今日の聖書箇所は「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」という言葉で始められています。これに続く出来事は、弟子の一人ペトロによる信仰の告白なのですが、福音書記者ルカは、マルコ福音書のフィリポ・カイサリアで起こったという地理的な場面設定を外して、その代わりに、この告白が神の霊の働きのどのような脈絡の中で起こったのかを明らかにします。その結果、イエスはキリストであるという告白は、フィリポ・カイサリア、つまりローマ皇帝とその配下にある統治者の名にちなむ地ではなく、イエスが彼の弟子たちと共に神に祈っている場面でなされた、とされているのです。祈りは、イエスの為されることのすべてが、神の救いの計画の一部であることを強調するときに用いられるルカの常套手段です。ですから、これから起こることは神の救いのご計画における大きな転換点となる重要な出来事ですよ、と私たちの注意を促しているのです。
イエスは、弟子たちに問います。「君たちはわたしを何者だと言うのか」。この問いは、私が何者であるかではなく、あなたがたはこの私が何者であると信じるか、つまり「信じるか」どうかを尋ねる問いです。そしてこの問いはそのまま、私たちに対する主イエスからの問いでもあります。私たち一人びとりイエスを誰と考えているか、どのような救い主として理解し、そのイエスとの関係においてどのように生きようとしているのか、そのことを主ご自身が私たちから聞こうとしておられる。私たちに言い表すことを、告白することを求めておられるということです。何のためか。それは私たちの信仰の言い表しによって、私たちを主ご自身とのいっそう深い関係の中に置こうとしているからです。いっそう堅固で、いっそう豊かで、いっそう生き生きとした交わりの中に招き入れようとしておられるからではないでしょうか。
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さて、弟子集団のいわばスポークスパーソンであるペトロは答えます、「神からのメシアです」と。ペトロの念頭にあったメシアとは、おそらく一つには、イザヤ書61章に預言されているメシア、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にする」終末の預言者であった。もう一つには、あの「マリアの賛歌」の中で「ダビデの王座に座し、永遠にヤコブの家を治め、その支配は永遠に続く」と言われている、ダビデ王朝の栄光と繁栄を回復する地上的・王的支配者であった。そのような預言者的メシア、また王的メシアという意味を含ませて、ペトロは「あなたは神のメシアです」と告白した。ペトロは彼が知りうる限り最善の答えをしたと言えるでしょう。
ところがルカ福音書は、この告白を聞いたイエスの驚くべき反応を書きとどめています。21節「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じ、次のように言われた」として、「人の子」の死と復活を予告するのです。つまりここでは、イエスに対するペトロの告白は、直ちに三つの限定を受けることになっているのです。すなわち第一に、イエスは弟子たちにこのことを誰にも話さないように命じる。第二に、イエスは弟子たちに自分は必ず殺されるであろう、と言う。そして第三に、イエスは弟子たちに、自分に従うことが何を意味するかを教える
― この三つの限定です。
第一にイエスが弟子たちを戒めたわけ。「戒める」と訳されている言葉は、イエスが風や波の悪魔的な暴力を打ち破るとき、また少年を汚れた霊から解放するとき、悪霊の仕業と思われていたペトロのしゅうとめの熱病を打ち破るときなどに用いられている「厳しく命じる」あるいは「叱責する」と同じ言葉です。神の国の働きを脅かす非人間的・悪魔的な力に対するイエスの反応を表す言葉ですから、これから話すことは、神の国がなるかならないかに関わる重大なことなので、サタンの力を完全に無力化して聞くように、という指示ではないでしょうか。
第二の「自分が殺されるであろう」という予告について。イエスは、自らを「人の子」であるとして、「人の子は・・・
」と語り始めます。それは、これまでのユダヤ教の黙示思想の中にはどこにも予告されていない多くの苦しみを受け最後には殺されるであろう「人の子」です。少なくともダビデ的な王、政治的メシアへの通俗的な期待をきっぱりと拒絶し、イザヤ書に預言されている苦難の僕と自分とを結びつけようとしているのだと思われます。イエスはそれは「人の子」の必然なのだと言います。神の救いの意志がそれを要求する。神の救いの計画は実現しなければならない。イエスが「苦しみを受ける」ことは、神の必然なのだ、と。
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ディートリッヒ・ボンヘッファーに「私は何者か」と題された詩があります。ボンヘッファーという人は第二次世界大戦下、ヒトラーに対する抵抗運動に加わって捕らえられ、ナチス・ドイツの敗北直前に39歳の若さで処刑されたドイツの神学者・牧師です。この詩は、1944年7月、ベルリン郊外の刑務所の独房の中で記されました。「私は何者か」、自らのアイデンティティの問題が最後までボンヘッファーを捉えていたことが分かります。そしてこの問いは、私たちのいのちの源である神、私たちにいのちを貸し与えてくださっている神との関係の問題でもある、と言ってもよいでしょう。この問いに対して私たちは知的に、合理的に、あるいは認識の問題として答えていくことはできない。答えは唯一私たちの経験からしか得られない、つまり自分自身の生き方によってしか、私たちはこの問いに答えていくことができないのです。
ペトロは、イエスが何者かという点については、部分的に正しかったかもしれません。しかしペトロは、イエスに従うことが彼自身にとって何を意味するかという点については完全に間違っていた。イエスは、王座ではなく十字架への途上にあった。ペトロのアイデンティティとは何か。「イエスの弟子とされた者」「生涯かけてイエスにつき従っていくようにされた者」ではなかったか。それゆえイエスに従う者は、他者の救いのための神の救いの意思に服従する道を、イエスと共にたどる用意ができていなければならない、あなたに欠けていることは、まさにそのことではないか、とイエスは言っておられるのです。
イエスの弟子であることと、イエスが主であることは、常に結びついています。教会の宣教が、偽りの保証を与え、十字架とは無縁の弟子の道を教えるなら、私たちは歪められ台無しにされたキリストを告知することになるでしょう。他方私たちが十字架につけられたキリストを告げ知らせるとき、それに対する唯一本物の応答は、自分の献身を危うくしかねないすべての他の営みを捨てて、イエスがそのいのちを捧げた神の国の課題の実現に、余すところなく自らを献げるということでしょう。私たちの弟子としての生き方は、イエスが主であるということを私たちが自分の生活の中でどう受けとめているかを如実に反映するのです。
弟子としての人生は継続的な過程です。23節「わたしについて来たい者は・・・
」に始まる一連のイエスの言葉では、継続とか進行の意味を強調する動詞の形が多用されています。例えば、最初の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ここでルカは、マルコ福音書の一回限り為された「来る」を、継続的に繰り返し「来続ける」に変え、さらに「毎日毎日」という語句を加えています。このことによってルカは、イエスのところに一回来て、つまり受難の時にイエスと共に死ぬよりも、むしろイエスに従うようにとの招きに日々継続的に自分の生活を従わせることが弟子たちに要求されることだと言わんとしているのです。そうは言っても私たちの実情はどうか。告白しても自分の告白の意味をつかみ損ね、理解してもただ一部だけであり、イエスに従った後も自分自身の願望や欲望を持ち続けている。到底献身などとはほど遠い
― これが私たちの偽らざる実情です。それだからこそ弟子たる心得が、継続・進行を表す動詞であることを見過ごしにしてはならないのです。23節はこう言い換えることができるでしょう。「もしあなたが私に従い続けることを望むなら、今自分を捨て、毎日十字架を背負って、私に従い続けなさい」。
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人間は二種類の衝動に動かされて生きると言われます。一つは獲得し、つかみ、蓄え、所有し、そして守りたいという衝動です。もう一つは、与え、捧げ、奉仕したい、という衝動です。ある人たちは、自分たちは皆自分の人生の主人であり、自分たちの安全と自己実現は、自分で何かを獲得するという能力に依存する、と考えます。またこういう人たちもいます。神こそが主であると告白し、神の救いの意思、すなわち人を世の諸々の力の支配下から救い出して力を与え、正義と平和を確立し、障壁を取り壊し、人々を和解させ、共同体を形成していく神の救いの意思、その意思の実現のために一生を捧げる、そのような人たちです。こうした働きに献身する者たち、すなわちイエスの弟子たちは、人生の真の実現がキリストに仕えることの内に見出されること、そして私たちが心から安心して信頼できるしっかりした土台がキリストの内にあることを告白するのです。
最後に、弟子たる心得を教えているところで強調されていることについてもう一言。それは「人の子」についてのイエスの言葉に見られる現在と未来との対照に隠されている真実です。その真実とは、来たるべき、つまり未来の「人の子」ではなく、私たちの現在の生き方が未来における私たちと主との関係を決定する、という真実です。私たちは皆、私たちが成るはずの者になっていくのです。成りつつあるのです。神の似姿により近くなりつつある。キリストの香りを放つ者になりつつある。私たちが今イエスについて語ることが、来たるべきその日、イエスが私たちについて語ることを決定するのです。結局のところ、私たちが日々のイエスの弟子としての歩みをとおして「あなたはわたしを何者だと言うのか」という問いにどう答えるかが重要なのです。すべてはその答えにかかっています。
(2015年3月8日主日礼拝説教)
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