冒頭の1章1節に挙げられているこの手紙の宛先の一つにポントスという地名があります。小アジア(今日のトルコ)の北部に位置します。紀元一世紀のおわり、この地域は、ユダヤなどと同じように、ローマ帝国の属州に編入されていましたが、その当時このベティニア・ポントス州の総督であったプリニウスという人がローマ皇帝に宛てた手紙の中に、次のような報告があります。プリニウスは、キリスト教運動の展開している場所とその広がり具合についてこう言います。「この伝染性の迷信は、諸都市のみならず、村落、農村地帯にまで拡がっている」と。小アジアのこの地域は、その人口の圧倒的大多数が農村人口であり、全体としてローマ化ないしヘレニズム化の遅れが顕著であったと言われ、古くからの部族集団と昔ながらの制度がなお相当な支配力を持っていたようです。この地域でキリスト者が向かい合い戦わなければならなかったのは、よく言われるようなローマ帝国による組織的弾圧に対する直接的な対決というよりは、むしろ同じ地域の「地元民」との間の軋轢あるいは紛争であったと考えられます。
さて1章1節は、この手紙を宛てられている人たちを特定するもう一つ重要な情報を提供しています。彼らはここで名前を挙げられている各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちである、と。「仮住まいをしている」とは「寄留の外国人」のことです。もとの言葉は「パロイコス」と言いますが、これまで、ヘブライ人への手紙の有名な箇所(11・13)と同じ意味をもっている言葉だと理解されてきました。つまりキリスト者はこの世では定住すべき家を持たない仮住まいの身であり、本来のそして永遠の住まいである上なる故郷を目指して旅する者たちである。それは、アブラハム以来の神の民イスラエルの実存に繋がるところの真のキリスト者のありようである、と。
しかし私は、このペトロの手紙一におけるパロイコスを、そのような意味においてではなく、文字どおりの「寄留の外国人」として、すなわち社会的・政治的・経済的な意義をも含めた一つの身分・ステイタスとして理解したいと思います。この時代外国人が、この「パロイコス=寄留の外国人」という身分に属することができたのは、第一に、その国(小アジアの属州)に十分な期間居住していること、第二に、属州が、奴隷、解放奴隷、その他の階級の者に、市民権の制限、納税などの義務を履行することを条件に、属州に対する忠誠を獲得するための道具として「パロイコス」身分を与えることがあったようです。この「パロイコス」身分に属することは、一方で、政治的・経済的な搾取と、市民によるさまざまな形での差別の対象とされることを意味しました。しかし他方において、「パロイコス」になろうとしてなれないより下層に属する人たち(彼らは「クセノス」を呼ばれていました)の羨望と憎悪の対象とされたことも想像に難くありません。
この手紙の受取人を、このように「パロイコス」すなわち「寄留の外国人」という社会的・政治的・経済的意義も含めた身分として特定することは、彼らを軋轢の多い農村地域で、疎外され、いわれなき差別を受け、地元民と折り合いのつかない社会的「弱者」として特定することを意味するでしょう。その上にさらにキリスト者という肩書きが付きます。この地域に流れ込んで来たばかりの新興宗教で、先ほどのプリニウスの手紙にもあったように、人々を惑わすだけの「伝染性の迷信」といった風評が、この居住地における彼らの立場に抑圧的に作用していたであろうことは疑いえないと思います。
その「パロイコス」であるキリスト者に対して、ペトロの手紙一の著者は、キリストの死と復活の出来事によってもたらされた救いが、彼らが生きている世界や時代の骨組みを根本から新しくしていることを示して、苦難の中を生きつつ、その苦難の克服と希望に通じる道へと彼らを導こうとしているのです。
*
さて、苦難の中にある彼らに第一に勧められていること、それは15節の「キリストを主と崇めなさい」です。これは旧約の預言者イザヤが、アッシリアの王を恐れないで、万軍の主である神を聖として神のみを畏れよと語ったと同じように、「主なるキリストを聖としなさい」ということでしょう。このキリストを聖とする、つまりキリストを他のものとは隔絶した方とすること。そのことが、説明を求められたり、弁明を必要とするような日常的状況の中で、つまり苦難をもたらす迫害的な状況の中にあって為されるべきだというのです。
第二に勧められていること。それは次の16節、今申し上げた説明や弁明は「穏やかに、敬意をもって、正しい良心でなせ」ということです。そのことは、あなたがたが「キリストに結ばれた者」として善い生活を過ごしていることの証しとなる、というのです。
「穏やかに」とは、もとの言葉では「柔和」と訳されているのと同じ言葉が使われていますが、聖書における「柔和」とは、単に「性質がやさしくおとなしく」という意味ではなく、「どのような苦難の中にあっても他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく謙遜にひたすら耐えて神に服従する」姿勢のことだと言ったらよいでしょうか。そして「正しい良心」ということでは、「聖霊を受け神と共に物事を判断するキリスト者の実存」のことが言われています。さらに「キリストに結ばれた」、エン・クリストー、すなわち「キリストにある」というのが直訳ですが、これはキリスト者共同体の生活をもっともよく特徴づける言葉でしょう。端的に「キリストがキリスト者の生活の上に力を振るわれること」、それがエン・クリストーです。そこでは「正しいことのために苦しむ」ということも当然起こりうることだと著者は言います。そして今度は、そう確信することの根拠を示そうとするのです。
18節、著者は「キリストも、罪のためにただ一度だけ苦しまれました」と語ります。「キリストも」、「も」と言われるとき、キリスト者の苦しみの現実は、キリストの苦しみの出来事であるただ一度の苦難であるキリストの受難、つまり十字架の死に重ねられていることが示されます。
そして、この苦しみは「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」と、贖罪のこととして、つまり私たち罪ある者の罪を罪なきキリストが負われたことを表しています。キリスト者が善いものへの熱心のゆえに苦しみを負うという不条理は、かえって、キリストが自分たちの罪のために死なれたことをより確かなこととして証しすることになる、と著者は言うのです。キリストを求めるゆえの苦しみの現実は、キリストが苦しみをもって私たち罪人を憐れみ、贖われたことを思い起こさせ、その苦しみに結ばれることが救いの確かさを知らせるものとなるのです。
救いを信じる者にとっての苦しみは、「キリストを見たことがなくても愛し」続けることができるのかどうなのか、ということを問われることです。人間の確信は、いつでもその確信自体が問いになることがあります。しかし、問いがさらに確信への道を拓くことになるのです。私たちはその道を苦しみなしに通ることはできません。しかし、この道はキリストが苦しんでくださった苦しみによって拓かれているのです。だから著者は、キリストのこの苦しみを「あなたがたを神のもとに導くためです」と語ることができるのです。 「苦しみ」「苦しみ」と言ってきましたが、翻って、キリストが苦しんだ苦しみとは、実際にはどのような苦しみだったのでしょうか。キリストが十字架上で叫んだ言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。キリストは文字どおり、神なしの死を味わわれたのです。死によって神への道が閉ざされること、神なしの死こそが、苦しみの根源なのです。この手紙で著者は、キリストの肉における死の現実が、同時に霊において生きるキリストの現実とされることを語ります。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」。まさにキリストの死の現実を深く見つめることが、霊において生きておられて、私たちを神のもとに導かれるキリストの真の姿を知るということへと私たちを至らせてくださるのです。
18節の「霊では生きる者とされた」の「生きる者とされた」は、ローマの信徒への手紙8章11節から理解されるべきでしょう。こうあります。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。キリストはその肉の死をまったく死なれること、つまり完全な死を受けられることによって、霊では生かされたのです。それは、キリストがその死によって、私たちの死を神なき者の死とはされず、その死によって私たちを神のもとへ導く道を拓かれたことを語っているのです。
*
最後にもうひとつ。先ほど「パロイコス」(寄留の外国人)であるキリスト者に対して、ペトロの手紙一の著者は、キリストの死と復活の出来事によってもたらされた救いが、世界の時間と構造を刷新していることを示して、苦難を生きることの中にあって、その苦難の克服と希望に通じる道へと彼らを導こうとしている、と申しました。ペトロの手紙一を語るに際しては、キリストの死と共に、キリストの復活の出来事に言及しなければならないでしょう。実際この手紙の冒頭からは、キリスト者とは何者か、という問いに対する著者の答えが聞こえてきます。キリスト者とは「神が、キリストを死者たちの内から甦らせることによって開き示された、その溢れるばかりの憐れみによって、生ける望みへと新しく生まれさせられた者たちのことである」。この生ける望みを与えられた者のこの地上における存在のありようは、どうであるのか。
私たちも、ペトロの手紙を宛てられている教会の人々とは、その時代状況も、また具体的形こそ違え、その質においては同じ苦難の共同体に生きる者として、今生きている世界や時代の骨組みを変革するような、また魂の深みまで新しくするような質をもった生き方へと召されている、そのことに思いを潜めたいと願うものです。
(2015年7月26日主日礼拝説教)
|