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 2014年3月2日 礼拝説教  【ヨナの悔い改めと祈り】 林原 泰樹

ヨナ書2章 1~11節 /ルカによる福音書23章 41~43節


 ヨナは、異邦人の町ニネベに行き宣教するようにと、神に命ぜられました。しかしながらその職務は、ヨナにとっては気が進まないものでした。彼は愛国者でした。愛国者でも様々な人がいると思いますが、彼の場合は同胞への愛しかありませんでした。異邦人の町とは、彼にとっては敵地でした。そんなところに行って、どうして自分が、悔い改めの実、救いの実を結ばせなければならないのかと、そう思ったのです。神はニネベの人々の事も愛しておられ、彼らが罪のゆえに滅びるのを見るに忍びなかったので、ヨナを遣わそうとされたのでしたが、その神の大きな愛に、ヨナの小さい狭い心は合わせることが出来なかったのです。それでヨナは、御顔を避けて、丁度港に来ていたニネベと反対方向へ行く船に乗りました。ところが嵐になりました。神が起こされた嵐でした。ヨナは船底で寝ていましたが、そこに船長がやって来て彼を起こしました。また、誰が原因でこの嵐が起こっているのか調べると言われ、籤も引かされました。そして籤にヨナが当たることによって、嵐の原因がヨナであることが判明しました。同船者達はヨナに尋ねました。「私達はあなたを一体どうしたらよいでしょうか」。ヨナは「私を海に投げてくれ」と言い、海に投げ込まれることになリました。しかしながら、彼は海に投げ込まれても死ぬことにはならず、神の用意された魚に呑まれて助けられるのですが、その話に行く前に、ヨナは海に投げ込まれた直後に魚に呑まれたわけではありませんので、その魚に呑まれるまでの間のところを見ておきたいと思います。

2章4節以下に、ヨナが海に投げ込まれた後、水の中で何をしていたかをヨナが回想して語っている箇所があります。そこにはこうあります。

「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み、また波が私の上を越えて行く。私は思った。あなたの御前から追放されたのだと。《中略》大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」。

海に投げ込まれた時、ヨナは深く水の中へと沈んで行き、海底で息絶えようとした時に、神の御名を唱えたのです。すると祈りが聴かれ、気がつくと、そこは魚の腹の中、そこには光はなかったが空気はあり、助かったということです。彼を呑み込んだ巨大な魚とはどういう魚か、我々には分りません。でもこれはこの時の為に神さまが特別に用意された魚だったと言えましょう。その後、魚はヨナを陸地に吐き出したということです。以上の事が今日の箇所ヨナ書2章に書かれていることです。

そういうわけで、ここには海底に沈んで行った時のヨナの心境が記されております。もう一度確認しますが、彼が海の底に沈んで行く時、「私は神に追放されたのだと思った」と言っています。彼は確かに「私はこんなに罪深いのだから死に値する存在だ」と感じ、それ故に少しの間、助かろうと浮び上がる努力をしていないかのように見えます。でもいよいよ苦しくなった時にどん底で彼は主に祈った。私はあなたに追放されても当然な者です。でも憐れんで下さい、救ってください、ときっとそういう思いを込めて、祈ったのだと思います。それは丁度ゴルゴダの丘でイエスと共に十字架に架けられたあの二人の犯罪人の内の一人がした祈りと同じであったと言えましょう。

ここで今日の新約の方の箇所ルカ福音書23章41から43節も見てみたいと思います。イエスが十字架に架けられた時、イエスと並んで二人の極悪犯罪人が十字架に架けられましたが、一方の犯罪人はイエスを罵ったのに対し、もう一人の犯罪人はこう言ったのでした。「私達は十字架にかけられて当然のことをした。自分に救われる資格はない。でも〈イエスを指して〉このお方は何も罪を犯していない」。そう言った上で、彼はイエスに祈りました。「主よ、憐れんで下さい。あなたが天に行った時にわたしを思い出してください」。その言葉をイエスは受け入れて、「あなたは今日わたしと共にパラダイスに居るであろう」と言われたのでした。

その時の犯罪人の祈りのように、ヨナは水の中に深く沈んだ時に、自分の罪を深く自覚し、「私が御前から追放されるのは当然なのだ」という思いになり、打ち砕かれた祈りをし、その祈りが神に聞き届けられたのであります。

それはまた、放蕩息子が本心に立ち帰って父の家に返る時に語った言葉とも、相通ずるところがあるのではないかと思います。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言いました、あの言葉です。自分は救われる権利など主張できるような義しい者ではない。でもそれでも、もしあなたに憐れみがあるならこんな者をも憐れんで下さいと、そのような打ち砕かれた状態を主は見てくださり、救ってくださるのであります。ですから私達は、自分は救われる権利など主張できるような義しい者ではない、という心に立ち帰ることです。そうした時に神の御赦しの御声が響くのです。そしてまたその御赦しの御言葉だけではなく、その時には神は、その者の為に魚をもまた派遣してくださるのです。神は、ヨナの救いの為に派遣したその同じ魚を、今日も打ち砕かれた心をもって悔い改める者の所に派遣してくださるのです。そして気がつくと魚によって神のもとに立ち帰らせられて、新天地なる陸に吐き出され、そこに立たされている自分を、発見するのであります。

私達の信仰生活は、繰り返しそのような恵みによって立ち帰らされることが必要です。ルターはイエス・キリストが悔い改めよと言われた時、主は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを望まれたのだ、ということを言いました。正にそうです。そのように打ち砕かれた心をもって繰り返し神に立ち帰る歩みをする者が、正しく神と共に歩んでいる者なのであります。

お互い自分自身のことを点検させて頂きたいと思います。私達は自分が今何処に居るのか、深く顧みる必要があります。求道中の方は、これまでの人生の歩みについて、神とどのような関係であったかを思い返して頂きたいと思います。またキリスト者の方も、今何処に居るか、今神と共に歩んでいるかどうか顧みたいと思います。もし今私達が活ける主なる神と共に歩んでいると言えない、神の御顔を避け、反対方向行きの船に乗って船底で寝ている、そう気付いたならば、それは方向転換の時、悔い改めの時です。戻る道は一つしかありません。ヨナのように海に飛び込むことで船から降りることであります。それは具体的に言うと、握り締めている自分を手放し、神の前に献げるということです。ヨナは「私を海に投げてくれ」と船員たちに言いましたが、それは彼が自ら握り締めていた自分というものを手から離し、丸ごと自分を主に投げ出した瞬間でありました。私達もそれをしなければなりません。

そうは言っても、海に飛び込むということは、本能的に恐れを覚えることです。「私を海に投げてくれ」と、私達はなかなか言えません。自分が死のうと思っても死ねないのが私達です。しかしながら唯一それをする方法があります。洗礼です。私達は確かに自分が捨てられない、自分を手放せない、海に飛び込めない。でもそんな私達にも出来る唯一の方法が洗礼という方法です。洗礼を受ければ、反対方向に行く船から海に飛び込み、更に救いの魚に呑まれ、魚から陸地に吐き出され、新しい岸辺に立つことが赦されるのです。まだ洗礼を受けておられない方は、ヨナのように、この朝海に飛び込むことで、神と反対行きの船から降りることが出来ますようにと祈ります。「私を海に投げてくれ」とは言えなくても、自分は手放せなくても、もし洗礼を受けるなら、それだけでヨナが陸に吐き出されて復活した新天地の所まで行かれる。誰でも洗礼を受けるなら新しく造られた者とされ、新しい歩みが赦されるのであります。

次回学ぼうと思っております3章の所も、少し見てみたいと思います。魚から吐き出されて新天地に立たされたヨナは、何と以前と全く同じ御言葉をもう一度受けているのですが、その他は何も神に言われていないのです。彼の過去の罪については触れられていません。神はヨナの過去を帳消しにされているのです。これはヨナにとって正に過去からの救いだったと言えましょう。神は人を過去の罪から全く自由にされ、「あなたは新しい者だ」と、新しい地点に立たせてくださるのです。そのような機会となる洗礼に、全ての人が招かれているということを、今朝皆さんに知って頂きたいと思います。

そして、もう既にキリスト者である方の場合はどうしたらいいか。キリスト者であるのに、もし自分が今、神さまと反対方向の船に乗っていたと気付いたならどうするか。洗礼は二度受けることは出来ません。しかしそういう者でも何度も恵みの座に近づき、打ち砕かれ、真の悔い改めをする機会が与えられています。御赦しの御声を受け、魚が派遣され、そしてその魚によって、かつて恵みの洗礼を受けたあの時点に返され、新しい神との歩みがやり直せる機会、それが聖晩餐です。聖晩餐の度に、十字架のキリストを見上げて真の悔い改めの祈りをする、そのような機会が与えられているのです。私達の為に死んでくださったキリストの血と肉を食し、それによってヨナのように自分が救いの魚によって復活の恵みに与らせていただいたのだということを再び思い起こし感謝する機会が、聖晩餐の中で与えられているのです。私達は反対方向行きの船から海に飛び込み、魚に呑まれ、魚から陸に吐き出され、新しい岸辺に今立たされているということを覚えさせていただく、それが聖餐の恵みです。本日もこの後私達はその聖餐に招かれております。その中で私達は本当に心からの悔い改めをし、その恵みに与っていることを覚えさせて頂きたいと思います。

 (2014年3月2日礼拝説教)

 
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