ルカ福音書二章は、主イエスの奉献のことを記しています。旧約聖書の律法では、男子が誕生した後、三つの儀式が義務づけられています。
第一の儀式は、誕生後の八日目に、命名と割礼が授けられる式です。
第二の式は、長男の場合には規定があって、通常生後一カ月くらいで五シェケルの贖い金の支払いが義務づけられていました。
第三の式は、産婦の清めの式で、産後四〇日目に贖いの式をして産婦の清めをしなければなりませんでした。ルカ福音書のこの箇所では、この第三の式と第二の初子奉献とが混同して語られているようです。レビ記によると、清めの期間が終わると、産婦は贖いの式のために雄羊一匹と家鳩か山鳩一羽を献げることになっていました。マリアとヨセフは貧しいカップルだったので、その代わりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽のどちらかを献げたのでしょう。
これらの儀式を、私たちはイエス・キリストによる神の救いの視点から、その意味を捉えていく必要があります。
第二の初子を献げる儀式は、この「初子」を、死者の中から復活し私たち人間の「初穂」となったキリストと関連づけて考える必要があります。イエスは全人類の初子であり、初穂なのです。神の初子であるイエスが、十字架上で人類の救いのために献げられたが故に、神殿におけるイエスの奉献が重要な意味を持っているのです。
第三の産婦の清めの儀式が、救いにおいてどのような意味をもっているのか
― それはこの後でシメオンが母マリアに与えた祝福の預言と関連づけて見ていく必要があります。三四節、シメオンは祝福してマリアにこう言った、とあります。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています
― あなた自身も剣で心を刺し貫かれます ―
」と。これでは、祝福ではなく、呪いの言葉が与えられたように見えます。幼子は「反対を受けるしるし」になるし、母は「剣で刺し貫かれる」と言うのですから。
イエスが「反対を受ける」というのは、イエスのナザレでの最初の説教に対するナザレの人々の冷ややかな反応に始まり、ついには十字架上のイエスに対する人々の反応で頂点に達します。「反対を受ける」が呪いではなく祝福であるのは、イエスが人類の救いのために献げられるという使命に生きたからです。それによって私たちに救いがもたらされたからこそ祝福となるのではないでしょうか。
もう一つの母マリアに与えられた「剣で心を刺し貫かれる」という預言。これは、イエスが人類の罪を背負い十字架の苦しみを受けることに対して、信仰者マリアが共に苦しみを担う形で同伴するであろう、という預言として考えることができます。したがって、母マリアの汚れの清めとは、単に出産の四〇日後の清めを意味しているのではなく、むしろ、彼女が剣で心を貫かれるほどにイエスの十字架に同伴しその贖いにあずかることによって、本当の意味での罪の汚れから解放され、神の救いが実現するという贖いの神秘を、妊婦の清めの儀式として暗示しています。そのことを通して、私たちもまた、母マリア同様、キリストの十字架に徹底的に同伴しなければならない、自分の心に剣が刺し貫かれるほどの苦難を通らなければならない。主キリストに従うということは、そのような贖いの業への参与でもあることを、シメオンの預言の言葉は語っているのではないでしょうか。
今朝の聖書箇所には、以上の三つの儀式の他に第四の儀式が暗示されています。それは、イエスがナジル人、「聖なる者」として神殿に献げられる儀式です。実際、二九節以下のシメオンの賛歌は、民数記のナジル人の誓願の後に出てくる祭司の祝福の言葉に対応しています。シメオンは、神の救いを「異邦人を照らす啓示の光」と言います。すなわち、主イエスのナジル人としての奉献は、結局のところその十字架と復活という救いの出来事を暗示的に語りつつ、イエスが異邦人を照らす啓示の光であることを強調しています。そして、この福音の消息をシメオンというシニアの口を借りて語らせている点が、私には非常に興味深く思われます。
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この年度の教会修養会の主題ともなった「霊性」ということを考えるとき、私はシニアの霊性ということにあまり思いを致していなかったことに最近気づかされました。この場合の「霊性」とは、宣教ビジョンにも記した「イエス・キリストをとおして働きかける神の霊に応答して形成されるわたしたちの生の姿勢」のことです。この生きる姿勢のことをライフスタイルと言うことも可能だとも申しあげました。シニアの霊性とは何か、それは、シニアはそのライフステージに合わせて、どのような信仰生活を送ればよいかという問いです。その観点からすると、今日の聖書箇所に出てくるシメオンと女預言者アンナとは、新約聖書では例外と言ってもよいくらい、老年期の信仰者の姿をはっきりと示しているように思われます。
この二人とも、幼子イエスそして若夫婦マリアとヨセフとの対照で描かれています。明らかに二人の老人は旧約の象徴であり、新約の救いである幼子と入れ替わる形になっています。しかも、旧約のシンボルであるこの二人の老人が、新しい時代の架け橋になっているかのようです。そうです。老年期には、次の世代への架け橋になるという使命があるのです。自らは滅びていくが、新たな時代と世代に対して、新しい希望の芽を見出していく使命がある。新しい後継者を見出し、それに自らの場を明け渡していくのは老年期の課題だと言うことができます。シニアは自らが果たす任務や仕事は終えている。しかし今までの経験から育てられた、知恵の目があります。それによって、次の世代に残していくべきものを見出し、それを人々に伝え、自らは引いていくのです。
この日、エルサレムの神殿は多くの人でごった返していました。幼子イエスと若夫婦は、貧しい身なりのごく普通の目立たない庶民の姿で神殿にやって来たのです。その幼子をメシアと見抜いたシメオンの眼力。もちろん聖霊の働きによってですが、そのような聖霊の働きを捉えるだけの、深い知恵・知力を持ち合わせていたのです。シメオンの賛歌を聞いた若夫婦は驚きました。彼らの信仰の目はまだそこまで見通す力がなかった。まだ信仰の経験も、人生の経験も足りなかったので、メシアの生き方を見抜く力がなかったのです。それに対して、シメオンは人生の締めくくりの時期にいるからこそ、その本質を見抜く力があったのです。
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シメオンの賛歌は、カトリックの修道者や聖職者が唱える祈りでは、寝る前の祈りに挿入され、毎晩床に就く前に唱えられているということです。就寝をひとつの死と見なして、死に向かう気持ちでこれを毎晩唱えるというのです。「安からに去らせてくださいます。あなたの救いを見たからです」。自分の死を前にして本当にこのように祈れるとしたら、何と幸せな最期であることでしょうか。神の救いを見て、真の満足を得て、主の御許に行けるのですから。救いを見るのは、シニアのライフステージにある者の知恵がもたらす実りです。若いときにはまだ見るだけの知恵が備わっていない。シニアのライフステージになってこそ与えられる霊性、生きる姿勢から生まれる実りです。その霊性の実りこそが、平安な心で、死を迎える一番の準備となるのです。
老年期がうつと絶望の時になってしまうことがあります。若い頃にできたことが何もできなくなり、すべてが奪われて無力になってしまうことが耐えられないほどつらい。体力も気力も奪われ、人間関係もコミュニケーションもなくなり、全くの孤独に陥る。すべてが不安・心配の種になってしまう。日曜日に教会に行くのも体力的に困難になる。
にもかかわらず、シメオンは「あなたの救いを見た」と神を賛美するのです。それは、私たち一人一人のシニアというライフステージに与えられている一つの希望の約束ではないでしょうか。
シメオンが、救いの意味を鋭く洞察し、異邦人にまで及ぶ救いの広がり・普遍性を実感できるのは、シニアの知恵のしるしではないでしょうか。神の憐れみの大きさ、広さ、深さがどれほどのものであるかを単なる理念でなく、経験から知っているのです。若い間は、救いの普遍性を理念的に理解していても、経験的に実感する機会は少ないと言えるでしょう。人生経験を積めば積むほど、その本当の意味が分かってくるのでしょう。
最後に女預言者アンナのことについて一言。彼女も、シニアの霊性の一つのモデルを提示していると言えます。当時で八四歳というのは相当の高齢であったのでしょう。彼女の生き方がどういうものであったのかは、次の一文で端的に示されています。「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と。「神殿を離れず」とは、別に教会に行くという意味だけではないでしょう。私たちの体自体が聖霊の宿っている神殿なのです。自分の存在を神殿として捉え、その中におられる「神に夜も昼も仕える」ことができるかどうかが問われているのです。しかも祈りだけでなく、断食によっても。断食とは、まさにシニアというライフステージに遭遇するさまざまな苦しみ(病気、衰え、孤独や退屈)を象徴しているのでしょう。「夫に死に別れ」というのも、老年期の死別と孤独の苦しみを暗示しています。そのような苦しみを断食として、絶えず主に献げていくことができるかどうか、ということです。結局は、シニアにおいて、私たちはどのように主に自分を献げていくかが問われているのです。
この2015年という新しい年、シメオンのように「あなたの救いを見た」と言えるような生き方へと、アンナのように自らをまるごと主に献げていくことのできる存在へと変えてくださいという願いをもって、相共に助けあい、励ましあいつつ、祈り、働き、御言葉に聞く生活を神の前に続けたいと思います。
(2015年1月4日主日礼拝説教)
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