょう。こんなに壮大な建築物が崩される、そんな日が来るとは信じ難い、という気持ちを持ったことでしょう。

ここでイエスが言われたのは何の事でしょうか。AD70年にローマ軍によってエルサレム神殿は破壊されましたが、そのことを預言されたのでしょうか。そういう側面もありますが、しかしもっと究極的なことをイエスはここでおっしゃりたかったのではないかと思います。単なる神殿破壊ならば、一度や二度起こってもまた再建が可能ですが、そのような、いつでもまた再建され得るような一時的な破壊が起こることではなく、もっと究極的なこと、つまり歴史の終末に通ずることを、おっしゃりたかったのではないかと思います。現にこの後、36節に至るまで、終末についてイエスは語っています。その導入となっているのがこの1、2節なのです。従ってこれは紛れもなく終末についてのことなのです。

終末とは古い時代(アイオーン)を終わらせる、宇宙的な破局を伴う超自然的な出来事です。それについて、イエスはここで言わんとしているのです。世の中のおよそ不滅と思われているものでも、いずれ全て粉微塵になり、跡形もなく消える、ということです。世界史上に存在した全ての国や建築物の行く末を見ます時、どんなものにも終わりがあったことが分ります。そしてそれだけでなく、これから建てられる全てのものも、世界と歴史の終焉が来る時に消滅するのです。

近代の、デカルトをはじめとした大哲学者達は申しました。全ての外界の事象は仮象である、と。仮象とは、いわば夢みたいなもの、という意味です。

今私たちの目の前にあるものは、現時点では確かに存在するように見えても、仮にそう見えているだけなのかもしれません。夢なのかもしれません、そう言い得るほど、それはやがて変わってしまいます。あるものは変質し、またあるものは消えてしまう。人間が一つも手を加えなくても、数千年の間には風雪にさらされる中で、また分子が自然分解することによって、遂に跡形もなくなってしまうのです。そしてやがてそれは、かつて存在したことさえ、忘れ去られてしまう時が来るのです。そう言った意味でまさに全ての外界の事象は仮象であり、それは夢みたいなものなのであります。デカルトの言う通りです。そのようにどんなものにも終わりがあります。そしてその変化の究極が終末なのです。世界の歴史には、そんな終焉が厳然とある、と言うことです。

従って私たちは、歴史の終末について、あるいは個人の命の終末についても同じことですが、あたかもそれがないかのように考えて、言わば現世主義で、また楽天主義で歩むことは、実に空しい生き方だということになりましょう。それは頼りにすることが出来ないものを頼りにして生きる生き方だからです。

歴史の終末、また命の終末というものを前提にして考える時、私たちが頼ることが出来るものは何もないということが分ります。そのことを私たちは厳粛な思いで悟らなければなりません。

ただし、それだからと言って、この事に関して過剰に反応する必要はありません。ヘブライ・キリスト教では終末的な未来はどのように捉えられて、語られているでしょうか。それはそれで輝かしいものであり、神の愛による最善と救いが始動するプログラムが、その終末には用意されている、と教えられているのです。

聖書によると、終末は天地創造と同じく、被造物が起こすことではなく、神の絶対的主権によって成る出来事です。その意味で聖なる時間なのです。創造と終末、その二つの聖なる時間の間に俗的時間がありますが、最初と最後は神だけが働く時間です。従って、天地創造と終末の両者は、創生と破壊という反対方向に時が向かうようでありますが、実は同じ神聖なる性質を持っているのです。私たちは終末を何処までも暗い奈落の底に落される時と考える必要はありません。それは創造と同じ聖なる時の到来なのです。そしてその時、原初の回復があり、また天地創造の時と同じように新天新地の再創造と完成が起こるのです。原初的な純粋性と完全性を回復するために、神が介入する神の出来事です。古い時代が終わると続いて、神の介入により新しい時代が始まるのです。終末は歴史の廃棄でありますが、同時に新しい時代の開始なのです。そのように私たちは、歴史の終末に関して、希望的にとらえることが出来るのです。

また世界の終末のみならず私たちの命の終末に関しても、聖書には希望的なことが書かれています。ここで今日の新約のもう一つの箇所であるヘブライ人への手紙13章14節を見てみたいと思います。そこには「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来たるべき都を探し求めているのです。」とあります。ここに「来るべき都」があるということが記されています。

私たちは命の終末があることを思い、地上には永続する都がないことを覚えなければなりません。私たちの人生には、地上に永続する、永住できる都はないのです。しかしながら、同時に私たちには、来るべき都があるのです。

新天新地の再創造の世界に一人ひとりが招かれるということを、私たちは聖書によって知らされています。そして、その時点に於いて、歴史の終末は個人的実存の終末と一つになるのです。歴史の終末はその時個人の終末と合わさって一つになり、一人ひとりに於いて現在化するのです。

故に私たちは、そのことを覚えるとき、如何に生きるべきでしょうか。歴史の終末、また個人の終末を待ち望んで、その日が何時来てもよいように、目を覚まして日々の生活を歩むようにと、聖書は勧めています。「目を覚まして」とは何時でも主と共なる歩みを続けるということです。また地上のものは過ぎ去るものであることを悟って、この世の何ものにも執着を持たない心境を持つということも必要でありましょう。それらがキリスト者の歩みとして、大切であろう思います。

とにかく、この世に永遠に永続するものはありません。しかし終わりの日には完全な回復を与えられ、また来るべき天の都が与えられるのです。ですから、そのような終末を見据えて、天に目を向けて歩ませて頂きたいと思います。

歴史の終末が、あるいは自分の命の終末が如何なるものか、未だおぼろげにしか見ることが許されていませんが、神は私たちを愛しておられ、その愛のゆえに、私たちの終末は備えられているのです。私たちの終末に神聖なる、最善なる時を準備してくださっているのが主なる神です。終末には主の御目から見て最善が用意されているはずです。それが主なる神の唯一のご計画です。そして世界の究極的な救いのプログラムというものが、最後に私たちに開始されるものです。このことを覚えつつ、私たちは未来に向かって、希望をもって歩んで行きたいと思います。

(2015年12月27日礼拝説教)




 
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