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 2015年9月27日 礼拝説教  【命を得るために召され】 笠原 義久

テモテへの手紙一 6章1~12節

 パウロが生きていた当時の世界において、奴隷の数は六千万以上いたとも言われ、ローマに限って言えば居住者の三分の一が奴隷であったと推定されています。彼らは戦争捕虜として、あるいは借金によって奴隷となり、また奴隷の子として生まれてそのまま奴隷であり続けることが普通だったようです。都市において彼らは財産を持てない下層階級者が多かったのですが、中には高いレベルの教育と文化、また知識や技術を身につけていた者もいたと考えられています。

 パウロにとって奴隷制は極めて重要な問題で、逃亡奴隷であってパウロによってキリスト者となったオネシモの問題を直接に扱っているフィレモンへの手紙はもちろんのこと、その手紙の中で驚くほど多くの言及がなされています。

 それらから分かることは、パウロにとって、奴隷制は少なくとも即座に破壊すべき制度だとは考えられていない。しかし、それが意味ある制度ないし秩序であるから存続すべきものだとも考えられてはいない、ということです。キリストにある、すなわちキリストが主として臨在し支配しておられる教会においては、身分・階級・性別の違いは何の意味もなく、すべての人が神の子として、キリストに対して同じ近さにある兄弟姉妹なのです。この福音の革新性、それと奴隷制の破壊には直ちに向かわないというある意味での保守性、この革新性と保守性が両立していることの内に福音の真理があるのではないでしょうか。

 この問題は、この世における制度、特に権力と福音との関係に関わることです。イエス・キリスト御自身、まさにその意志においては、あるいは内的にはこの世のあらゆる秩序を破壊しあるいは無効にしようとされた。たとえば、この世に剣を投ずるため私は来た、肉親の絆を引き裂くために私は来た、という言葉。またユダヤ教の宗教体制とその秩序に対する激しい批判は福音書のいたるところに留められています。その一方で目に見える現実としてはどうであったか。イエスはこの世の制度に従って、人間による裁きを受け処刑されました。そして、この内的な破壊と外的な服従をとおして、神の国をこの世にもたらす御業をなさった。また今も聖霊において、そして聖霊の導きによって生きる私たちキリスト者をとおして、その御業を継続しておられるのです。

 キリストの福音は、その本質において、先程申し上げたように革新的なものです。破壊的とさえ言ってもよい。教会が、いわゆる博愛主義というかたちにおいて、あるいは博愛的な雰囲気をもってキリストの愛を語るなら、この世はそのような愛を歓迎するでしょう。しかし、そのキリストが新しいぶどう酒であり、この新しいぶどう酒を入れる皮袋としては、今のこの世は、すなわち人間は古いものだと分かった途端、この世はキリストを拒絶するようになります。しかし、そのような本性を持つ世を、すなわち人を神は愛し、その独り子をさえ惜しまずに与える方なのです。自分を拒絶する者を拒絶せず、むしろ自分自身を与え尽くして愛する。この神だけが持つ愛によってこれを拒絶する者たちが打ち砕かれ、すなわち破壊されて新しい皮袋にならない限り、このキリストをとおして示された神の愛は、人によって受け容れられたとは言えない。このキリストの愛による破壊と受容が起きるまで、奴隷制は続くと言ってよいでしょう。

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 さて先程申し上げたフィレモンへの手紙から少しく学びたい。この手紙は、奴隷の所有者・主人であり、またキリスト者であるフィレモンに宛てたパウロの手紙です。パウロは今獄につながれている自分の許で、自分の身の回りの世話をしているオネシモというフィレモンのところから逃亡してきた奴隷を、主人であるフィレモンのところに送り返すにあたって自分の切なる願いをしたためています。

パウロは、二つのことを言っています。すなわち、一つには、奴隷であるオネシモは、なお引き続き奴隷として留まらなければならないときでも、彼が渇望していた自由に到達した場合と全く同じように、自分がキリストに仕える者であることを知らなければならない、ということ。もう一つは、主人であるフィレモンは帰還する奴隷オネシモに対して、オネシモに今後も引き続き奴隷としての仕事を与えるにせよ、その彼をパウロのために、あるいは宣教のために解放するにせよ、オネシモに対しキリストの愛において出会っていくべきことを訴えます。その人が奴隷であれ解放奴隷であれ、あるいは自由人であれ奴隷の主人であれ、すべての人はキリストに対して同じ近さにある。そして愛に聞き従うことについては同様の義務を負い、かつ同様の自由を持っているのです。そしてもし人が、世界はこのような仕方でもってキリストにおける神の恵みと要請によって捉えられているのだということを見るならば、オネシモとフィレモンとの将来の関係というものは相対化されるということをパウロは言わんとしているのでしょう。なぜならパウロにとっては、信仰におけるキリストへの奉仕こそが、その時々に、そして永久に決定的なものだからです。彼らの将来の関係が、主人と奴隷としてのものであったにしても、あるいはそれとは異なって主人と解放奴隷としてのそれであったとしても、彼ら2人に対しては、既にキリストにあって配慮がなされているのです。

 パウロが自らを紹介するとき、いくつかの手紙のなかで、自分自身を「キリストの僕(まさに『奴隷』という言葉が使われています)」と呼んでいます。パウロの念頭には常に、自らがその奴隷として日常性の中で奉仕していく対象である主人としてのキリストがありました。そして「キリストの僕、奴隷」とは、ただキリストに誉めていただくために生きる者だと言うことができるでしょう。キリストの奴隷として生きるからこそ、自分の主人を「十分尊敬すべきものとして考え」(1節)て仕えるのであって、それは単に人の気に入ろうとあくせくすることではなく、神に喜んでいただくための業なのです。このことは、次に続くこの世の利得と永遠の命という利得ということと深く関わっています。

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 さて、この世の利得についての勧めをするにあたって、パウロが先ず問題にアクセスする切り口としているのが「異なる教え」ということです。「異なる教え」については、この手紙の冒頭1章の3~7節に、すでにまとまった記述があります。その特色がどこにあるかと言えば、それは人間同士の間に無益な議論を引き起こすだけのものであり、それを語っている自分たちが実は理解できないことであり、なによりもそこには神への信仰も愛もないということです。パウロはその教えを説く者は「律法の教師でありたいと思っている」と言います。なぜかと言えば、彼らは「金銭の欲」をもって「金銭を追い求め」ているからだ。つまり、この世における利得を求め、そのことのゆえに、信仰から迷い出てしまい、中には「さまざまのひどい苦しみで突き刺される」という裁きを受けてしまう者もいたというのです。「信仰による神の救いの計画の実現」を求めることなく、この世の利得を求めて「何も分からない」のに、議論と口論に病みつきになり、己の知恵に頼み、「信心を利得の道と考える」というのは、「誘惑」であり「罠」なのです。

 パウロは言います。人はだれでも肉に蒔けば滅びを刈り取り、霊に蒔けば永遠の命を刈り取ることになる、と。

これこそが「信仰による神の救いのご計画」なのであり、その実現は将来のことである。その将来の救いの実現に至るまでの世においては、「食べるものと着るものがあれば」「満足すべき」なのだ、と。旧約聖書のヨブが言うように、私たちは「何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行くことができない」のですから。

 しかし、この世において満ち足りることを知る者、フィリピの信徒への手紙によれば「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知って」おり、「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」者にとって、信心こそが実は「大きな利得の道」なのである、とパウロは明言します。

 ではその大きな利得とは何か?それは端的に「永遠の命」であると。この命を得るためにこそ、テモテよ、あなたは召されたのではないか。私たちキリスト者は召されたのではないか。大きな利得であるこの命を手に入れるためには、この世において「信仰の戦い」を戦い抜き、「私たちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、落ち度なく、非難されないように」「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなければならない」。いや、追い求めようではないか。そしてこのことを追い求め続けることこそが、大きな利得、永遠の命に繋がる、と勧められています。

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 私たちは、以上のような勧めの言葉を、私たちが「神の人」であるということ、つまり「命を得るために」「神から召され」ているという私たちの根源的事実の上に立って聴くよう促されています。しかしこれらすべてのことの背後に、キリストの十字架があることを忘れてはなりません。ポンティオ・ピラトの前で立派な宣言をして、十字架につけられたキリストは、この世の名誉、地位、富に目が眩むユダヤ人も異邦人も含めたすべての人間の「滅亡と破滅」をその身に受け、「さまざまの苦しみで突き刺される」死をそこで味わわれたのです。この事実こそが、すべての事実の最初にあり、すべての勧告と警告の土台にあるのです。

このキリストを見つめる。見上げるというより、敢えて言うなら「見下げる」。私たちのために、私たちに永遠の命を与えるために、破滅にまで落ちてくださったキリストを見つめる。私たちの内で誰一人としてそこまでは降れない最も低い破滅にまでキリストが落ちてくださったことを見つめる。そのキリストが「唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない」神によって復活させられ、そしていつか「神が定められた時」に再びやってこられるのです。このお方の勝利に与るために今を生きる。それが信仰であり、信仰の戦いなのです。キリストから離れなければ、すでに勝利は約束されており、キリストから離れるなら、即、敗北が約束されているのです。

(2015年9月27日主日礼拝説教)



 
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