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 2014年9月14日 礼拝説教  【愛という道】 笠原義久

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節~13章13節  

 コリントの信徒への手紙Ⅰの12章は、「兄弟姉妹たち、霊的な賜物については、次のことをぜひ知っておいてほしい」という語りかけをもって始まります。霊の働きが豊かであることは神の恵みであり、教会に集う者たちが種々の霊の賜物を与えられていることは本当にすばらしいことです。けれども、その賜物をどう受け止め、どう用いるかによっては、教会を破壊し、福音宣教を歪めることにもなったのです。コリントの教会においてはこのことが特に顕著に見られたのだろうと思われます。

 霊の賜物は、神との深い交わりへと人々を導く力であり、教会の宣教を前進させる力であり、自由を束縛するさまざまな手かせ足かせに捕らわれている人々を解放する力でもあります。しかしそれが力動的で魅力的なものであるだけに、賜物は一種の能力と見なされ、信仰共同体における信仰者を優から劣へとランク付ける特権のようなものともなりうるのです。この賜物を道具にしての霊的なエリート主義が生まれます。パウロはコリント教会にその予兆を感じ取り、一人ひとりに異なる霊の働きが与えられるのは全体の益のためであることを強調し、異なる賜物が上下関係や支配する・支配される関係をつくり出すことにならないよう注意を促しています。

 ところが、今日の聖書箇所では使徒、預言者、教師は、第1、第2、第3と順位づけがなされています。これは今申し上げた、異なる賜物の上下関係、支配=被支配という関係を否定し、賜物というものが持っている体の部分部分の相互依存性を強調する直前のくだりの趣旨に矛盾するようにも見えます。しかしこの発言の真意は、コリントの教会の人たちに与えられている霊的な賜物の中で、特に賞賛されていた、病気を癒したり奇跡を行う力、あるいは異言を語る力といった、人の耳や目を特別に惹きつけるようなものを、意識して、それらを相対化するようにという意図をもって語られているように思います。

 使徒、預言者、教師によって語られる神の言葉 ― それを聴くことなくして教会は一歩も歩み行かないのですが、それは新しい物好きのコリントの都会人たちをアッと言わせるような派手さや衝撃力を欠いているのかもしれない。奇跡や異言に比べると確かに地味であるかもしれない。しかし教会は、どのような犠牲を払っても、神の言葉への奉仕を自らの中心的な行為となし、それを守るための最大限の努力を注ぎ出さなければならないのです。第1から第3までの3つの職務が、使徒、預言者、教師という奉仕する者の名称で挙げられているのに対して、「その次に」として、以下は、力ある業、癒しの賜物、援助の賜物、といったように、賜物の名称によって挙げられているのも、コリント教会において崩れかけていた賜物評価のバランスを回復するためであったと考えられます。

 それでは、その後に来る「もっと大きな賜物を求めよ」という命令はどう解すればよいのでしょうか。これも、コリントの人々を惹きつけつつあった賜物理解を正すために、パウロの物差しを提示しているものと読み取りたいのです。パウロにとって「もっと大きな」あるいは「もっと偉大な」とは、このあとの14章における預言と異言の位置づけからも明らかなように、あるものを「造り上げる」という基準から測られるべきだというのです。キリストにある者が追い求めるべき霊の賜物は、他の人々を造り上げ、教会という生きた体を造り上げるものである。個人主義的な賜物追求に陥るとき、人々はより際だって目につくもの、より自分の実力を示すもの、より賞賛を集めるものを、大きなもの・偉大なものと評価するようになります。それを各人が競争して追い求めていくとき、そこに生じるのは無秩序と混乱であり、現れ出るのは、この世的な共同体です。「もっと大きな」とは「もっと多くの」という意味ではないでしょう。「皆が使徒であろうか」。いや、そうではない。神は賜物をそれぞれに分けて与えられた。全能の賜物を賜った者などいない。すべての賜物は部分的である。自分が神に割り当てられた部分を、「教会を造り上げるために」伸ばしていくことが、まさに求められているのです。



12章最後の「最高の道」という言葉は、12章と13章をしっかり繋ぎ合わせています。霊の賜物を追求することは、それを越える大きな目的のもとに繋がらなければなりません。パウロは、もはやそれを「賜物」とは言わず、「道」と言い表しています。神が分け与えてくださった賜物は、与えられた分をそれぞれが所有するものですが、愛は、それぞれがどのような賜物を持っているかにかかわらず、すべての信仰者が歩むよう召されている生き方であり、それゆえ道なのです。それはキリストが歩まれた道であり、またキリストという道です。キリストは愛を歩まれた、愛を生きられた。キリスト御自身が愛である、ということです。

 パウロはここで愛という普遍的なテーマを、コリント教会の人々の課題として極めて具体的に語っています。愛とは何か、どのような概念規定ができるのか、愛という概念を詳細かつ厳密に構築しようとしているのではありません。パウロの念頭にあったのは、コリントの人々の霊的なエリート志向であり、また信仰の共同体をばらばらにしていく、個々人の自己中心性であったに違いないのです。たとい異言という素晴らしい天使の言葉が語れたとしても、たとい神秘や知識に通じていても、たとい山を動かすほどの完全な信仰があっても、完全な自己犠牲をささげたとしても、愛がなければ、その人が愛を生きていないなら、無に等しい。パウロはそう言います。ここからは、コリントの人たちが最高の価値とし、その所有を誇り、互いに競い合っていたものが透けて見えてきます。それらはどんなに価値をもつ秀でた行為や業績であっても、人間や人間の共同体を形成するものとはならない、とパウロは言うのです。

 ここで愛というものをいわば定義づけている15ある表現の内8つが否定形であること、「愛とは何々ではない、これこれではない」と言われていることに注目したいと思います。なぜか? そこに、コリントの教会の人々が乗り越えるべき課題があるからです。愛は「自慢しない」「高ぶらない」ということの背景には、「あなたがたは勝手に王様になってしまっている」というパウロが批判して已まないコリントの一部の人たちの高ぶりの問題がありました。愛は「ねたまない」というのは、「お互いの間にねたみや争いが絶えない」というコリント教会の具体的な事情から出てきた言葉でしょう。愛は「礼を失せず」が出てきた源は必ずしもはっきりしません。11章の主の晩餐を守るに際して、他の兄弟姉妹に対して礼節を守るべきだというパウロの発言がありますが、聖餐を守る際の教会の情況を背景にしているのかもしれません。また愛は「自分の利益を求めない」は、10章で問題となっている「偶像に供えられた肉」をめぐっての、「他人の利益を求める」という姿勢のことを指しているのでしょう。

 このように、ここで語られる愛とは、教会の中で強い人と弱い人とがそれぞれの判断をして反目しあったり、自分は自由だという主張の下に他者を平気で害しているというコリント教会の現実の中で、それを悔い改め、キリストにあってそれを乗り越えるという明確な目標へと向かうものなのです。

 今朝のテキストの最後の段落、8節から13節では、現在と終末との対比の中で、暫定的なものと永続するものとの違いが明らかになります。預言も異言も知識も、幼子の次元に属することであり、おぼろに映った鏡を見ている時代に属することに過ぎません。大人の次元、顔と顔を合わせてはっきり見る時代にまで続くのは信仰と希望と愛だけである。そして、信仰と希望も愛のもとに置かれる。神は愛だから、と。



 スウェーデンのイングマール・ベルイマンの映画に、コリントの信徒への手紙Ⅰのこの箇所の言葉をタイトルにした映画があります。『鏡の中にある如く』。完治する見込みのない心の病を病んでいる1人の女性の家族4人が、北欧のある孤島で短い夏を過ごす、そこでの出来事を綴った映画です。最後、その女性が未成年の弟と性的に通じ、そのことが引き金になって発作を起こし、急遽ヘリコプターで病院に運ばれるという暗く一条の救いの光も見えないような映画です。この映画は、ベルイマンの作品の中では「神の沈黙」をテーマにした作品群に属するもので、彼は神の沈黙を克服するかすかな道筋を、いずれも登場人物の最後の短い言葉に、メッセージとして託しています。『鏡の中にある如く』では、登場人物の一人、この女性の父親が最後に、「空虚を克服する愛が欲しい」と語ります。

 今は「鏡の中にある如く」あるとき。私たちは「一部しか」知り得ない。パウロに即して言えば、彼は御言葉を語ることに生涯をかけた人でしたが、しかしその伝道の業も「一部しか」語ることができません。それは部分的なものです。部分的なものは時間の限界の中にあって、終わりの時には消えて行くものです。けれどもそこに宿っている愛はいつまでも終わることがない。空虚を克服する愛はずっと存続するものなのです。

 パウロは今朝何のために愛という道を語っているのでしょうか。パウロが求めているのは、私たちが、深遠な愛の哲学を語ったり、愛の源はキリストの十字架だという答えをここで繰り返すことではないでしょう。コリントの教会の人々がそうであったように、教会を造る私たち一人一人が、個人主義的な願いを越えて、それぞれの賜物を差し出して、教会を愛が流れる血の通った体とするためではないでしょうか。そしてこの世の人々が、神が愛であることを、その体に見るようになるためではないでしょうか。完全なもの、いつまでも残る最も大いなるもの、最高の道を教会が実際に歩み出すために、やがて廃れる部分的なもの、「鏡の中にある」に過ぎない私たちの言葉が用いていただけるよう、謙遜の内に願おうではありませんか。

(2014年9月14日主日礼拝説教)

 
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