1960年に不慮の事故でこの世を去ったフランスの作家アルベール・カミュの代表作とも言える『ペスト』という小説が、今また多くの人々によって思い起こされ注目されています。
北アフリカにあるオランという港町を襲ったペスト、この致命的な疫病によってこの町は外の世界から完全に遮断され、町の市民全体が生存を脅かされるという「極限状況」にさらされます。この小説は、オランを襲ったペスト事件を、医者であるベルナール・リウーという人物による経過記録という形で物語っています。
小説のタイトルである「ペスト」は、さまざまなものを象徴していますが、きょうはその一つにだけ着目してみます。
ペストの象徴的意味の一つは、今日世界の各地における大震災や大災害、ひいてはこの世界における悪と罪なきものの死と苦難をめぐる問題、カミュの言葉をもってすればこの世の「不条理」という深い次元へと私たちを導いていきます。ある人は、2011年3月11日以後の状況の中で、この小説が多くの人々によって思い起こされた、と言います。単純化して言えば、この小説『ペスト』は、不幸と災いとに陥った社会における人間の可能性を描いている、あるとすればそれはどんな可能性なのか、また人はどんな行動を取り得るのか、そのことを描いている、と言えるでしょう。すなわち『ペスト』は、この暗い時代をいかに生きるかについて、私たちに改めて鋭く問いかけるものをもっている、ということだと思います。
ところで、カミュには『ペスト』の5年前に書かれた『シーシュポスの神話』というエッセーがあります。「シーシュポス」とは、ギリシア神話に出てくる一人の人物です。彼は人間の中でもっとも賢いと言われていたのですが、神々の怒りに遭って地獄に追いやられます。そしてそこで彼はその罪の報いとして一つの刑罰を科せられます。その刑罰とは? シーシュポスは山の頂まで大きな石を押し上げていくことを命じられます。ところが一生懸命に石を押し上げて山の頂に達すると、その石はそれ自身の重みでまた麓まで転がり落ちてしまう。そこでまたその石を押し上げていく。ところがまた頂に達するとその石がまた下に転がり落ちる、また押し上げる
・・ そういう無限の労働がシーシュポスに科せられるのです。このようなシーシュポスの姿を描いて、カミュはこう言います。全く無駄で希望のない労働、決して達せられることのない、そのようなことのために力を尽くさねばならない、これほど恐ろしい刑罰はない、と。そしてカミュは、このような恐ろしい刑罰を下されたシーシュポスの中に今日の人間の姿を見ています。そして人間はどのようにしてこのような刑罰に堪えていくことができるのか、ということをカミュはこのエッセーの中で考えているのです。
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それではまず、カミュが『ペスト』や『シーシュポスの神話』で問うている問題、すなわち虚無や不条理に充ち満ちた暗い時代を生きていく道とはどういう道かということについて、カミュ自身が与えている答えをご一緒に考えてみましょう。
一年近く続いたオランの町のペスト事件に、その発見から収束に至るまで、それこそ献身的に尽力したのは主人公であるベルナール・リウーという医者でした。彼は、ペストの終焉後、「ペスト」の記録化に着手しますが、その意図を次のように説明します。
「天災のさなかで教えられること、すなわち人間の中には軽蔑すべきものよりも賛美すべきものの方が多くあるということを、ただそうであることだけのために、私は記録に留める」と。
この言葉には、リウーという人における人間に対する「希望」のしるしを認めることができます。「ペスト」において、一人ひとりの人間は、個人の運命を越えた同じ運命を担う他者と繋がっていることを否応なく認識せざるをえませんでした。実際、この小説の登場人物は、いずれも同じ不条理の苦難の中に立たされながら、しかし苦難を分かち合うこと、連帯しながらそれと闘うことを自分にとっての価値あることと感じ取っています。そしてこのような友情・愛・連帯感は、不条理な生の感情に対抗することを可能にする人生の価値だと言えるのではないでしょうか。要約的に言えば、不条理な現実に抗することこそが、連帯的な人間同士のありようを可能にするということでしょう。
さて、もう一つの『シーシュポスの神話』の方はどうでしょうか。カミュの与えている答え。シーシュポスが科せられた運命に打ち勝って生きていく道はただ一つ、この運命に然りと言うこと。この運命を肯定すること、むしろそれを愛すること、この運命を科せられたものとしてではなくむしろ自分から進んで担うこと、それ以外にはない、これがカミュの答えです。
虚無や不条理に充ち満ちた暗い時代を生きていく道がどのような道であるか、両者が共に指し示しているところ
― それは、一人ひとり、与えられた自分の持ち場に固く踏みとどまるべきこと、それはさまざまな形で可能となる行動に打って出るためであること。そして実際、自分自身に対して定義された価値を発見し、自分自身の決心に基づいて、それを行動に移す自由の余地は、なお残されている、ということです。
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それでは、今日の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙は何を語っているのでしょうか。
ここでは、暗闇と光との対立が一つの出発点となって二つの鎖が対立しています。しかしこの二つの鎖の中で、「光」に繋がる鎖の方が圧倒的に力強く描かれています。つまりこの時の中において「光」の方が圧倒的な勢力としてある、ということです。
著者であるパウロはこの事実を的確に見据えています。暗闇がいかに深く覆っているように見えようとも、この時代が虚無と不条理に充ち満ちた暗い時代に見えようとも、それをはるかに凌ぐ光が、今この時を支配しているのだという事実
― この事実は、神の憐れみの支配の下にある、この世界のあらゆる領域の上、あらゆる被造物の上に、それを取り巻くすべての状況、事情の上に確かである。それは神の支配を否定するものの上にも確かな事実として厳然としてあるのだ
― パウロはそう語っています。私たちは、程度の差こそあれ、自らの内にある闇の大きさ、深さに愕然とした思いをもっています。その闇の正体とは、私たちが、存在の根本のところで、あのシーシュポスが抱え込んでいた刑罰、この人生何をやっても空しいという虚無感を抱え込んで、それに苛まれているということかもしれません。そのような虚無に苛まれつつ、またこの世界の不条理、すなわちペストの象徴的意味がもっているようなこの世界における悪と罪なきものの死と苦難の問題をしっかりと見据えつつ、しかし、そのような暗闇をはるかに凌ぐ光が今のこの時を支配している、この神の憐れみの事実こそが、恵みの事実こそが、この世界のあらゆる領域の上に、あらゆる被造物の上に、またそれを取り巻くすべての状況・事情の上に確かである、そのことを信じたいのです。
それでは、今そのような時の中に置かれている私たちが生きるとは具体的にどのようなことなのか。
実は今日の聖書箇所は、パウロが信仰による生活の勧めをしている文脈の中に置かれています。そしてその勧めはただ一つの言葉で受けとめられ、表現されています。すなわち、どんな掟があっても結局は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に尽きる、すべてはそこに集約されるとパウロが語っていることです。
今の時を生きる、すなわちペストの時代を私たちが生きるとは具体的にはどのようなことなのか。それは一言で言えば、「愛に生きる」ということです。愛に生きること、それがここでは、「主イエス・キリストを身にまとう」という言葉で言い表されています。イエス・キリストを着るということは、端的には、あの神の憐れみの御支配を私たちが受け入れるということ。イエス・キリストにおいて、闇の中にある私たちと共に生きようとされた神、私たちを徹底的に愛し、見捨て置かれなかった神の憐れみを私たちが受け入れるということです。その憐れみに応えるということです。この憐れみへの応答が、互いに愛し合うこと、あなたの隣人を愛するということです。隣人を愛するとは、病に苦しむものを癒し、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出し、悲しみ泣く者と共に泣き、貧しい者、社会から見捨てられている者たちの傍らに立ち給うたイエス・キリストのみ跡に従うということです。自分のことで精一杯、困難な問題や悩みを抱えてどうにもならない自分がどうして他の人のことなどを・・・。このような私たちの偽らざるギリギリのありようを神は先刻ご承知です。しかし、その私たちのためにこそキリストは十字架につかれたのです。
神が自分の似像に造られ、そしてその似像に相応しく生きるようにしてくださったその恵みを否定するいっさいの力、人間が人間らしく生きることを許さない一切の勢力、人間が人間として尊ばれないあらゆる人間破壊
― 隣人愛とは、このような力に対してはっきりした「否」を語り、このような状況の真只中へと身を挺して入り込むことです。この隣人愛は、『ペスト』の登場人物たちが、同じ不条理の苦難の中に立たされながら、しかし苦難を分かち合うこと、連帯しながらそれと闘うこと、すなわち愛の連帯性へと導かれたということと、魂の深淵において、しっかり手を握り合っている、と言えるのではないでしょうか。とりわけ3・11以後の状況を生きる私たちに求められていること、それは苦難を分かち合い、連帯しながらそれと闘う愛の連帯性ということではないでしょうか。
「夜は更け、日は近づいた」。今朝私たちは、この恵みのプロセスの中に置かれていることを感謝のこととして、共々に受け入れたいと願うものです。
(2014年11月9日特別伝道礼拝説教)
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