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 2015年2月22日 礼拝説教  【悪と戦うキリスト】 笠原義久

ルカによる福音書 11章14~26節  

 一人の人を「口を利けなくする悪霊」が占拠していました。悪霊の占拠を、本人や周りの人たちがそのようなものとして認識していたかどうかは分かりません。しかしイエスが来られて「悪霊を追い出して」くださった時に、ああそうだったのか、本当は語ることができるはずだったのに、悪霊の力に縛られて口を利けなくされていたのだと、回顧する仕方で了解したのかもしれません。

 福音書記者ルカは、イエスがこの人に出会い関わったときに悪霊が出て行ったという事実を語ることに徹します。なぜこの人はものが言えなかったのか。悪の正体は何か。「そもそも全きよき意志をもって神が創造されたこの世界に、なぜ善ではなく悪がはびこるのか」と神の義しさを問う問いを発しこれに答えるという仕方で語るのではありません。イエスが悪霊を追放したという事実こそが重要なのです。イエスが来られるとき、人間が悪の縛りから、その手かせ足かせから解放されて自由に生き始める、そこに中心があります。

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 ところが、イエスの悪霊追放を見て、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつける者、また天からのしるし、すなわち何らかの身分証明を要求する者がいて、イエスは反論を余儀なくされます。

 イエスの反論は端的に3つ。第1の反論は、ある意味、純粋に論理的なものだと言ってよいでしょう。内輪争いが続けばどんな国でも疲弊して倒れるはずだ。もし自分がサタンの側にあるなら、内輪もめによって悪霊の国は外力によらず内部から崩壊しているはずではないか、と。ここにはイエスが日々苦しむ人間たちに触れ、そのうめき声を聞き、その苦しみを共にしながら過ごしていたという宣教の現実が反映していたに違いないのです。イエスが、悪の力によって混乱し疲弊する人間の痛みを負っているからこそ、皮肉を込めたカウンターがすぐに飛び出してくるのでしょう。「あなたの言う通りだとすりゃ、わたしはどうしてこんなに毎日骨身を削って働かなければならないんだね」と。

 第2の反論、イエスは、それでは「あなたたちの仲間は何の力で」と切り返します。これは同じ時代のユダヤ教において悪魔祓いが行われていたことを、それとなくほのめかす言葉です。私のしていることがベルゼブルの力によると言うなら、あなたたちは仲間たちからの非難を受けることになるがそれでよいのか、と。ここにはイエスのある種ユーモアとも言えるものを感じ取ることができます。「彼ら自身があなたたちを裁くであろう」という言葉には悪魔祓いをしている人たちへの擁護さえ感じられます。イエスが厳しく非難するのは、たとえ胡散臭く危なかしいところがあっても苦しむ人たちを助けるために働いている人たちを蔑視する側に立つ人たちです。人が苦しんでいる現実から離れたところで律法の理論をもてあそんだり、「天からのしるし」を要求するような人たちです。

 「彼ら自身があなたたちを裁く者となる」という言葉において、私たちもまた問われています。「あなたは悪霊を祓おうと苦闘している『彼ら』なのか、それとも彼らに裁かれる『あなたたち』なのか」と。

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 さて今朝の物語の中心は、何と言っても次の20節のイエスの言葉にあります。これはイエスによる第3の反論だと言ってよいでしょう。「神の国はおまえたちの上にまさに到来したのだ」。この前に語られたことも、この後に語られることも、すべてはこの一句が宣言する神の国の到来を強調するためだと言ってよいでしょう。悪霊が何者であるかでもなければ、どうすれば退散させられるかでも、悪霊が追い出されたということでさえない。イエスは72弟子たちが伝道から帰ってきたとき、どう言ったか。「悪霊があなたがたに服従するからと言って喜んではならない」と釘を刺しています。悪霊に勝利するというのは事実だが、しかしそれが目標ではないし、喜んだり宣伝したりすることではない。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。彼らが神の国の住民となったこと、神のものとなったこと、神によって生きる者となったこと、それが一番肝心なことであり喜ぶべきことなのです。

 イエスは「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば」と語ります。マタイ福音書の「神の霊」に対して、ルカは「神の指」というヘブライ語的な背景をもつ言葉を用いています。出エジプト記で、魔術師がファラオに「これは神の指の働きでございます」と言っていることも非常に興味深いのですが、イエスの指のことが語られている「耳が聞こえず舌の回らない人」の癒しの記事が、ことの核心を衝いているように思われます。イエスは「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とあります。イエスの指が魔術的・呪術的な働きをするという意味ではないでしょう。指が耳に差し入れられ、唾をもって舌に触れられたとき、この人は「エファタ(開け)」というイエスの言葉を聞いた。そしてその命令通りに、自分が開かれるのを経験しました。実に自分を開いてくださったイエス御自身が「神の指」であることを知ったのです。今日の物語でイエスに悪霊を追い出していただいたこの人もまた、「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば」というイエスの言葉に、即座に「そうです。私は確かにそれを証言します」と応答したのではないでしょうか。

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 さて、人がイエスによって悪霊を追い出してもらうという出来事のあと、その後の人生において何が重要であるか ― ルカは次に語ります。繰り返しになりますが、悪霊祓いは、そのこと自体を目的としてなされるのではありません。一人の人間において汚れた霊が出て行ったということは、神の国、神の恵みの支配の始まりです。悪しきものによる支配から解放されるということは素晴らしいことには違いありませんが、それで終わってしまえば、そこには空虚な器が取り残されることになります。そしてそこは、行き場所を失った汚れた霊にとって格好の住みかとなってしまいます。「掃除をして、整えられて」次のご主人様の入居を待ち構えている状態なのですから。今、イエスに出会い、悪霊から解放され、話をすることができるようになった人は、これから先の人生をどう生きるのでしょうか。

 あのヴィクトール・ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』の最初の部分はあまりにも有名です。前科のあるジャンヴァルジャンが教会の司教の銀製品を盗む場面があります。警官がジャンヴァルジャンを逮捕して、司教の家に連れてくると、司教は、その品は彼に贈ったものだと言い、さらに銀の燭台も与えるつもりであった、と付け加えます。この司教の恵みに満ちた行為は、ジャンヴァルジャンの心の中に激しい苦悶を引き起こします。その心の内をユゴーは次のように記しています。

 これらすべてのことに直面して、彼は酔っ払いのようによろめいた。・・ ある声が彼の耳にささやいたのであろうか。 ― 彼は彼自身の運命の決定的瞬間をまさに通過したのだということを。もはや彼にとって中間は存在しないということを。今後最善の(もっともよい)人間にならないならば、最悪の人間になるだろうということを。いわば、今やあの司教よりも高いところに上るのでなければ、囚人よりも低いところに落ちなければならないということを。善い人間になろうとするなら天使にならなければならないということを。悪い人間に留まるなら怪物にならなければならないということを。 ・・・ 疑うまでもなく確かなことと言えば、彼がもはや同じ人間ではないこと、彼の中ですべてが変化したこと、そして、司教に何も語らせず彼の心に触れさせないようにすることは、もはや彼にはできないということであった。

 この司教の恵みの行為は、もはやそれまでとは同じ人間ではいられないほどに、ジャンヴァルジャンの人生を変えました。道は二つに一つ、ジャンヴァルジャンと同じようにその人生を決定的に変えられたこの人は、その後どうなったのでしょうか。悪霊は戻ったのでしょうか。すなわち、再び悪霊の支配下に戻り、その世の流れにからめとられていったのでしょうか。それとも光がその後の彼の全人生を満たしたのでしょうか。すなわちイエスに従って神の国、神の支配の下に生きることを選び取ったのでしょうか。二つの道の真ん中の道は存在しないのです。

 主イエスは、徹底したリアリズムで人間を見つめています。悪霊が出て行っただけの人間は、汚れた霊が戻ってくるのを待ち構えている空洞である。前よりももっと多くの霊どもに、いいように支配されることになる。本当に人を救う御方は、ただ悪霊を追い払って、あとはお好きにどうぞ、これからはあなたがご主人様ですよときれい事を言ってすませるのではない。神があなたの新しい主人である、その神の御心を行うことがあなたの人生のすべてとなるのだ、イエスはそのようにおっしゃっているのではないでしょうか。今日の箇所のすぐ後、一人の女性に真の幸いを告げるイエスの言葉、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」 ―神の言葉に聞いてそれを行うことがあなたのこれからの幸いとなるのだ、と主イエスは、はっきりと宣言しておられます。

 パウロのガラテヤ書の言葉を思い起こします。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。イエスが私たちにもたらしてくださる自由は、自分が主人公となって好き勝手に生きる自由ではありません。神の語りかけに応答し、神の働きに自分を差し出すことのできる魂の自由です。こうしなければならないという強迫観念や、不安に駆られて何かをせざるを得ないという縛られた状態からの麻痺的な言動ではなく、ただひたすら神の愛に信頼するがゆえに、神の言葉に服従して生きようとする自由こそが求められているのではないでしょうか。

(2015年2月22日主日礼拝説教)



 
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