ルカ福音書の「平地の説教」と呼ばれる今朝の聖書箇所で、主イエスは、自分に従ってくる者たち、弟子たちのアイデンティティを脅かす危険に特別に言及します。そして、自分の言葉に「聞き従う」ことを直ちに実行に移すことの緊急性を訴えて説教を終えています。
第一の危険は、他人を裁く傾向、それも主に欠点や不足を理由に他人を糾弾する傾向を私たち自身が持っているということです。今朝の前の箇所で言われていることです。
弟子であることにつきまとうもう一つの危険とは何か? それが今朝の箇所、すなわち、堅固な土台なしに生活を送るという危険です。イエスはそのことを、家を建てた2人の人の譬えを用いて、事柄の核心を絵のように鮮やかに描き出しています。
まずイエスが語ろうしている中心的な2、3の点をしっかり踏まえておきましょう。
第一は、「家を建てる」ということで何が譬えられているか。「家を建てる」とは、文字どおりには「家屋を建築する」ことですが、ここでは「家庭を築く」「生活する」あるいは「人生を歩む」ということの比喩として語られています。
よく結婚式などで朗読される詩編127編の歌い出し「主が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦は空しい」。このあとずっと家庭生活のことが出てきます。これは家を建てる大工さんのことを言っているのではなくて、連れ合いと一緒に家庭を営んでいくことの比喩として語られているのです。ですから、家を建てるのに「土台」を造るということは、要するに、私たちが日々の生活を営み、人生を歩んでいくためのしっかりとした基礎・基盤を持つということなのです。
家というものは、長い時間を経てその善し悪しが分かってくるものです。かりに見栄えがどんなによくても、土台工事がちゃんとしていなければ、そのうちに壁にひびが入ったり、傾いたり、そして遂には風雨に会って倒壊することにもなりかねない。きらびやかな調度も、至れり尽くせりの設備も、そうなるとよけい惨めです。
土台があってしっかりしている家は、そんなことはありません。風雨にはビクともしない。家具調度が質素でも、安心して住める。したがって飽きも来ないでしょう。ここでは長い目で見てどうかということが重要なポイントです。表面には現れないが本当に大事なところに十分お金を使ってしっかりした家を建てる人が結局は賢明なのです。キリストの言葉を聞いて行うということは、そのようなことであって、一時的にパッと見栄えのするようなことではない。しかし、一生の間、私たちの生活をしっかり基礎づけるのです。
さて次に「洪水になって川の水が押し寄せた」という災害は何を表しているのでしょうか。二つの解釈があります。
一つは、私たちが地上の人生を歩んでいく上でいろいろと体験する人生の諸々の災難のことだ、という考え。雨もあれば、川の氾濫もあれば、暴風雨もあるといった具合に、地上の人生に襲い来る数々の大小さまざまな試練のことを言っている、という見解です。
もう一つは、一回限りで家を倒してしまうのだから、これは最後に襲う一度限りの災害のことだ、という考え。旧約のエゼキエル書13章にあるような神の怒り、神の裁き、これを雨だとか暴風雨だとか雹で表す預言者の伝統を受け継いで、今イエスは、これらの表象を、人の人生最後の審判、神の裁きに譬えているという見解で、どうもこちらの方にイエスの真意があるように思われます。
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この神の最後の審判に耐えられるような土台を人生のために持つということを、「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶのならば、わたしの言葉を聞くだけでなくて行うことによる」、そのようにイエスはおっしゃいます。それでは「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ」、その「わたしの言葉」とは何でしょうか。
ここでイエスを「主よ」と呼ぶということは、イエスを神の権威をもつお方として告白することです。イエスの言葉は、そのような「主」の言葉だから、聞くだけでなく行わなければならない権威がある。イエスの言葉とは端的に神の言葉です。ルカ福音書では、たとえば5章1節、イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」と、ルカははっきり描いています。ですから、イエスはこのあと、たとえば11章28節、群衆の中から一人の女性が声をかけて、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と言った時、「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」というように、「わたしの言葉」と言う代わりに「神の言葉」を聞いて行う人が幸いだ、と言っています。
「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶのならば、わたしの言葉を聞くだけでなくて行うことによる」。このイエスの発言では明言されていませんが、2、3の非常に大事なことがここには含蓄されています。
第一は、イエスは、御自分がただ単なる教師やラビではなくて「主」であるという自覚をしっかりと持っているということです。
ですから第二に、イエスは、自分の語る言葉がただ単なる情報伝達の媒介というような言葉ではなくて、はっきり言ってこれは「命令」であること、この言葉を聞いたなら「ああそうですか、いいことを聞きました」と言って、新しい情報を得たというだけでは済まない、聞いたならば行わねばならない、聞いたならば、それに従わねばならない、そういう権威ある言葉であると自覚しておられるということ。
そして第三に、主イエスの言葉を聞いて行う人、聞いたけれども行わない人というこの二人の区別は、決して、イエスの弟子の中で良くできる弟子と不出来な弟子という区別ではない。イエスの弟子であるかないかという区別です。聞いて信じて従う弟子になるということと、聞き流して去る行きずりの傍観者のままであるということの区別です。
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以上のことを承知した上で、それでは最後に、なぜイエスが語られる言葉を「聞く」だけではなく、「行う」ということが、私たちの人生に揺るがぬ「土台」を与えるのでしょうか。なぜ、イエスの言葉を「行う」ことが、そういう「土台」を私たちに与えてくれるのでしょうか。
実は、主イエスが「聞いただけ」ではなく「行う」ことを教えている箇所は、ルカではこの箇所と、8章の「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」という発言、この2箇所しかありません。そしてどちらとも、私たちが今発した「なぜ」という問いには答えていません。ですから、これに答えるには、広く新約聖書全体から推し量ることが必要になってきます。
すぐに思い当たるのはヤコブの手紙1章22節のことば「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」。さらに「生まれつきの顔を鏡に映して眺めてはすぐにそれを忘れる人」の譬えを用いて、ヤコブは「聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人になりなさい。このような人は、その行いによって幸せになります」と結論づけています。
ここでヤコブの言っていることを一心に読み直してみましょう。「御言葉を聞くだけ」でなく「行う」人というのは、自分の顔を鏡に映して一心にジーッと見つめている人のことです
― 自分は何者であるか、と。ところが、聞くだけで行わない人というのは、さっと見て、パッと立ち去るので「自分を欺く」と。つまり、自分の本当の姿を忘れて、自分がありもしない偉い者であるかのように、現実よりもはるかに優れた者であるかのように「自分を欺く」と、こう言っているのです。ですから、御言葉を聞くだけでなく行うということは、自分が何者であるかという自分の正体をずっと見つめ続けるということです。高ぶることなく、いつも神の前にへりくだって、自分という者はこの程度でしかない、自分という者はいつも神さまの力によらなければ歩めないという、そういう自分の低さ、弱さ、醜さを見つめ続ける。そのために、御言葉を聞くだけではなく行い続けることが大切なことになってくるのです。
そうして初めて、今度は御言葉を自分に受け入れ、自分に結びつけるということが起こってきます。よく似た教えに、「種蒔きの譬え話」があります。神の言葉である種が良い地に落ちます。この良き地に落ちた種のことを、マルコによる福音書は「御言葉を聞いて受け入れる人たちである」と一言で言い切っています。御言葉を「受け入れる」。つまり、「聞いて行う」というのは、「受け入れる」ことなのです。受容する、信じるということなのです。ある人は信仰とは「受容の受容である」と言っていますが、神さまによって受け入れられているという事実を受け入れること、それが信仰なのだと。
ヘブライ人への手紙4章2節は、旧約聖書時代のイスラエルが神の言葉を聞いたことを、今私たちが福音の言葉を聞いたことと並べてこう記しています。「わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされています。けれども彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結びつかなかったためです」と。
私たちも彼らも同じ神の言葉を「聞いた」のです。私たちの場合は、幸いにそれが実っています。なぜか、信じたからです。聞いて信じたからです。けれども、昔のイスラエル人が荒野で滅んだのはなぜか。彼らは聞いたけれども、「信仰によって」自分に「結びつけなかった」から。つまり、受け入れなかったからです。このように、御言葉を聞いて「行う」ということは、「受け入れる」ということであり、それは同時に、信じて受け入れる、信じるということなのです。
今朝の箇所から最後にもう一度聞きましょう。私たちも、岩の上に土台を置いて家を建てた人と同じように、地面を深く掘り下げて神の言葉の上に人生の土台を置くように招かれています。あなたもイエスの人格における神の啓示に触れるまで掘り続け、それからその岩の上に日ごとの生活を建て上げなさい、と。
(2015年6月14日全体礼拝説教)
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