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 2014年7月13日 礼拝説教  【下降線、ねたみと愛】 林原泰樹

サムエル記上 18章6~11節、20章41~42節, コリントの信徒への手紙一 13章4節  


 イスラエルはヤハウェを信じる12部族が共同で聖所を持ち、神を拝する、所謂信仰共同体の連合体でした。また、一つの部族が他民族に脅かされると、士師と呼ばれる英雄のもと、一つとなって戦う軍事同盟でもありました。それはヤハウェの御心に適った形であり、ヤハウェ神を王とした連合国だったのです。ところが歴史と共に各部族の12部族連合に対するロイヤルティ(忠誠心)が薄れ、北の端の部族が他民族に脅かされても、南の端の部族は助けに行かなくなりました。12部族連合は弱体化したと、少なくとも人々の中にはそういう認識が生まれ始め、強力な軍隊を統率してくれる強い王が必要だという思いがイスラエルに次第に強くなっていきました。遂に長老たちは士師サムエルに進言しました。「今こそ他の全ての国々のように王を立ててください」。その求めは、サムエルの目には悪と映りましたが、サムエルは祈りました。「神様どうしましょうか」。するとそこで神から帰って来た答えは意外でした。「彼らは私が王として君臨することに反対しているのだ。でも、今は彼らの声に従うのがよい。ただし王が誕生するとどういうことになるか、彼らに警告しておけ」。つまり、人間の王に治められるとは「王の奴隷となる」ということであると、人々に言い聞かせるようにと神はサムエルに言われたのでした。サムエルは人々にその通り語りましたが、それでもなお人々は人間の王が欲しいと求めました。それで神はこの求めを受け入れ、イスラエルに王が立てられることとなりました。

 さて、その後、どうなったでしょうか。神は、勝手にしろ、という意味でイスラエルに王を立てることを容認されましたが、王の選任に関しては、神がイニシャティブを執られたのでした。初代の王に選ばれたのはサウルです。このような話の展開はいったいどういうことなのでしょうか? 私達はサウルが「油注がれた」ということに注目をしなければなりません。それは旧約時代にあっては、聖霊が注がれる機会でありました。神はサウルを世俗の王を立てるような意味で立てられたのではなく、聖霊によって働かされる神の道具として立てられたのです。故にイニシァティブを執られたのです。それは言ってみれば人々が間違った行き先の列車に乗り込もうとしていた時に、神は同伴され、列車の軌道修正のため、ご自身の器として働く運転手を送り込まれた、ということです。ですからこの時のサウルが担わされた務めは、純粋に神の器となるということでした。サウル王は、初期には神の霊の力に充たされ、無心になって義憤によって働きました。でも残念ながら彼は御心よりも自分の考えによって行動する人間でした。結局、彼は世俗の王のようになっていき、故に神から見放され、自らの力が地に落ちていくことを自覚するのでした。そうなると精神的に抑鬱状態になり、また特に、優秀な人が出て来ると嫉妬心を燃やして追い回して抹殺しようとしました。そうやって転落人生に陥っていったのでした。

 今日の箇所サムエル記上18章は、サウル王が下降線を辿り、そこにダビデが登場する場面です。まず17章にダビデが頭角をあらわすきっかけになった少年ダビデとゴリアトの一騎打ちの話が載っております。当時イスラエルにとって最大の敵ペリシテ人の兵士ゴリアトが一騎打ちを申し出てきたとき、少年ダビデが、羊の群れを飼う時に使っていた杖と石投げ紐を持って立ち向かい、倒したというエピソードが記されています。ダビデはそのような華々しいデビューをとげ、勇者として宮廷でサウロのお気に入りとなったということです。だが、そのお気に入りの期間はほんの僅かであったと、そう言わなければなりません。これから活躍しようとしているダビデと退けられていくサウルが宮廷で一緒になっても当然二人はうまくいくはずがありませんでした。

 サウルの下に来たダビデは成長に伴い軍の司令官としての力を発揮していきます。それはサウルがダビデを戦士の長に任命したからでありますが、しかしながらダビデを気に入ったためにサウルはそうしたのではありません。恐れのゆえにダビデを遠ざけ千人隊長に任命したのです。するとダビデは隊長としてどの戦いにも勝利を収めました。ダビデがペリシテとの戦いから凱旋した時、女性たちはこう歌ったとあります。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」。

 サウルは王として、家来がこのような称賛を受けることを素直に喜んであげればよかったのでしょうけれども、悔しがって、「ダビデには万、私には千、後は王位を与えるだけか」、と言い、この日以来、ダビデを嫉妬するようになったのです。そして、ただでさえもサウルはダビデに敵意を持っていたのに、さらにサウルの娘のひとりミカルがダビデを愛するようになり、ダビデとの結婚を望みました。それを聞いたサウルは結婚のための非常に大きな条件をつけましたが、それをダビデが何日もたたないうちにこなしました。それでサウルは娘ミカルをダビデに妻として与えなければならなくなりました。故にサウルは娘の心までもダビデに取られ、益々ダビデを憎んでいくのでした。遂に彼は、ダビデを自分の家来の手によって殺す決心をします。ヨナタンはサウルの長男ですけれども、父サウルからダビデを殺すようにとの命令を聞き、深く心を痛めました。ヨナタンは一度は父親の説得に成功し、父の気持ちを変えさせますが、サウルはその後また、ダビデを殺そうとし始めました。ダビデは自分の命を狙うサウルの不当さをヨナタンに訴えます。するとヨナタンは言いました。「父が本当にあなたの命を狙っているのかどうか確かめてみます」。そこでダビデはサウルの真意を確かめる方法として、一つの計画をヨナタンに告げました。「新月の祭りの日に食事をするときに、私が自分の家に帰ったと伝えてください。それを聞いてサウルが示す態度によって、サウルの私に対する気持ちが分かるでしょう」と。

 新月祭の王の食卓に着けるのは4人、サウル王と王子ヨナタン、王の従兄弟で軍の長のアブネル、そしてダビデでした。王は2日目にダビデの不在について尋ねました。ヨナタンは「ダビデは自分の家に帰った」と父サウルに告げました。するとサウルは激怒し、「直ぐに人をやってダビデを捕えて来させよ。彼は死なねばならない」と言いました。ヨナタンは自分の父が本当にダビデを殺そうとしていることを知り、ダビデにこのことを知らせるために、ダビデが隠れている野に行き、「逃げろ」という合図を出しました。隠れていたダビデは出てきて口づけし、共に激しく泣きました。ヨナタンはダビデに「安らかに行ってくれ。私とあなたの間に、また私の子孫とあなたの子孫の間に、主がとこしえにおられます」と語りました。この祈りとも言える言葉をもって、ヨナタンの言葉は締めくくられ、ダビデは宮廷から逃亡することになります。以上のことが今日の箇所に書かれていることです。

 今日の箇所で示される第一のことは、妬みの罪の恐ろしさについてです。人生には上り坂の時もあるし、下降線を辿っていると思われる時もあります。いずれの時も私達にとって注意を要しますが、特に下降線を辿っている時、サウルと同様、成功している人を見ると妬みを抱かないでいられるでしょうか。妬みに支配されていく、そんな時に唯一必要なことは、その人の人生に神の御言葉が深く介入し、御言葉によって心が神に正しく向けられ、コンプレックスや妬みから解放される力が与えられることです。これは現代を生きる私達にとっても、妬みから解放される為の道として覚えておかなければなりません。

 そして今日の箇所から教えられる第二の点は、妬みの罪を遥かに超えて行くことを可能にする愛についてです。ヨナタンはサウル王の息子、王子ですからサウルと共に下降線を辿っている側の人間でした。サウル王が没落しなければ王になる人間であり後継者となる資質を充分に備えていました。でもダビデの台頭で没落に向かっていました。そんな時に何故彼はダビデに対して父のように妬みに捉われずにおれたのでしょうか。そこには妬みを遥かに超えていくことができる愛があったのです。このヨナタンの愛についてはこうありました。「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(18章1節)。彼のような妬みを超えて行くことのできる愛をどうか主のお導きによって私達も与えられるように、そう祈りたいと思います。

 そして今日最後に付け加えてお話ししたいことがありますが、それはどんな場合でも、主なる神が私達の人間関係の間に入って頂けるように祈り求めるということについてです。ダビデとヨナタンの場合、今も申しましたように、友情が深かった。しかし、ヨナタンは「二人の間には主がおられる」と、あえて言っているのです。これはどういうことか。あれほどダビデへの深い愛を持っていたヨナタンでも、ひょっとしたら、この時自らの愛だけでは自らの思いを守るためには不十分であると感じたのかもしれません。また相手のダビデが愛を自分に対していつまでも持ち続けるかどうかについても不安に感じたのかも知れません。それ故に、「主が間におられます」と言ったのではないでしょうか。どんな人も、人間の愛だけでは、何かの理由でぎくしゃくしてしまうことがあります。人間の愛はどんなに強くても、それだけでは不十分であるということを、私達も皆、経験済みなのではないでしょうか。ですが、この世の一切の事情も、また二人の身分や立場の違い、その他いろいろな食い違いなどがあっても、それでもなお、それを乗り越える道があります。それが「主が間に入ってくださる」という道であります。主が間におられるならば、その関係は守られるのです。そのことを今日私たちは最後に、そして最も大事なこととして、覚えさせていただきたいと思います。

(2014年7月13日礼拝説教)


 
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