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 2014年2月2日 礼拝説教  【安息日の主】 笠原 義久

出エジプト記20章8~11節/マルコによる福音書1章21~2節

 主イエスは、安息日になるとガリラヤにあるユダヤ教の会堂で教えるのを常としていたようです。実際マルコ福音書には、「教える」「教え」という言葉がよく出てきます。いずれの場合も主語は基本的にイエスであり、その聴き手(多くの場合はガリラヤの民衆ですが)の反応は「非常な驚き」「驚き」でした。民衆を驚かす「教え」に関しては、「権威ある者としての教え」「権威ある新しい教え」などと記されています。けれどもその教えの内容が記されることは滅多にありません。おそらく律法学者のなすような律法の解釈や解説とは異なり、それを聞いた者の決断を迫る、つまり信仰をもってその言葉を、あるいはその言葉を語る者を受け入れるかどうかという問いを聴き手に突きつける、そのようなものであったに違いないのです。

 さて民衆が非常に驚き、恐れ、「権威」を感じたという反応は、「安息日」や「教え」との関連で生じるケースが多いことに注目したいと思います。なぜ安息日なのか?

 安息日に関して私たちが踏まえておかなければならない聖書の代表的箇所は言うまでなく十戒です。出エジプト記の20章をもう一度読んでみましょう。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。

 すなわち、主の安息は、血統的な意味におけるイスラエルに留まらず、イスラエル以外の民族の出自である男女の奴隷や寄留者にまで与えられるべきであり、さらにその範囲は家畜にまで拡げられます。安息日に実現すべき休息、それは血や身分の境を越え、さらに人間と動物の境をも越え、被造物すべてに与えられる休息だというのです。実に壮大な世界がここにはあります。

 実は、十戒の「安息日」は、今読んだ出エジプト記と、もう一箇所申命記にもあります。出エジプト記の方が、安息日を聖別する根拠が天地創造であるのに対して、申命記の方は、出エジプトという隷属からの解放、主の救いの御業を「思い起こす」、それが安息日とされていることです。少し要約的に言うなら、出エジプト記の方は、無から創造された「すべての命あるもの」が究極的な完成に向かっていることを教えています。それに対して申命記の方は、この世の圧倒的な罪の力から解放してくださる神の救いこそが、命の根拠であることを教えています。

 すなわち、事はいずれも「命」に関わっています。与えられた命、救われた命、その根拠と目的を失うとき、その命は虚無と混沌の中に呑み込まれ、罪と死の奴隷へと逆戻りする。安息日を聖別して守るとは、命の創造者であり救済者である神を賛美・礼拝することです。そうすることが実は自分の命を守り、神のものとして聖別することになる、そのように言うことができるでしょう。

 あるいはまた、出エジプトの出来事が「持つこと」を基本原理とするエジプト的なあり方への根源的な否定であったことを考えるとき、神から恵みとして与えられた安息日の掟は「持つこと」からの解放だと言うこともできるでしょう。その日、人はあたかも何も持っていないかのように生活し、「在ること」「存在すること」、自分の本質的な力を表現することのみを目標として生活することができる。祈ること、学習すること、食べること、飲むこと、歌うこと、愛を行うこと――実に安息日は、自分の命を守り、本当の自己自身を回復するそのような日として、恵みとして与えられているのです。主イエスがこの後二章でファリサイ派の人々に対しておっしゃっているように、安息日は、まさに「人のために」「人の命のために」定められたのです。

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 さて「安息日」がマルコ福音書に出てくるもう一つ大事な箇所は16章です。「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と。この「週の初めの日」に、主イエスの復活の出来事に彼女たちは出会うのです。そして、キリスト教会は、この「週の初めの日」を安息日として、聖別し、守ることを始めたのです。ユダヤ人もギリシア人も、自由な者も奴隷の身分の者も、男も女も、大人も子どもも、日常の仕事から離れ、皆が会堂に入り、神を礼拝する日、この自分の命を守り、本当の自己自身を回復する日は、週の初めの日であるとしたのです。なぜか? それは主イエスが、この日十字架の死から復活したからに他なりません。

 マルコ福音書は、その冒頭から、イエスが神の子であると宣言し、それがどういう意味であるか、私たちとどう関わるのか、そのことの究明に全巻を費やしていると言って過言ではないでしょう。主イエスが誰であるか、それを知っているのは、今朝の聖書から明らかなように悪霊、汚れた霊だけです。人は知らない。人は権威に圧倒されて驚き、噂を広めはする。けれども、悪霊が「あなたは神の子だ」とイエスの本質を見抜くのに対して、人は「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」「預言者の一人だ」と言うに留まるのです。あるいは、ペトロのようにイエスが「メシア」であると告白しつつ、主イエスがご自身の受難と復活のことを預言すると、そのイエスを諫める。その挙句、イエスから「サタン、引き下がれ」ときつく叱られてしまう。

 その主イエスが、「神の子」として正しく告白されるのは、あの十字架の時です。主イエスを十字架につけ、主イエスが「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)と叫びつつ死に行く姿を見た異邦人である百人隊長が、「本当にこの人は神の子であった」と告白をしたのです。

 神に捨てられる神の子、この逆説の中に、主イエスの正体が隠されています。「ユダヤ人の王」であるのに、異邦人に最初の告白者が誕生する。忠実に従ってきた全員男である12弟子はイエスを見捨てて逃げたのに、イエスの死を最後まで見守っていたのは決して表に出ることのなかった女性の弟子たち。真昼なのに暗い、闇の中に現れる神の栄光。

 この十字架の日は、安息日の前日でした。そして安息日の間、主イエスは真っ暗な墓に横たわっていたのです。そして「安息日が終わり」「日が出る」とすぐ、その光の中で主イエスの復活が告げられます。そこで引き起こされる反応とは、先ほども指摘した「ひどく驚く」「震え上がる」「正気を失う」そして「恐ろしさ」の中に沈黙することでした。

 キリスト教会は、旧約聖書で定められていた「安息日」を、この週の初めの日、主イエスの復活されたこの日に移したのです。

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 繰り返しになりますが、安息日は、神による天地創造の完成の日で、この日に被造物は完成するのです。つまり、祝福された命が完成するのです。今も天地は、その完成の日、全き安息の日、祝福の日に向かっています。その終末的な出来事の先取りという意味が、安息日の中には確かにあります。

 安息日とはまた、エジプトの支配からの、エジプト的な「持つ」というあり方からの解放を覚える日でもあります。自分たちが神によって救われた者であることを思い起こし、その救われた喜びを、自分の家の奴隷とも分かち合う日、神の愛、神の救済を感謝し、喜び、賛美する日でもあります。

 パウロはこう言っています。

「キリストと結ばれている人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」、と。「キリストと結ばれた」と訳されていますが、「キリストの恵みの御支配の中へと移され、キリストがその生活の上に力を振るっておられる」と敷衍(ふえん)した方がよいでしょう。この「キリスト」とは「罪とは何の関わりもない」のに、「私たちのために罪」とされ、裁かれ、「死んで復活してくださった」方です。このキリストを通して、神は私たちの罪を赦し、罪の支配から解放し、新しく生かそうと、和解の手を差し伸べてくださっている。

 安息日は、その事実をいつも新たに告げ、さらに「神と和解させていただきなさい」というキリストの執り成しの祈りを懇切に告げ知らせるためにあるのです。この告げ知らせを受け入れ、罪を悔い改め、信仰を告白する者は、主イエスによって到来した神の国に新たに生かされるのです。この神の国の現実、これこそ罪の支配から解放された人間の現実であり、神が「よし」「然り」とされる世界の現実に他なりません。

 主イエス・キリストの十字架と死と復活によって新たに設定された安息日、週の初めの日の「会堂」の中で、今この礼拝の中で、今ここに臨んで在(いま)し給う主イエスの前で実現すべき現実とは、まさにこの現実です。

 この現実が人に触れるとき、その人は、「心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』(Ⅰコリ一四・二五)と告白するに至り、その人は、十字架の主イエスに罪贖われ、その復活に与って新しく創造されるのです。安息日が「人のためにあり」主イエスが「安息日の主」であるとは、こういうことでしょう。安息日において起こるべきこと、それはイエスこそ神の子、主、キリストである現実が告げられ、明らかにされ、その前にすべての被造物がひれ伏し、大いなる恐れと驚きの中に、賛美を捧げる礼拝なのです。創造の究極、救いの究極の姿が、今日この日に露わにされるのです。


(2014年2月2日主日礼拝説教)

 
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