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 2015年10月25日 礼拝説教  【真の立ち返り】 林原 泰樹

創世記12章10~13節、ヨハネの黙示録2章3~5節

 アブラハムは神から「わたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを祝福する」と言われ、メソポタミアから出発し、遠路遥々、神が約束してくださった地、カナンまでやって来ました。そして到着後、まずしたことは、祭壇を築き礼拝することでありました。アブラハムはベテルとアイの間の地に祭壇を築いて礼拝しました。彼はその時は感謝に溢れていたことでしょう。そして確かに信仰に生きておりました。そうしてアブラハムはカナンで新生活を始めたのですが、やがてその地域一帯に飢饉が訪れました。その時アブラハムは少し疑問を覚えたのではないかと思います。そこは神が連れて来て下さった約束の地であったはずなのに、飢饉で住める状態ではないではないか、神は何を考えておられるのだろうか、と神に対する疑問に近いものを彼は感じたのかもしれません。また、飢饉によって家族を餓死させるわけにはいかないという、家長としての責任感も働いたのだと思われます。

 そこで彼は何をしたか。ひとまず自分の判断で生きていく道を模索し、彼はエジプトに下って行ったのでした。それは神に祈りの内に相談して決めたということではありませんでした。彼はエジプトに下って行き、その後暫くは、何か問題が起こると、その都度自分の判断で道を模索していく、そういう生き方に移行したのです。その端的な例が次の一つの逸話の中に現われています。

 アブラハムは、今やエジプトの王ファラオの支配する国で生活を始めたわけでありますが、その地で彼の心の中には日に日に一つの心配が膨らんでいきました。その心配とは、自分の妻が美人のため、ファラオに見染められ、彼女を自分のものにしたいと考えるファラオによって自分は抹殺されるかもしれない、という心配でした。そこでアブラハムは妻に、私のことを夫であるとは言わず、妹だということにしておいてほしい、と頼みました。サラはアブラハムの自分のことしか考えていないその提案に内心傷ついたかもしれません。でも彼女は承諾しました。そして、嘘で身を固めた生活が始まったのです。

 すると案の定、間もなくサラの美貌はファラオの目に留まり、そのとき彼女は独身を装っておりましたので、ファラオは彼女を召し抱えてもよいと判断し、召し抱えてしまったのです。そしてアブラハムは、そのサラの兄として王家と親類関係を結んだため、沢山の財産を受け取ったのでした。アブラハムはその時どう思ったでしょうか。自分のつかせた嘘の結果、サラはファラオに召し出されてしまった。その結果、自分には兄として沢山の財産が手に入ったけれども、ふと見ると隣にはもうサラはいない。そのことによってアブラハムは我に返ったのではないかと思います。「ああ、自分は保身のため、嘘をつき、サラにも嘘をつかせ、サラのことも傷つけてしまったかもしれないし、妻はもう妻でなくなってしまった」。そう思って彼は悲しくなり、自分の罪を深く覚えたのではないでしょうか。でも最早サラは最高権力者の妻です。もはやアブラハムには何の打つ手もありませんでした。

 しかしながら神はそこでアブラハムと妻サラを救い出されました。神はファラオに災いを下し、その災いは既婚のサラを召し出したことに起因するのだということを神はファラオに知らせたのです。そこでファラオは慌ててアブラハムを呼び出し、言いました。「あなたは何ということをしたのか」。何故嘘を私についたのか、と責めたのです。アブラハムは何も言うべき言葉がなかったはずです。ところが何と言ったでしょうか。アブラハムはこう言いました。「彼女は私の妻でありますが、兄弟同士の結婚だったので、妹でもあります。したがって彼女のことを妹だと言ったのです」。あれは嘘ではなかったと弁解しました。この期に及んで未だそのようなことを言ったのです。ですが、サラが妹であったかどうか、そんなことはこの際、ファラオにとってはどうでもよいことでありました。問題はサラが既婚者であったことを隠していた結果、ファラオがサラを娶り、ファラオは神から罪を責められてもう少しで滅ぼされるところだったのです。ファラオはそのことで怒りました。怒るのも無理ないことです。アブラハムは本当にファラオに対して申し訳ない罪を犯したのです。でもファラオはアブラハムを赦し、アブラハムを平和裏にエジプトから去らせることをしました。そして事は一件落着し、アブラハムは危機から救われたのでした。

 イスラエルの先祖として尊敬されているアブラハムにもこんな失態があったのです。

 アブラハムは、その後どうしたでしょうか。窮地に追い込まれた彼でありましたが、奇跡的に救われて、エジプトから帰されました。神に御心を問うこともなく人間的判断で歩んできたことの結果を見た彼は、エジプトからカナンの地に戻って何処へ行ったか。かつてベテルとアイの間の地に築いた祭壇のところに戻って行ったのでありました。彼はおそらく、かつて作ったその祈りの祭壇の前に再び立ち、思いを新たにしたのではないかと思います。そしてそこで甥のロトと別れることになります。二人で話し合って、これから別々に住むために住む場所を二人で決めて、主の祭壇の前で御心を尋ね求める歩みをもう一度取り戻したのでした。どうしてそう言えるかというと、13章14節を見ますと、そこで主の御声が降っているからです。アブラハムは新たに神に向き直った歩みを始める、するとその時、祭壇の上から御声を聴いたのです。「東西南北、見えるところ全てあなたに与える」という御声が響いた。彼はここではっきりとは書かれていませんが、祭壇の前でもう一度「主よ、あなたと共に生きます」と心に決めたことでありましょう。そして彼は更に歩きだして、ヘブロンのマムレの樫の木のところで、もう一つ主のために祭壇を築いたのでした。そのようにしてアブラハムは、主に礼拝を献げ、主と共に歩む生活にしっかりと帰って行ったのでありました。以上が今日の個所に書かれていることです。

 人はいつの間にか神の導きの道を見失うことがあります。それが、アブラハムのエジプト下りとそこでの生活でした。気が付いたら嘘をつき、嘘の生活を始めていました。

 私たちも自分自身の浅はかな考えや罪のゆえに取り返しのつかない状況に陥ることがあります。それは何よりも、私たちが神のもとから離れて自分自身の判断で生き始めるというところから生じるのです。一度神から離れ、自分の判断で生き始めると、神の目から見てそれが「善し」とされることなのかどうかということは考えず、自分が生きていくために必要と思われる道をとるようになるのです。そうすると、時に行き当たりばったりの嘘をつき、嘘に嘘を重ね、雪ダルマ式に罪が増し加わっていくのです。それがアブラハムの状況でした。私たちも、神に相談せず、自分なりの生活、自分なりの判断で生きる癖がつき、神と共に歩む道から離れることがある。だがその道から逸れたことに気付いたとき、何処から間違ってしまったかを思い起こして、そこに戻って行き、その際に、かつて築いた祭壇にもう一度戻って、祈りの祭壇を、築き直さなければなりません。それが神の私たちに求められることであります。アブラハムは立ち返る旅を神にさせられ、ベテルとアイの間の祭壇に戻った。私たちもアブラハムと同じように、最初に立ち戻る旅をさせていただきたいと思います。

 さて、本日は宗教改革記念日礼拝です。ルターは1517年10月の最後の日に、ヴィッテンベルクの城教会の戸口に95ヶ条の掲題を貼り出しました。それは免罪符(贖宥券)の販売に反対する主張が書かれたものでありました。その頃、11月1日はローマ教会では最重要視されていた祝日で、人々が教会に集まる日だったので、ルターはその前の日に、教会の戸口に95ヶ条の掲題を貼り出し、人々に自分の主張を読んでもらおうとしたのでした。免罪符の販売の背後には教皇がおり、カトリックの本部から修道士が販売員として派遣されて来て、広場でこう言って販売しました。「さあ、罪を犯した人々、この霊のお薬を頂きなさい。箱の中でお金がチャリンと音を立てると、直ぐに魂は煉獄から飛び出るのです」。教会はその時々の課題を乗り越えるため、対策を講じるという歩みをしておりました。このような券を販売することにしたのにも、当時のカトリック教会なりの考えがあったのでしょう。でもそれは、神と相談したのではない、自分たちなりの判断による歩みであったのです。ルターはそのような教会の歩みを神のもとに戻したいと思いました。彼の貼り出したものの第一条にはこうありました。「我らの主であり、師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』と言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである」。 人は一度神の道を歩み始めたからといって、もうその道を逸れないということはありません。ならば、全生涯何時でも、気が付いたら悔い改める必要があります。全生涯がその悔い改めの連続であるべきなのです。いつでも最初の祭壇に帰るということが必要だと、ルターは人々に、そしてカトリック教会に対して訴えたのです。冒頭で見たアブラハムの人生のように、嘘で塗り固められた歩みに入っていってしまう、それと似たカトリック教会の歩みは、道を方向転換し、最初の祭壇に戻るしかなかった。そうルターは考えたのでした。私たち一人ひとりの信仰生活にもそれが必要です。

 ここで今日の新約の箇所ヨハネの黙示録2章3~5節の方も見て頂きたいと思います。「しかしあなたに言うことがある。あなたは最初の頃の愛から離れてしまった。だから、何処から落ちたかを思い出し、悔い改めて最初の頃の行いに立ち返り、立ち戻れ」。

 これは2000年前の、聖霊が語ったエフェソ教会に対する使信ですが、これは時を超えて、今の私たちにもまた問われているのではないでしょうか。宗教改革記念日とは、繰り返し襟を正すために巡ってくる日であります。私たちは、今朝、自分自身が何処に立っているか、お互いに心鎮めて確認し合いたいと思います。そして、主を見失っているということに気付くならば、本当に何処から落ちたかを思い出し、そして主の祭壇の御前に立ち戻りたいと思います。主はそれを待っておられます。

(2015年10月25日宗教改革記念日礼拝説教)


 
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