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 2014622日主日礼拝説教  【神の子とする霊】  笠原 義久

ローマの信徒への手紙 8章12~17節

 ローマの信徒への手紙8章は、使徒パウロのペンテコステ・テキストです。これは、イエス・キリストにあって、現在と将来にわたって、私たちをいのちとする神の聖霊へのほめたたえの歌、賛歌です。
 しかし聖霊とはいったい何か、何かというよりどのような方か。私たちが聖晩餐の中で告白している「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」の「聖霊」の項は、次のように謳っています。
「また聖霊を信じます。聖霊は主、いのちの与え主であり、父から出て、父と子と共に礼拝され、共に栄光を帰せられます。そして預言者によって語られました」。
 ここで告白されていること、その第一は「聖霊の信仰」です。聖霊を信じるとは、聖霊である神が、教会に常に臨み働いていることを確信することです。父と子が働いているときにはいつも、聖霊もまたそこにいる。被造物全体とその上に注がれる神の祝福はすべて、御子をとおし、聖霊によって、父から来る。そして世界がその本来あるべき姿、すなわち賛美の献げものとなって父が栄光を受けるのは、聖霊によってであり、御子をとおしてである、そのことを信じるのが聖霊の信仰です。
 「聖霊」は、聖書では、神の息そのものとして、神の活けるいのちを創造する力・真理・愛として描かれています。聖霊は、世界に宿ると想像されている多くの霊たちの中の一つではありません。聖霊は、あらゆる形における物質的・精神的な邪悪に対立します。聖霊をとおして、この被造世界は神の恵みによって聖別されているのです。
 第二は、聖霊が「主」と告白されていることです。そのことによって、教会は聖霊が神であることを受け入れ、全被造物と歴史に対する聖霊の支配を承認します。この聖霊の「支配」は、残忍な勢力や抑圧的な権力による、あるいは専制的な操作による支配ではありません。そうではなく、すべての被造物を解放し、「神の子たちの栄光に輝く自由」を与える支配です。人が悪に抵抗し、これに打ち勝つことを可能にしてくれる力です。
 第三は、聖霊は「いのちの与え主」だということです。聖霊は、キリストにある新しい生命を与えてくれます。人間は新しい創造の初穂として新たに生まれます。そして他の被造物と共に、新しい天と新しい地に与ることを待ち望んで呻いています。聖霊はバプテスマにおいて父の新しい子らを生みだします。バプテスマにおける聖霊は、キリストの活けるからだである教会、霊によって活気づけられた教会の源なのです。
 さらに聖霊は神の民である教会の信仰を起こしこれを支えます。そして溢れるばかりの賜物を注ぎだしてくれます。これらの賜物はすべて全体の益のために、教会の肢々一人ひとりに与えられていますが、それが正しく用いられるとき、一つのからだである教会の一致へと強く働きます。
 第四は、聖霊が預言者によって語られた、ということです。初代教会は、イエスが旧約聖書の預言の成就であり、その上に聖霊が明白なあり方で留まる「油注がれた預言者」であると信じていました。そして復活の主によって父から遣わされた霊の働きをとおして預言の賜物は教会に手渡されたのです。



 このローマの信徒への手紙八章、私たちがここで聴くよう求められている一つの主題・一つの事実は、私たちの上に、教会の上に、その聖霊が確かに与えられているのだ、という真実です。それは私たちのからだをもって、文字どおり全身を耳のようにして聴き取らなければならない ―そういう真実です。
 しかし、「聖霊が与えられている」この事実を、私たちは地上にある教会のどこに、またこの私たちの教会のどこに見出し、認めることができるのでしょうか。人間的に見た教会の実情は、概して言うなら「聖霊の不在」ではないでしょうか。地上にある教会が、どんなに破れ多くあるか、どんなに真実を欠き、どんなに惨めな姿かたちであるか ― そのことは、私たちが、骨身に染みて分っているところです。私たちは皆確かに弱いものである。しかしその弱さが、神の力が現れる場となるというより、さらなる弱さと混乱さえも引き起こしてしまう ― それが人間的にみた教会の偽らざる実情ではないでしょうか。いったい教会をいのちあるものとなし、信仰者の賜物を活かし、神をいのちと力としてもたらすはずの聖霊はどうなってしまったのか ― このような問いが、声になるかならないかは別にして、今日の教会の中に打ち消し難くあります。もちろん、日毎の生活の中で、日毎の務めの中で、私自身、聖霊の働きとしか言いようのない出来事に出会うことが全くないわけではありません。しかし概して言えば、「聖霊の不在」の思いの中で、聖霊を求める祈りを、自らのこと、教会のこととして、篤くせざるを得ない ― それが私たちの実情ではないでしょうか。
 そのような中で、私たちそれぞれが聴くよう促され求められていることは、「聖霊は与えられている」この事実への承認であり確かな信頼ではないでしょうか。聖霊は、キリストの霊として、キリストそのお方として、私たちの「内に住んで」おられること、それはまたキリストを復活させた方の霊として、復活の力・復活の保証として私たちに与えられているのだ、ということです。
 そして、その事実への承認と信頼の言い表しから、私たちにとってのすべてが始まると言えるのではないでしょうか。「『聖霊不在』の思い、聖霊が与えられているという思いからははるかに遠い私たちではあるけれども、しかし」ということが、そこから起こってくるのではないでしょうか。私たちは曲がりなりにも、「イエスは主である」と言い得ています。それは、パウロが言うように、聖霊によらなければ誰も言うことのできないことです。言葉も思いも足りないものではあるけれども、私たちは主イエスによる神を「アッバ、父よ」と呼び得ている。
 パウロは言います。「神の霊があなたがたの内に宿っている」「キリストの霊があなたがたの内におられる」「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」。キリスト・イエスによる神の霊・聖霊は確かに与えられている。このいのちの事実に感謝と喜びの声を高く挙げようではないか。その事実を語り合い、この事実によって互いに励まし合おうではないか。聖書は私たちにそう呼びかけています。



 与えられている聖霊ということで、私たちが聞き逃してならないもう一つのことは、「霊の支配」ということです。聖霊は神の霊・キリストの霊として私たちそれぞれの内に宿ると同時に、キリストの霊としてすべてを支配している、ということです。
 霊が私たちの内に宿るということ、霊が私たちの内に住む ― これはきわめて個別的ないのちのことです。一人ひとりをその者にふさわしく生かし、それぞれ個別の賜物を与えてこれを活かし用い、潔め、それぞれにふさわしくキリストを言い表させ、キリストを信じこれに従う道へと出で立たせてくれる。内に宿る霊とは、このように神による個を個とするいのちと力であると言ってよいでしょう。
 しかしもう一方で、霊によるキリストの支配ということがあります。人間にとどまらず被造物すべてに及ぶ支配、この支配というのは、先ほどニカイア信条のところでお話ししたように、抑圧的・専制的な支配ということではありません。単なる統括的支配、ひっくるめて機械的にまるごと支配するといったことではなくて、被造物個々の上に、むしろ解放として、自由として働く支配ということでしょう。
 ではこの支配する霊と、内に宿る霊とはどのような関係にあるのでしょうか。教会にあっては、教会自体にいのちを与えると共に、個々を繋いで一つとする ― そういう関係でしょう。また教会の外にあっても、キリストは霊において支配し救いの働きをしておられる。私たちも内に宿る霊によってそのキリストの働きに仕え与り関わる ― そういう関係にあると言えるでしょう。
 今朝の聖書から聴くべきもう一つのことは、与えられている聖霊が、やがて私たちが新しいからだに復活させていただくその力であり、その保証である、ということです。本当に心を打つ言葉です。なぜなら「からだの甦り、永遠のいのちを信ず」と告白しつつ、そのことが私たちの信仰における希望の本質的なことであるとは、ほとんど思っていない ― 少なくとも自分のこととして、そう言わざるをえない。「将来わたしたちに現されるはずの栄光」あるいは「神の子とされること、つまり、からだの贖われること」、すなわち新しいからだに復活することも、自分は本当に「待ち望んでいるのか」、と反省する思いの強いのが実情です。
 しかし聖書に聴くとき、私たちに与えられている聖霊が、「霊の初穂」であり「霊の保証」であることを知ります。そして聖霊が満ち溢れるとき、「あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体を新しい体として生かしてくださる」とき、「神の子どもたちの栄光に輝く自由に与れる」とき、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」のとき、「キリストの日」までは、私たちはそのときに向けてなお「呻きながら」在る他ない、ということです。
 確かにそうでしょう。私たちは幻想を抱いてはならないし、また「呻くこと」を避けようと小細工をしてもそれは愚かしいことです。けれども「初穂」であっても私たちは霊を与えられ、霊が「内に宿って」くださっている。そして「霊の支配下」にいる。だから「イエスは主である」と告白し続けることができるし、「苦難を誇る」ことができるし、「宣教の愚かさ」に曲がりなりにいのちを賭けることができるし、自らの呻き、被造物の呻きのなかに希望を聴き取ることもできるのではないでしょうか。
 聖霊によって「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、与えられている聖霊を喜び感謝しつつ、自らのこと、教会のこと、また3・11以後の私たちのこの国のこと、世界のことを見直していきたいと願うものです。

 

(2014年6月22日礼拝説教)
 
 
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