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 2013年12月15日 礼拝説教  【神の言葉はとこしえに立つ】 笠原 義久

イザヤ書40章1~11節

  「慰めよ、私の民を慰めよ。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ」。

 イザヤ書40章は、神のイスラエルの民に対する慰めの意志を表明する言葉で語り始められています。おそらく神の在し給う天の上での会議、その会議場に満ちた天の軍勢、すなわち天使たちに対し、砕かれたイスラエルの民を慰め、赦し、贖うように、という神の勅令が発せられたのです。そして、この会議の重要な決定を、地上にいながらにして、先行して一人聴いた預言者がいました。今虐げられている人には慰めがあり、虐げる者の力は奪い去られる。神は支配し、神は今もイスラエルのために行動を起こそうとしている、これが神の既になされた決断なのだ、と。

 紀元前六世紀の中頃、イスラエルのバビロン捕囚という最大の民族的危機の時代、第二イザヤと呼ばれる、生きた期間も人となりも知られていない無名の一預言者が携えて来たもの、それは一言で言うなら、「神はその民を慰め給う」という慰めと赦しの福音、慰めの福音そのものでした。囚われの中にあるイスラエルの人々に「よきおとずれ」を伝えること、牧者である神を迎える新しい時代を、この新しい歴史の転換期に告げ知らせること、それが預言者第二イザヤに課せられた預言者としての務め、預言者としての召命の内容そのものでした。 異国の地で悲嘆に暮れながら、自分を守る手段を失い、自分たちを捕虜にした者たちの前で、為す術なく心傷ついている民。捕囚とは、一言で言えば、出口なしの状況、にっちもさっちもいかなくなっている状況、端的に言えば「神なし」「神が見えない」「神の不在」という事態でした。イスラエルの民は、自分たちの歴史を、いつの時代にも神と共にある歴史、もっと正確に言うなら、その民と共にある神の歴史、神の救いの歴史として理解していました。民族の歴史の始めから、アブラハム、イサク、ヤコブの時代から、モーセやダビデの時代を経て、歴史はいつでも神の導きの歴史でした。多くの危難や困難や動乱に出会わなければならなかったが、神の助けがなかったためしはこれまでなかった。しかし今回の事態は違う。バビロニア帝国が勝利し、捕囚にまで至った事実は、イスラエルの神が、バビロンの神々に屈服したと理解せざるを得ないではないか。イスラエル民族が神ヤハウェの大いなる助けのもとにあると見ていた歴史は、もはや妥当性のないものとなってしまったではないか、民族の全歴史の根底は崩壊したのではないだろうか。実際、この捕囚の地バビロンの生活のどこに、神の御顔を見ることができるのか、神の指の痕さえも見ることができないではないか、救いと導きを約束された神は、もはや自分たちの間にはおられない、「もう万事休すだ」と。

 このような事態の中にあるイスラエルの民に第二イザヤが携えてきたものは何であったか。それは今朝のテキストの冒頭、独特の緊張感、切実さを持って語られる「神はその民を慰め給う」という喜ばしいおとずれでした。「慰めよ、わが民を慰めよ」。ここで語られている慰めとは何でしょうか。



 内容の重い一冊の本があります。フランクルという人の書いた『夜と霧』、20世紀の捕囚の記録であり、また限りない慰めの記録でもあります。原題は「心理学者、強制収容所を体験する」。文字どおり地獄のようなナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所を生き抜くことのできた一人の精神医学者による、まことに感動的な体験記録です。

 フランクルは、アウシュヴィッツの捕囚が終わりに近いあるとき、囚人仲間から請われて、次のような話をします。

まず彼ら囚人たちの置かれている現在の状況すらも、必ずしも考えうる限りの最も凄まじいものではないだろう、もっと大きな悲惨の中に置かれている者もある、そのように語った後、彼は次のように語ります。

 「われわれ各自は、今までに真にかけがえのないものとして失ったものに何があったか、自らに問わなければならない。しかし私たち大部分の者にとってそれは元来僅かであろう。少なくともまだ生きている者は希望をもつ根拠を持っているのである。健康、家庭の幸福、職業的能力、財産、社会的地位・・・、このようなものは、人が再発見し、再構成できるかけがえのある事物である。生きている者の希望の根拠は、そのような人が再発見し、再構成できる事物のうちにはない」、と。

 それでは本当にかけがえのないものとは何か。フランクルは次のように記しています。

 「そして私は最後に、生きることを意味で満たすさまざまな可能性について語った。人間が生きることは、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は、苦しむことと死ぬことを、苦悩と死を含むものだ、と私は語った。この真っ暗なバラックで私の話に耳をすましている哀れな人々に、ものごとを、私たちの状況の深刻さを直視し、なおかつ意気消沈することなく、私たちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さをいささかも貶めるものではないことをしっかりと意識して、勇気を持ち続けて欲しい、と言った。私たち一人ひとりは、この困難な時、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、と私は語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして私を見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ」。

 フランクルがこのように語り終えたとき、彼は、目にいっぱい涙をためて、自分に、感謝を言うために、よろめき近寄ってくるぼろぼろの仲間の姿を見たのです。フランクル自身この晩のように、自分と苦しみを共にする仲間の心の奥底に触れようと奮い立つだけの内的な力をもてたのはごくまれなことであった、と告白しています。

 慰めとは、まことの慰めとは、ここでフランクルが告白している、「自分と苦しみを共にする仲間の心の奥底に触れようと奮い立つだけの内的な力」であると言えるでしょう。「慰める」とは、相手の苦しみや悲しみに共感し、その中にも平安があることを、またその現状を安んじて受け入れるべきことを勧める、という消極的意味ばかりではありません。聖書が語る「慰め」には、もっと積極的な響きがあります。それは、新しい命へと勇気づけること、さらに言うならば、神と共にある、神との交わりにおける新しい命へと召し出すこと、呼び出すこと、です。さきほどのフランクルの言葉で言うなら、いかなる事情の下でも意味をもつ人間存在へと呼び出すことです。われわれ各自に向けられているまなざし、一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者、そして一人の神から私たちに向けられているまなざし、私たちがその人を、あるいはその神を失望せしめないことを期待し、また私たちが惨めに苦しまないで、誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めることを願い・期待しているまなざし、この期待のまなざしこそが慰めなのではないでしょうか。



 私たちは、今朝、第2イザヤの携えてきた「慰め」の使信を聞きつつ、私たちもまた、かつてのバビロン捕囚の民、またアウシュヴィッツの囚人仲間と、その質において同じような「囚われ」の中に置かれている、と言わざるを得ないのではないでしょうか。生きることに疲れる、生の倦怠がとぐろを巻いています。一歩自分の内側に足を踏み入れるとき、そこに見出す砂漠のように荒涼としたもの、ごく普通に穏やかに生活しているように見えながら、実は荒野で震えながら立っている一本の木のような孤独、孤立、疲れ、そのような中で漠然と自分の人生に何かを期待する。何か来るかもしれない。来るはずだ。しかしそれが何であるのか見えてこない。

 しかし、これは私たち一人ひとりの実存状況であるだけでなく、3・11以後の私たちの国を深く覆っている状況だと言って過言ではないでしょう。単純化して言えば、苦難と絶望とに陥った社会における人間の可能性が根底から問われている、ということです。

 私たちはここでもフランクルから聞かねばなりません。「人生から何かをわれわれは期待できるかが問題ではない。むしろ、人生が何をわれわれから期待しているかが問題である」とフランクルは語ります。私の人生は将来私に何を提供してくれるかという受け身の姿勢から、人生から私は何を期待されているか、問われているか、それにどう応えていくか、そういう姿勢へと転換することだ、と。フランクルの言う「人生からの問い」は「神からの問い」です。そしてこの転換すなわち「私たちが神に何かを期待する」あり方から「神が私たちに何かを期待する」あり方への転換を為して下さるのが、まさにまことの慰め主なる神ご自身であると言えるのではないでしょうか。囚われの中にある者を新しい命へと勇気づけ、ご自身と共にある、その交わりにおける新しい命へと召し出すのは、まことの慰め主なる神です。神は出口なしの状況の中に、私たちがとどまり続けるのをよしとはされない、第2イザヤが携えてきたのは、この慰めの福音に他なりません。

 それでは「神が私たちに何かを期待している」と言うとき、その「何か」とははたして何であるのか。この問いに一般論で答えることは簡単ではありません。むしろ、この何かは、常に具体的なものとして、個別的なものとして、その人その人によって、また毎日、毎時、刻一刻に異なります。ある場合にはフランクルのように、苦難や苦悩を自らに引き受け、それに自ら意味を与えていく、ということもあるでしょう。しかしその道は、神御自身が必ず用意し、これを整え、そして常に伴っていてくださる、これは本当に確かなことです。私たちに求められているのは、この見えない事実に対する信頼です。今朝、このように私たちに期待し、求めておられる方、まことの慰め主である方の御言葉を、とこしえに立つ御言葉を、今一度新しく私たちの心に刻みつけたいのです。

(2013年12月15日主日礼拝説教)

 
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