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 2014年9月21日 礼拝説教  【その男は あなただ】 林原 泰樹

サムエル記下11章1~5節 12章4~9節、コリントの信徒への手紙Ⅱ7章8~10節  


 私が担当の礼拝説教では、このところダビデ物語を通して学んでおります。前回のところでは、ダビデはまだイスラエルの初代の王サウルに命を狙われ、逃亡生活をしておりました。しかしその後、時は過ぎ、今日の箇所ではサウルも息子のヨナタンも最早いません。彼らは命を落とし、ダビデが今やイスラエル王です。国内にはダビデを脅かす者はおりませんし、外敵との戦いにしても、王自身が出向くまでもない状況になりつつありました。ダビデは戦いの全てを軍司令官ヨアブに委ね、夕方は王宮の屋上をのんびり散歩して夕涼みをするというようなこともあったようであります。

 しかしながら、かような時が、信仰的には最も注意が必要です。油断して罪の誘惑に陥り易いからです。以前のダビデは信仰的で、預言者を通して神の声を聞き、神と共に歩んでいたものですが、人生にゆとりが出来てあくせくする必要が無くなってからのダビデは、恐らく神に頼る思いが薄れ、祈ることも少なくなっていたことでしょう。故に、待ち受けている誘惑に抵抗出来なくなってしまいました。それが続く彼の人生の展開です。

 ある日の夕方、ダビデは王宮の屋上を散歩中、近隣の家臣の家の庭で水浴びをしている一人の女性を見ました。その女性の美しさにダビデはすっかり参ってしまい、調べさせてみますと、その女性はバト・シェバと言って、ウリヤという軍人の妻でした。ダビデは彼女に恋をしてしまい、彼女を王宮に召し入れ、床を共にしてしまいました。ダビデの命令で命がけで戦場でウリヤが戦っていた、まさにその留守中に、その妻にダビデは手を出したのでした。これはウリヤに対する裏切りであると言わざるを得ません。

 それは、一度限りの過ちということでは、済みませんでした。バト・シェバは妊娠しました。ダビデは焦り、ウリヤを急遽エルサレムに呼び返します。ウリヤを家に帰らせ、妻と共に過ごさせることによって、バト・シェバの妊娠を夫によるものだとウリヤ自身に思わせるためです。ダビデは自分の罪を隠蔽しようとしたのでした。

 ところがウリヤは実直で、家に帰ろうとせず、王宮の入口でダビデの家臣団と共に夜を明かしました。ダビデはそれを知って苛立ちます。翌日ウリヤに、何故家に帰らないのかと言うと、ウリヤはこう答えました。「私の主人ヨアブも主君の家来たちも野営しておりますのに、私だけが家に帰ってのんびり飲み食いしたり、妻と床を共にしたり出来るでしょうか」。ダビデは自分の罪の隠蔽計画が失敗したことを知り、恐ろしいことを考えます。将軍ヨアブに手紙で「ウリヤを最前線に送り戦死させよ」と指示しました。ヨアブは書状の通り実行します。ダビデが殺したのです。姦淫の罪を隠すために何の罪もない忠実な部下をこのようにして殺したのです。

 そのようにして、罪は新たな罪を産み、膨れ上がって行きました。そして何かが起こらない限り止まりません。ダビデの場合もそうでした。最早止まりません。ウリヤの喪の期間が終わると、ダビデはバテ・シェバを王宮に連れて来て、何食わぬ顔で妻にしたのでありました。

 さて、ここまではもっぱらダビデの罪のことを見てきたわけですけれど、一方バテ・シェバの方はどうであったのでしょうか。姦淫の罪というものは一人で犯すものではありません。バテ・シェバも夫を裏切る罪を犯したのです。それは王であるダビデに無理強いされて仕方なく行ったと言えるかもしれません。けれども必ずしもそうではなかったのかもしれません。バテ・シェバは夫を捨て、王であるダビデに鞍替えしたということだったのかも知れないのです。

 ただし、たとえそうであったとしても、ダビデの罪は、それによって消えるわけではありません。やはりダビデがしたことは言い逃れのできない最も大きな罪であります。

 ダビデは欲情に突き動かされ、神への信仰心が何の歯止めにもならなかったのです。このことは、私たちにも、ある種の警告を促しているのではないでしょうか。特に人生の成功の安堵に酔いしれている時に、気の迷いは生じます。私たちもダビデのような罪を犯さないように気をつけなければならないのです。

 続く12章には、神がダビデの罪を、決して見逃さなかったということが記されております。

 神は預言者ナタンをダビデの下に遣わしました。ナタンはダビデの相談役の預言者でした。そのナタンが神に遣わされてダビデの下に行き、自分が目撃した事件を報告するかのようにしてこう語り始めたのでした。

 「ある町に2人の男が住んでいました。1人はとても豊かで非常に多くの羊や牛を持っていました。しかしもう1人はとても貧しく、ようやく手にした1匹の雌の小羊の他には何も持っておりませんでした。彼はその小羊をとても可愛がり家族の一人のようにして育てていました。ところがある日、豊かな男のところに客がありましたが、彼は自分の羊や牛を殺すのを惜しがって、貧しい男の小羊を取り上げ、それを殺して客へのもてなしのご馳走にしてしまいました」。

 そこまで聞いたダビデは激怒し、「主は生きておられる、そんなことをした男は死罪だ」と言いました。するとそこで、ナタンはダビデに向かって言いました。「その男はあなただ」。

 これは神の怒りの言葉でありました。そしてダビデ自身が、「そんなことをした男は死罪だ」と下したその判決も、正に、神のダビデに対する判決だったのです。

 このことから何が分かるでしょうか。人の犯している罪のことは、客観的に正しく判断することが出来るのです。しかし同じことを自分自身がしているということには、私たちは気付かないのです。そういうことを私たちもしているのではないでしょうか。このことは、単に私たちが、人には厳しく自分には甘いという、そういう性質を持っているというようなことでは済まされない、大きな問題を含んでいると思われます。

 ですが、ダビデは「その男はあなただ」という指摘を、ナタンを通して神から受けた時に、即座に分りました。「わたしは主に対して罪を犯しました」と言いました。彼はこの後、神に赦しを求めたと思われます。そしてそれに対してナタンは、ダビデが真に悔い改めたのを認め、罪の赦しが与えられることをここで告げたと、そう記されています。

 でも、その赦しの言葉には、次の言葉が付け加えられていました。「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」、つまり、あなたのしたことは殺人なのだから、それ相応の償いをしなければならない、ということです。その言葉の通り、この後、ダビデに産まれた子どもは病気になりました。弱っていき、ついに死んでしまう。ダビデは本当にそのことについて悲しむのですが、その悲しみの中で、恐らく自分がかつて行った罪の深さがどれほどのものであったかが、分るようにされていったのだと思います。そして、その償いを通して、彼は本当に赦されていったのではないでしょうか。

 以上が今日の個所に書かれている物語です。ダビデはこのようにして、苦しみを経て、悔い改めて赦されました。私たちも、同じ罪ということではなくても、罪は犯すものであります。そして神は、どのような罪も決して見逃さない方です。今日の我々に見る「それはあなただ!」という罪の指摘を、神はなさる方です。故に私たちはその罪の暴き、追及を神から受けた時に、「それは私です。私は罪を犯しました」と、告白する者とせられたいと思います。そこにのみ、神が備え給う道があるのです。

 今日の新約の方のテキスト、コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章には、パウロがコリントの町の教会に対して、罪を指摘し、悔改めることを迫る手紙を以前に送ったという話が書かれております。パウロはかつて大変厳しい口調でコリント教会に罪を指摘する手紙を送ったようです。するとそのことがコリント教会に悲しみをもたらしましたが、しかしながらその悲しみは、コリント教会を悔い改めに導いたのでした。そしてそこに神からの赦しの恵みが与えられ、彼らはもう一度新たにイエス・キリストの教会として歩み始めることが出来たという、そういうことが書かれております。それらのことを回想してパウロは10節にこう書いています。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」。

 本当にその通りだと思います。神の御心に適った悲しみというものがあるのです。それは今日学んできた所にも出てきた「その男はあなただ!」という指摘によって起こる悲しみです。自分の罪が暴かれる時に起こる悲しみ、それが御心に適った悲しみなのです。それは大層私たちを悲しませるが、しかしそれは救いに通じる悔い改めを生じさせる悲しみであり、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みへと繋がっているのです。従ってそれは私たちを滅ぼす世の悲しみとは全く異なります。その違いを私たちは知るものとならせていただきたいと思います。

 私たちは、この「神の御心に適った悲しみ」を避けることなく、受け留めて歩んで行きたいと思います。「わたしは主に罪を犯しました」と認める、そのことの先にこそ、本当の確かな恵みがあるのです。

 (2014年9月21日礼拝説教より)



 
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