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 2014年6月1日 教会創立90周年記念礼拝  【キリストは教会の基】 笠原 義久

コリントの信徒への手紙 13章10~17節

 1924年6月1日、90年前のちょうどこの日、信濃町教会の創立者である高倉徳太郎牧師は、現在の山手線・新大久保駅に近い自宅で、後に「家の教会」と呼ばれるようになったエクレシアを起こしました。その前日の高倉の日記には、こう記されています。
 「明日はいよいよエクレジアを始めんとす ―― この上に主の導きをたえず祈り求めよ。主の栄がこれによりて現れんことを、祈るべきなり」。
 私たちの教会が、今日、教会として存在することが許されているのは、この祈りにあるように、ただひたすら歴史の主キリストの限りない憐れみと導きと支えの御手が寄せられたからに他なりません。私たちが年ごとに教会の創立を記念する ―― それは、私たちの教会が、その土台である方にふさわしい存在として、本当に生きて働いているかどうかという問いを、私たちが受けているということでもあります。



 使徒パウロは「イエス・キリストは教会の土台であり、また私たちの、さらにこの世の、被造物一切の土台である」と言います。私たちがまずはじめに聴き取らなければならないことは「一致」ということです。  私たち人間は、皆個々別々で、一人ひとり顔つきが違うように、各々生まれも育ちも、性格も能力も、物の考え方も感じ方も違います。私たち一人ひとりは個別なものとして造られています。ここで言う個別とは、「共に在るべき」個別ということですが、そのようなものとして造られているということは、基本的には感謝すべきことです。しかし同時にこのことは、私たちの日常経験からすれば、厄介で面倒なことでもあります。重荷であり、また苦痛でさえあります。お互いが個別で違うことからくる様々なこと、人間関係の難しさ、気を使ったり調整したり、相互関係に破れを経験することもしばしばです。人間はそういうジレンマの中に置かれている存在だと言ってよいでしょう。もちろん信仰者と言えどもその例外ではありません。教会の中で、一つの事に対し、全く逆の見方や考え方が生じ、度々その違いは、「自らに真理あり」と真理を主張する争いになり、その結果、党派や分派が生じます。このような党派争いや分派争いは、長い教会の歴史と共にあったと言ってよいのではないでしょうか。
 パウロが憂慮しているコリント教会が抱えていた困難もそのような性質のものだったと思われます。
 パウロは、分争の中にあるコリント教会の現状に向けて、キリストがあなたがたの土台であるのだから、と語りかけます。あなたがたは確かに神からの賜物として、各々個別な者たちであり違いの中に置かれている。しかし、あなたがたに既に与えられている事実をしっかり見なさい、とパウロは言います。あなたがたには既に根底的な一致、共通の真理が与えられているではないか。それこそが主イエス・キリストである。キリストという土台がすでに据えられているではないか。この土台であるイエス・キリストを信じ、告白し、相共に追い求めるところに一致の道、真理の道があり、そこにあなたがたの活路があり、教会の活路がある。だから、あなたがたがまず目を向けなければならないのは、互いの違いや相手の人間性ではなくて、共同の土台であるイエス・キリストである、そのように言っています。そしてそこに立ちつつ、しかし同時に、一致の中で互いの違いによる豊かさをも見なくてはならないと勧めています。



 さて「キリストが土台である」ということから私たちが聴かなくてはならない第二のことは、キリストが私たちの生命(いのち)であり、私たちの存在根拠であるということです。
 「わたしは熟練した建築家のように土台を据えました」とパウロは書いていますが、これは、自分が土台を作りそれを据えたという意味ではなく、すでにある土台を持ち運んで据えたということです。それは、神がすでに与えてくださった出来事として、イエス・キリストの事実を宣べ伝えたのであって、自分の作り話を伝えたのではないということです。
 私たちはこの世の中で自らの土台を自分で作りあげています。自分の属する組織や利害関係、身の回りのものなどが、たちまちキリストに取って代って土台となるということは大いにありうることです。しかし、私たちがこの礼拝を終え教会堂を出ても、私たちの土台がイエス・キリストであることに変わりはありません。私たち一人ひとりは教会の肢として日毎に生活し、いわば教会のフロント(前衛)としてこの世に遣わされている者です。その意味では私たち一人ひとりが教会なのです。第一、私たちが出て行くべき、私たちが遣わされるこの世も、根底のところではキリストという土台の上に成り立っているのであり、私たちはそのことを信じ知っている者たちです。ですから、たといこの世のいかなる困難な問題に出会おうとも、その中でキリスト者として行き悩もうとも、私たちの見るべきは、そういう難題の背後に土台として立っておられるイエス・キリストなのです。私たちはキリストを土台として、教会とこの世に教会の肢として立つ者たちだと言うことができるのです。
 この土台であるキリストによって、あなたがたは、死の淵、虚無の淵へとあなたがたを追いやる罪の力から、またあなたがたを誘ってついには滅びへと導くサタンの力から贖い取られた者である。自らのエゴから贖い出された者であり、当面する種々の苦しみ・悩み・悲しみ・思い煩いからも贖い取られた者である。あなたがたを攻撃する一切の暗い力、誘う力、神に挑戦する一切の力からあなたがたは贖い取られ、生命(いのち)と望みの中に置かれている新しい存在である、とパウロは語ります。このことを私たちのために出来事として起こしてくださったキリストが、私たちの存在の根拠としておられる、と言うのです。



 私たちが第三に聴きとるべきことは、その土台・基であるキリストの上に建物を建てなさい、という要請です。キリストという土台の上に、土台にふさわしく、土台が見えるように建てなさいという要請です。私たちは「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」とパウロが言っていることに聴かなければなりません。土台はあるが、その上に建てても建てなくともよい、それは任意であるということではありません。キリストが土台である以上、私たちにはどうしてもその上に家を建てずにはいられないキリストの福音の迫りというものがあります。それがどんなに小さく、また見た目の悪いいびつな家であろうと、どんなに不完全・不十分な建物であろうと、建てずにはいられないというキリストからの迫りを私たちは受けています。
 キリストを土台にして教会を建てると言うとき、まず私たちに課題として与えられるのは、キリストのからだである教会をこの時代の中に、この世の中に建てるということです。それはどういうことか。端的には、御言を聴くということと、友を信頼するということ、この二つに集約できると思います。ヘブライ人への手紙には「神の言は生きていて、力がある」と記されています。創立者の高倉牧師は新しい教会のことを「エクレシア」と言っていますが、そのエクレシアとは、「それに参加するすべての者が、御言葉の威力に触れ、その権威にひれ伏すことによって、そこに出来事として起こる礼拝共同体」のことです。御言葉を聴いた者は、その威力に触れ、それによって生かされ、突き動かされて、立たざるを得なくなります。そのような意味で御言葉を聴くことは教会を建てることなのです。そして私たちはキリストにある者として、キリストが友のためにも死んでくださったその友を信頼し、その信頼によって私たちが鎖の輪のように繋がり合うということ、これまた教会を建てるということになります。私たちには教会を建てるというわざを外して、この世を建てようということは不可能です。キリストのからだを、この時代、この地上に建てるというわざに参与することがすべての中心ではないでしょうか。それがこの世を建てることであり、私たち自身を建てるということです。私たちは教会を建てることを通して、この世を建てる働きへと遣わされて行くのです。
 
 先週の教会総会で、私たちの教会は「宣教への新たな召し」を覚え、《宣教ビジョン2014》をもって新たな一歩を踏み出しました。そこにはこう明記されています。
 「教会は、神による和解と癒しが、救い主イエス・キリストをとおしてすでに実現されていることを知らされています。私たちはこの和解と癒しを、この世の隅々にまで拡げることへと呼び出されています」。このことが私たちがこの世を建て、この世に遣わされる場合の基本だと思います。
 さらに一言付け加えるなら、わたくしたち一人ひとりが自分に与えられている生命(いのち)と境遇を感謝をもって受け入れ、これらを神からの贈り物として大切にいとおしむことなしに、人の生命(いのち)や境遇をいとおしむことはできないということです。「キリストが私たちの土台・基である」という信仰告白は、私たちが教会を建て、神からの賜物を大切にし、いとおしむ、そういう生き方へと私たちを召しているという告白でもあります。
 キリスト者はいつでも、また教会もいつでも、求められれば、今の時代状況に対して神の御旨を語る用意がなければなりません。イエス・キリストがあなたがたの土台であるというこの御言葉は、まさにそういう言葉なのです。私たちはこの御言葉を、それぞれの状況の中に取り次ぐことができる者にならなければなりません。
 パウロは「わたしの愛する兄弟姉妹たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と書いています。土台を与えられているということは、このように生命(いのち)と愛と希望の事柄なのです。

 

(2014年6月1日礼拝説教)
 
 
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