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 2014年8月10日 礼拝説教  【主に従う道】 笠原 義久

ヘブライ人への手紙12章3~13節

 ヘブライ人への手紙の註解書の一つは、この箇所に「なぜキリスト者の生活はこれほどまでにつらいのか」というキャッチフレーズを付けています。実際、ヘブライ人への手紙から浮かび上がってくるこの手紙を宛てられている教会の人々が、どういう人たちであったかは、この手紙に散りばめられている言葉の端々から窺い知ることができます。今日の箇所で言えば一二節にある「萎えた手と弱くなったひざ」、あるいは五章にある「聞くことに鈍くなっている耳」といった言葉もそうでしょうが、信仰生活を含め生活面における疲労現象があらゆる場面で表だって目立つようになってきた教会の人たち、ある人はこう言います。この世に仕えることに疲れ、礼拝に疲れ、教会学校における教会教育に疲れ、霊的な葛藤に疲れ、祈りの生活をどうにか続けようとする努力に疲れ、イエスその人にすら疲れている人たちがここにはいる、と。そして、ヘブライ人への手紙の著者が一番恐れていることは、彼らが憔悴し、やがて擦り切れてしまって、今はしっかりと掴んでいる教会に繋がっているロープの端を手から放り出してしまうことであった、と。ですからヘブライ人への手紙全体が、このような教会の人たちの疲労、生活の難儀さゆえの憔悴と狼狽に何とか応え、減退した信仰の希望を何とかして再活性化することを大きな課題としていた、と言うことができるでしょう。



 この課題を著者はどんな仕方で担おうとしているのでしょうか。著者はまず、教会の人たちが置かれている「生活のつらさ」すなわち「苦難」の意味について一つの答えを示します。それは、今日の私たちにはあまり馴染のない、意外とすら言えるものです。「神による鍛錬だ」と著者は言います。

 著者は、まず「苦難」ということの意味について一つの枠組みを提供します。すなわち、あらゆる苦難は体への痛みを伴い、また心に対する一つの挑戦でもある。だが人の魂をズタズタに引き裂く苦難というものもある。それは何の目的も持たない苦難である。人は苦難というものが無意味ではないことを知っていれば、すなわちその苦難には意味と目的があることが分かっていれば、極度の苦しみや痛みにも耐えることができる、と。

 手術をした後の回復期にある入院中の患者は、呼び鈴を鳴らして、痛みがなぜこんなにひどいのかと看護師に尋ねます。その時看護師が与えることのできるもっとも患者を安心させる決まり文句は、痛みは傷が治りつつあることの確かなしるしだ、といって慰め励ますことでしょう。著者はここでは一人の夜勤看護師です。痛みを負った彼の教会の人たちの枕元に来て、彼らが感じている痛みは破壊的な苦痛ではなく治りつつある苦痛なのだ、と言って彼らを安心させているのです。

 そこで、神によるこの鍛錬が善きことであるという理由を、著者は三つ挙げています。

 第一に、それは私たちが本当に神の子どもであることの確かなしるしである。唯一鍛錬を受けていない子どもとは、愛されず見捨てられている子どものことである、と。

 第二に、私たちは、自分たち家族の子どものしつけ方から、神による鍛錬のパターンをはっきり理解することができる。子どもの時、私たちは親の監督や鍛錬などを決して快く思ったことなどなかった。しかし今から振り返ってみて、それが私たちにとって最高の益になるものだったことを、はっきり理解することができる。

 そして第三に、神による鍛錬の最終結果は、必ず痛みに見合う価値というものを持っている。神による鍛錬の収穫とは、私たちが「神の神聖にあずかり」、「義という平和に満ちた実」を味わうことである、と。





 ここでの現実的な問いは、「なぜ立派な親は、神もそうですが、彼らは自分たちの子どもを鍛錬するのか」という問いです。著者の答えは次のとおりです。立派な親が子どもを鍛えるのは、子どもが大きくなって自分のようになってもらいたいから、価値観、強く心を傾けるもの、また生き方を共有してほしいからである。一人の親として、神も同じようなあり方をする。鍛錬を受けた結果、私たちは成長して神のようになり、神が愛するものを愛し、「神の似像」へと成熟し、「神の神聖にあずかる」ようになるだろう。もちろん神は宇宙全体を園芸栽培している。土を耕し、種を蒔き、水をやる。私たちは、わずかばかりの地所とちっぽけな鋤しか持っていない。しかし、神が広大な畑を耕作するのと同じ懇切なやり方で、自分たちの小さな一区画を耕作することができる。神による鍛錬は、私たちの過ちを正し、土の耕し方を私たちに教えてくれる、と著者は言います。

 同様に、立派な親がその子どもを鍛えるのは、子どもが意味と喜びのある生活をもてるよう成長してほしいからである。親は、十分に満足がいく、善きことで満たされた境遇に子どもが至ることを望んでいる。子どもに魅力的に見えるものが、長い目でみれば、良いものとは言えないかもしれないこと、逆に、子どもを引きつけないように見えるものが、子どもが本当に必要としているものかもしれないこと ― そのことを賢明な親は知っている。だから、約束ごとや強い要求、忠告の言葉や鍛えるための諸々の行為は、親の気まぐれではない。むしろ、若木が強くまっすぐ成長するのを助けるべく若木に付けられた添え木のようなものである、と。

 私たちは、ここで著者が実際的な牧会上の難題に取り組んでいることを忘れてはならないでしょう。一つの絶対的な原理として考えてみると、あらゆる人間の苦難というものは、実は私たちに良き教訓を教える神の御手によるものだという考え方は、断じて「そうです」と言うことのできない考え方です。例えば、死の収容所のガス室に、また小児癌に対して、それは意味ある教訓とか鍛錬とか言うなら、苦難の中にある人をこれ以上貶め冒涜する言葉はないでしょう。著者はここで、あらゆる苦難の理由を説明しようとしているのではありません。彼がしようと努めているのは、忠実であろう、信仰から離れないようにしようという教会の人たちの苦闘を理解することです。痛ましい経験について著者の言っていることは、あらゆる苦難に妥当するわけではありませんが、しかしこれに当てはまる苦難も確かにあります。実際、私たちは苦難の中にあった時の苦しみや悲しみを思い起こし、その苦難故に何かある良いもの、強いもの、本当のものが私たちの内に形造られてきたことを実感することもあるのです。そして、そこで私たちが為す最良の応答は、「悲しみには必ず教訓がある」ではなく、「そのように私を遇してくださった、自分の子どもとして鍛錬してくださった愛しい神をほめたたえよう」ということでしょう。





 さて、苦難や痛みという難問との格闘を経た今、著者はこれまでとは幾分異なった一つのイメージを提示します。それは、足の不自由な走者としてのキリスト者です。

 数多くの大都市で、何千人、時には一万人を越えるランナーが参加するマラソンが毎年開かれます。東京マラソンもそうです。集団の先頭は、世界クラスのランナーたちから形成されます。絞り込んだ体で、驚くべき速さでコースを駆け抜けます。しかし、後方の大集団にあっては、状況は全く違ってきます。そこには普通の市民ランナーたちがいます。おそらく2、3年いやそれ以上の経験があり、ベルト周りに少々余分な肉が付き、水をすすり呼吸を整えるためによく立ち止まるランナーたちです。松葉杖をついての、車椅子に乗っての競技者もいます。障碍にもかかわらず、彼らは勇猛果敢にコースに出ます。時には、後方にいるランナーの中で、暑さのために衰弱し、完全に消耗してふらふらになる者もでてきます。そうなった時、他の何人かのランナーは立ち止まって、その人を助けるでしょう。マラソンの最後尾にあっては、競争よりも思いやりの方が大切なのです。

 著者は、キリスト者の人生というレースは、マラソンの最前列というよりはむしろ後方でのレースのようなものであることを、彼の教会の人たちに知ってほしいのです。疲れ、意気消沈し、少々不格好なキリスト者たちは、にもかかわらず、キリストの力によって、「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにする」よう励まされています。神のレース、そこでのランナーは「足の不自由な人たち」、すなわち非常に多くの点で重荷を負わされている者たちです。彼らはトラックに出て行って、「自分の足でまっすぐな道を歩く」よう励まされるのです。

 教会の人の中に、著者にこう直言する人がいたのかもしれません。「私は弱すぎて走れません。足が悪いのです。誰か別の人を連れてきてください」。著者は言うでしょう。「自分のベッドを片付けて走りなさい、レースに加わりなさい」と。著者が言わんとしていることは、キリスト教信仰においては、ケガしたまま競技に参加するなら最後には必ず癒される。しかしそうしないで、サイドラインにいつまでも佇んでいるとケガはますます悪化する、ということではないでしょうか。

 不自由な足でレースを走るとは、実際のところどのように見えるでしょうか。集団の後方で走っている人は、足の片方が曲っているのに、どのようにして「自分の足でまっすぐな道を歩く」のでしょうか。キリスト者がレースを走るとは、本当のところ、自分の周りの他のランナーにやさしい注意を払うことを意味します。私たちは、能う限りの最善を尽くして、教会共同体の中のすべての人との平和をつくり出すよう努めるべきである。そして日々の生活の諸々の関係の中にあって、私たちは主イエスの中に見てきた慈しみと公正な仕方で、他者に向かうよう努めるべきでしょう。他者への深い思いやりと励ましが求められています。私たちは「だれ一人として神の恵みの外に置かれている者はいない」という、遍く(あまねく)注がれている神の眼差しに応える者たちとして今朝この礼拝へと招かれています。

 (2014年8月10日主日礼拝説教)

 
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