信濃町教会        
トップページ リンク アクセス
われらの志 信濃町教会の歴史 礼拝 牧師紹介 集会 新しい友へ
説教集 教会学校 会堂について パイプオルガン 神学研究・出版助成金

  説教集  
     

 2014年1月5日 礼拝説教  【わたしの愛する子】 笠原 義久

マルコによる福音書1章9~11節

 私たちは、主イエス御降誕の喜ばしい光の中で新しい年2014年を迎え、第一の主日礼拝にご一緒に、礼拝者として集っています。私たち大方の者にとっては、年の終りとか始まりの感慨が昔より大分薄らいできていることは事実でしょう。しかし私たちキリスト者にとって、新しい年は、単なるカレンダーの日めくりが一つ変わったということだけでなく、私たちに何がしかの感慨を与えるのは、新しい年が、終りに向かっての一歩であるということではないでしょうか。やがては何人も終る時が来るのだというその事に向かっての、くり返されない、反復されることのない2014年の年が始まったということです。そして、この生涯の終りに向かっての一歩は、やがて来るべき主の大いなる日に向かっての予告編であり、それに向かっての一歩であるということではないでしょうか。

 「終りの始まり」。このことが私たちの気持を引き締め、これまで果たせなかったものを少しでも埋め果たしていこうとします。気持を新たにしての新しい年の歩みだし――それは、ある人にとっては残された人生、残りの日々を数えることでもあります。しかし終りに向かっての一歩を始めていくことに変わりはありません。それは間違いなく収支決算の時であり、何人も否応なくその収支決算の場に立たされるという厳粛さをもっています。

 今、このとき、今一度御言葉に聴きましょう。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである」(黙示録14・13)と。もはや終りは終りにならず、新しい年の新しい一歩は、破滅への一歩ではなく、喜びの一歩だと言うのです。

                         *

 聖書では、すべての事を考える基点として、神がこの私たち人間の歴史に直接介入して下さった出来事が据えられています。今朝与えられたイエスの受洗を伝えるマルコによる福音書の記事においても然りです。

「わたしの愛する子」という特別な地位をイエスに与えるのは、イエスの素性や才能や努力や経験や経歴でもありません。ただひたすら神ご自身の行動によることを今朝の聖書は明らかにします。ここでイエスは三つの奇跡的な出来事に直面します。

 第一は「天が裂けて」という出来事です。ここでは天と地の断絶が取り除かれるという神の行為が強く暗示されています。この「裂ける」という言葉は、マルコ福音書では主イエスが十字架上で息を引き取ったとき神殿の垂れ幕が「裂けた」というところで使われています。天と地の断絶が取り除かれたとき、あの百人隊長の「イエスは神の子なり」という告白が引き出されたのです。今や神が長い間の空白を破って、最終的かつ決定的に行動された。これまで久しく天と地は触れ合うことがなく、神は久しく人と交わることがなかった。しかし今や天が引き裂かれた、あるいは久しく閉ざされていた天が開かれた。これは人間の歴史に対する神の決定的な介入です。神は救いようのない絶望的な世界に食い込んでこられたのです。神の沈黙の時は終わり、今や神は最終的・決定的に語り始められた。人間が知り得なかった神の秘密が開き示された、というのです。神の秘密は、人間が考え研究し、努力と修養を積めば分かるというものではありません。上から啓示されなければ分からない。ところがイエスはこの出来事を「御覧になった」のです。このことはイエスが終末的な救済者、究極的なメシアであることを示しています。イザヤ書63章に次にような言葉があります。「どうか、天を裂いて降って下さい」(イザヤ書63:19)。かつて人々はそう祈った。この祈りに応えるかのように、神は驚くべきことをなさったのです。

 第二の出来事は、霊が降ったという経験です。これもイエス自身の経験として記されています。久しく霊の欠如した空虚な時を経て、神はふたたび聖霊を降らせた。かつて神の霊は創造の初めに、またイスラエルの民の砂漠放浪時代にも、世界や人々に注がれていました。特に創造の時の「神の霊が水の面に働きかけていた」。この「働きかける」というのは直訳すると「羽ばたく」で、雌鳥が羽根でもって雛を覆うような情景が示されています。混沌として秩序のない、虚無的・絶望的な暗闇の世界を雌鳥の羽根が覆うように、神のいのちの霊、創造の霊が注がれたのです。かつての創造の時神の霊がこのように力強く働いたように、今やイエスの上に創造の働きをする霊が降り、新しい創造の出来事が起こったのです。その意味でこのイエス受洗の物語は「新しい天と新しい地の創造」の始まりの出来事であると言ってよいでしょう。

 さて第三の出来事、イエスを「子」と呼ぶ天からの神の声でこの物語はクライマックスに達します。ここに出てくる「天」というのは、宇宙の一隅のことではなく、過ぎゆくこの世の彼方、人間と世界を越えている見えない永遠なる栄光の座のことです。主の祈りにあるように、天は、神がおられ、御心が行われ、神のいのちと愛と光の支配が完璧に成就している領域のことです。その天が裂けて、神の声が天からイエスに向けて直接に語られるという出来事が起こったのです。

 この天からの声は、旧約聖書からの複合的な引用です。聖書をとおして語られた言葉をイエスだけが天からの声、神の言葉として聴いたのです。

 その声の第一部は詩編二編7節からの引用です。詩編第二編は即位の詩編と言われていますが、イスラエルの王は自分で王に即位するのではなく、神が「あなたはわたしの子である」と言われることによって、はじめて王に即位できるのです。

 さて、マルコのこの箇所が詩編と大きく異なるのは、「愛する」という言葉が加えられていることです。直訳すると「愛されている」となりますが、「独り子」という意味でもあると言われています。これまで多くの王が即位してきたけれども、これまでの王とは決定的に違って、イエスは、唯一の愛する独り子、最愛の子なのです。イエスはこの世の次元においては、王でも富んでいる者でも学者でも知者でもなく、貧しく無名のナザレ人に過ぎなかった。そしてやがて憎悪と裏切りの渦の中で「呪われている」者として残虐な十字架の死を遂げる。にもかかわらず、いやそうであったが故に、神はこのイエスを独り子として愛されたのです。アガペーとは、このような驚くべき逆説的な愛なのです。

 第二の部分の「わたしの心に適う者」は、イザヤ書42章1節からの引用です。これは「主の僕の召命の歌」の冒頭の言葉として、52~53章にかけての「主の僕の苦難の死の歌」を視野に入れていると考えられます。同じようにマルコでも、イエスの十字架を視野に入れながら、「わたしの心に適う者」と言われています。「わたしの心に適う」には、「わたしはあなたを喜んだ、気に入った、満足した」といった意味があり、ここでも唯一無二の、密接で親密な関係、愛の絶対的関係が示されていると言ってよいでしょう。しかしこの世は、この神の独り子を十字架に引き渡すという恐るべき罪を犯すことになるのです。

 さて、ここでの天からの声は、おそらく上空からこだまのように響いてくる言葉ではないでしょう。イエスは、今申し上げたような旧約聖書の言葉を自分に語られる内なる声として聞いたのでしょう。かつてエリヤが意気消沈していたときに「静かにささやく声」を聞いて立ち上がったように、イエスが聞いた天からの声も、静かにささやく声であったかも知れませんが、イエスは永遠の栄光の天の座からの神の声として聞いたのでしょう。いずれにしても、これはイエスが「王のなかの王」(king of kings)、神の子としての職務に就く出来事であったのです。

                           *

 イエスはこのようにして神の愛する独り子であるとされました。それに対して人間は、聖書の言葉によれば、「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)であると言われています。

 昨年逝去したカトリック作家・高橋たか子さんに『怒りの子』という小説があります。京都の平凡な若い女性が同じアパートの女性を殺してしまうという物語です。著者は、登場人物の口を通して、「誰の中にも外からは見えないが人間の奥に怒りの子が潜んでいて、それが何かのことで、すうっと出てくる」と言わせています。人間は心の深いところに「沸き立ち沸き立つ黄ばんだ海」を抱えている怒りの子である、と。しかし彼女は最後に「愛する」という言葉を思い出し、「自分は一人ではないみたいだ」と感じるのです。著者はこの著作に関連してこうコメントしています。「神というのは愛する神です。愛の神が、人間の現象の裏側、現象を越えたところに、いつもずっと存在している。その愛のまなざしに支えられて、すべての人間的現象が起こっている」と。「現象を越えたところ」とは天のことなのでしょう。現象を越えたところ、まさしく御心が行われている天に、愛の神は在す。その天が裂かれて神の愛が介入し、人間の運命的な罪と死の現実、怒りの渦巻く地の上に独り子イエスは立ち、「あなたはわたしの愛する子」という絶対的な愛の言葉、絶対的肯定の声を聞いた。ここに神と人間との新しい関係が切り拓かれたのです。「新しい天と新しい地の創造」が始まったのです。

 この2014年もその神の子イエスの愛の御支配の下に置かれているのですから、心をこめて祈り、心をこめて働き、心をこめて御言葉に聞きたいのです。相共に助けあい、励ましあいつつ、祈り、働き、御言葉に聞く生活を神の前に続けたいと願います。私たち一人ひとり、どうかこのことだけはさせて下さいという願いをもって、この年を始めようではありませんか。どんな小さいことでもよい。私たちが神に仕えるということは、そういう小さいことから始まります。

(2014年1月5日主日礼拝説教)

 
説教集インデックスに戻る


Copyright (C) 2004 Shinanomachi Church. All Rights Reserved.