マルコによる福音書 4章10~12、26~34節
この「成長する種のたとえ」は「忍耐強い農夫のたとえ」として読まれるべきである、とよく言われてきました。すなわち、種を蒔いてから夜と昼、寝たり起きたりがきまったように交替する中に生活を続けている農夫の何もしないでいることが印象的に語られている。そのわけも知らず、またそのために何もしないのに、種は茎から穂に、穂からよく熟した穀物に成長する。そしてある日突然、忍耐強い期待が報いられる時が到来する。穀物は熟し、刈り入れ人は出て行って、歓声がわき起こる、「刈入れの時が来た」と。神の国の事情もそのようである。農夫にとって長い待望の後に刈り入れが来るのと同じ確かさで、神はご自身の時が来て、終末の時が満ちると、最後の審判と神の国をもたらされる。人間はそのために何一つすることができないで、農夫と同じように、耐え忍んで待つだけである。あなたがた、刈り入れの時を忍耐強く待つこの農夫のことをいつも想起せよ! 神の時は阻止されないで必ず到来する。神は決定的に着手された、種は播かれたのだ。
実際、このたとえは、イエスの弟子たちの中にもその分子がいたとされる熱心党に対する批判として読むことができるのではないか、という推測もされてきました。ローマ帝国の圧政と抑圧という軛を暴力でもって脱することによって、メシアの救済を強引にもたらそうとする熱心党の努力とは根本的に対立する道をイエスは示された。神は何一つ空しく放置されることはない。神の始めは成就を保証する。その時まで忍耐強く待つべきであり、全き信頼をもって一切を神に委ねるべきである
―― なぜなら、11節に記されているように、神の国の秘密を知ることを許された者たちは、種を蒔くというごく日常的な目立たない、いわば隠された始まりの中に、来たるべき神の国の栄光を見ているからである、と。
確かに、このたとえの中心的なメッセージは今申し上げたことだ、と言い切ってよいのかもしれません。けれどもこのたとえには、掘り返せばもっと出てくる宝物が隠されているように思われてなりません。今朝は、たとえ話そのものに即して、新たな発掘作業を少していねいにしてみたいのです。
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一人の農夫は、種を蒔くと、その後自分の農作物から身を引きます。「農夫」と言いましたが、この人は、四章始めの「種を蒔く人のたとえ」とは異なり、単に地に種を蒔く「一人の人」と言われているだけです。それだけでなく「蒔いた種がどのように成長するかを知らずに、夜昼寝起きする」というこの人の行動は、イスラエルの知恵の伝承が指示しているところに違反している、と言うこともできます。箴言や詩編にはこうあります。
「夏のうちに集めるのは成功をもたらす子、刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子」「怠け者は冬になっても耕さず、刈り入れ時に求めるが何もない」。
種蒔く喜びと収穫の喜びとの相互互恵的な関係は霊的なレベルでも語られています。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」。
さらにイザヤ書には、蒔くことと収穫との間にある数多くのステップを具体的に例示している箇所さえあります。
これらに反して、このたとえの人は、これらの作業に全く従事していません。それに加え「種が芽を出して成長するけれど、どうしてそうなるか知らない」とあります。「眠りと無知」を文字通りとるなら、決して「忍耐強い」のではありません。農作業をしなければ畑には雑草が繁茂してしまいます。豊かな実りと収穫は期待できません。ですから、この人は、空しく収穫を求めるだけの怠け者だと言われても致し方ありません
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次の28節では、この人の無知と、土が「ひとりでに」、この両者のコントラストが強調されます。実はこの人「彼」とはギリシア語で「アウトス」と言います。ここで「ひとりでに」と訳されている元のギリシア語は「アウトマトス」、「アウトス」と「アウトマトス」とが見事に対照されています。この「アウトマトス」がそのまま英語のオートマティックになったのですが、この言葉は、目に見ることのできる原因や動機をもたない事柄、それゆえに得体の知れない、不可解で、秘密に満ちた事柄を言う場合に用いられます。使徒言行録で、天使がペトロを牢屋から導き出すとき「鉄の門がひとりでに開いた」とありますが、この「ひとりでに」が「アウトマトス」です。その出来事が明らかに神の行為・働きによることが示されています。
さらに注目すべきは、この「アウトマトス」は、旧約聖書で休閑中の畑に自生する植物のことを言うヘブライ語の訳語としても用いられていることです。安息の年に関する律法はこう定めています。一つはレビ記25章です。「7年目には全き安息を土地に与えなければならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物(「アウトマトス」)を収穫したり、手入れをせずに置いたぶどうの畑の実を集めてはならない。土地に全く安息を与えなければならない」。さらにこうあります。「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」、と。さらに出エジプト記23章の安息年の規定では、7年に一度休閑地にすることと、そこに自生したもの(「アウトマトス」)は「あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい」と言われています。
このように、「アウトマトス」という言葉は、自分の民のために配慮する神の恵みの行為のシグナルとして理解することができるのではないかと思います。
以上から言えることは、このたとえの畑は七年ごとにやってくる休耕年にあたっていたということです。この一人の人が農作業を一切しなかったのは怠惰ゆえではなく、休耕年だったからです。ただ一つ、彼は無知であった。律法の規定に違反して種を蒔いてしまったのです。蒔いてしまったからには放置するしかない。けれどもこの無知な農夫によって蒔かれた種が実を結んで、安息年の二番作として、安息年が明ければ収穫されることになるのです。この農夫とその家族のものとして、さらにイスラエルの民の中の乏しい者が食べることができる収穫物となるのです。
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さて最後の29節。収穫の時が到来した、鎌を入れる時が来たのだ、という告知です。伝統的には、神ご自身の時の到来、終末の時が満ち、最後の審判と神の国がもたらされる、そのような事態を、旧約ヨエル書の預言の成就としてイエスは語ったと言われてきました。ヨエル書は、旧約聖書の中でも黙示的な性格が一番濃厚な預言書だと言われています。29節の「鎌を入れる」「収穫の時」という言葉の直接の典拠とされているヨエル書4章9~15節には、諸国民に対するイスラエルの戦いが宣言されています。長い間、外国の支配を受けてきたユダヤ人は、もちろん武器や軍事力も持ちませんでしたが、神の審判が諸国民に下されることが、終わりの時の黙示的な幻の中で描き出されています。注目に値するのは10節の言葉です。曰く「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」。これはあの有名な預言者イザヤの終末預言を文字通り逆転したものです。イザヤ書2章4節。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。これはまさに終りの日における平和預言です。ヨエルはこのイザヤの平和預言を意図してひっくり返し、宣戦布告へと変えているのです。
それではイエスはヨエルの「鎌を入れる」「収穫の時が来た」という言葉を、このたとえ話を結論づける重要な言葉を、どのような思いを込めて語っているのでしょうか。この終わりの時ということで、ヨエルが言うような終末的な戦争と神の審判のことが言われているのでしょうか。イエスが言う「鎌を入れる」「収穫」とは、そのような黙示的戦争と審判のことではないと思います。もしそうであるなら、イエスは敢えてこのことをたとえとして、神の秘密として語る必要はなかった。それではどうなるのか。イエスの言う収穫とは、あの無知な農夫によって種を蒔かれ、自生した安息年の二番作の収穫のこと、その民のために心を砕いて止まない神の恵みの収穫のことではないでしょうか。イエスはヨエルの言葉をそのまま受け取りつつ、ヨエルがイザヤの預言に対してなしたことと全く同じことを、つまり中身を完全に逆転しているのです。剣を打ち直して鋤に、槍を鎌にしているのです。それは黙示的戦争と審判の告知ではなく、平和と恵みの訪れの告知への決定的転換です。
マルコ福音書は「神の国は近づいた」というイエスご自身による喜びの告知で始まっています。私たちは聖書の証しする神の国とは、神の、イエス・キリストによる支配という事態であることを知らされています。そしてこの神の国は「神の国は近づいた」と語られるイエス御自身によってもたらされます。その神の国のもたらし手であるイエスが語られるからこのたとえは真実なのです。イエスは、黙示的戦争と最後の審判を決して否定しているのではありません。それを未来における神の事柄としている。イエスは自分の周りに集まっている自分と同じ小農民に向かって、このたとえに出てくるような無知で失敗をしでかすことが日常茶飯である人たちに向かって語っています。神の国は実にあなたがたの只中にある。イエスによる神とは安息年の二番作の神である。無知な農夫が蒔いた種を、神の平和と恵みとして収穫してくださる方として、あなたがたの日常茶飯の生活の中におられる、と。
(2014年2月23日主日礼拝説教)
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