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 20131013日礼拝説教  【信仰こそ支え】 林原 泰樹

出エジプト記4章1~15節/コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7~9節


 モーセはホレブ山で柴の間に燃え上がっている炎を見て近づいて行きました。すると神が柴の間から「モーセよ」と声をかけられ、そこで大きな使命が与えられました。「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。この私が同胞イスラエルの解放なんてとんでもない、と、モーセは使命を断るのですが、神は諦めません。「モーセよ、行け。わたしが共にいる。神なるわたしがお前を遣わすのだ」。モーセは言います。「イスラエルの民は頑固です。あなたが私を遣わした、と言ったところで決して信じる者ではありません」。すると神は言いました。「あなたが手に持っているものは何か」。彼が「杖です」と答えると、神は「それを地面に投げよ」と言われました。モーセが杖を地面に投げると、それは蛇になりました。次いで神はモーセに「手を伸ばして蛇の尾をつかめ」と言いました。モーセが手を伸ばしてつかむとそれは手の中でまた元の杖に戻りました。これは何を言わんとしているのかと言いますと、神がモーセに杖による奇蹟を約束しているのです。

それでもなおモーセは神に言いました。「私は元々弁が立つ方ではありません」。でも神はモーセに更に言われました。「このわたしが、あなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。モーセはそこまで神に言われてもなお「どうぞ誰かほかの人を見つけてお遣わしください」と言いますが、神はモーセに言われました。「あなたにはアロンという兄弟がいるではないか」。つまり話のできるアロンという補佐を付けると神は言われたのでした。そこで仕方なくモーセは出発しました。一本の杖がモーセの手に握られていました。その杖によってモーセはこの後、働き出すのです。

当時の杖には幾つかの種類がありました。例えば羊飼いが持つ杖は野獣を撃退したり、羊を正しい方向へ導いたりするための杖でした。またその他に、いわゆる現代でも使われているステッキの類の杖もありましたし、更には、王や部族の長が主権の象徴として持っていた杖もありました。モーセの持っていた杖はどの種類であったかと言いますと、基本的には羊飼いの杖です。彼は羊たちを追って歩いていたのですから彼の手に持っていたのは羊飼いの杖でありました。しかしそれは部族の長の主権の象徴という意味合いの杖でもありましたし、更には、彼の杖は、彼とその民の歩行を助ける杖にもなっていったのでした。ですからその杖は今述べたような三つの種類を兼ね備えた杖であったと、そう言うのが正しいでしょう。そのような杖を持ってモーセはイスラエル人の所に行き、神が自分と共におられることを示しました。人々もまたそれを見て、神がモーセと共におられることを信じるようになりました。

次いでモーセはエジプト王ファラオの前に行き、そこでもその杖で不思議な業を起こし、神が共にあることを見せました。しかしファラオは、何度もしるしを見ても信じなかったので、遂にモーセは強行突破し、出エジプトを実行しました。その際、後ろから猛烈な勢いでエジプトの追手が追ってきました。目の前は一面の海という所で絶体絶命の危機に陥ります。でもそこで神はモーセに語ります。「杖を高く挙げ、手を海に向かって差し伸べ、海を二つに分けなさい」。モーセが杖を高く挙げると海は二つに分かれました。そうやって海を渡り、エジプトの追手は海に溺れました。続いて荒れ野に入って行き、シュルの荒れ野でもこういうことがありました。水が無かったその時に、モーセはこの杖を用いて岩を叩きました。すると岩は割れて泉が湧き上がり、イスラエルの民は皆水を飲むことが出来ました。

そのようにしてイスラエルは旅を続けました。モーセが手にした杖、これが力を発揮したのです。モーセは偉大だと言いますけれども、実は杖の力だったのです。杖を通して現れる神の力により頼んで、生涯を歩んだのです。

もっとも実際にはモーセよりも兄アロンの方がその杖を用いることが多くなっていったので、その杖は後に「アロンの杖」とも言われるようになりますが、同じ杖です。とにかくそんな不思議な杖をもって神はモーセを助けたのでした。そして最終的にはヨルダン川を渡り、約束の地「乳と蜜の流れる地」、肥沃なカナンを目前にするのです。

と言うことですから、モーセは杖に支えられた、ということが今日の箇所とその後の所に書かれていることなのであります。

このモーセを支えた杖ですが、現在を歩む私たちにも実は与えられているのです。私たちにとってその杖とは何なのでしょうか。それは一言で言えば、信仰です。信仰を持つ時にそれは私たちにとって、あの杖のようになるということであります。『讃美歌21』458番にも「信仰こそ旅路を、みちびく杖」というフレーズがあります。正にその讃美歌が示す通りなのです。

ただし、信仰ならどんな信仰でもいい、ということにはならないでしょう。より厳密に言うと、イエス・キリスト信仰です。霊の糧、イエスという命のパンを頂き、心がそれによって支えられて行く、そのような歩みが、イエス・キリスト信仰という杖による歩みなのです。

杖について、先程三種類あったということを言いましたけれども、何と言っても実用的にはステッキです。歩行を助けてくれるものです。ご年配の方の歩行を支える、また登山のような厳しい山道を行く時にも助けてくれるものです。ご年配の方や登山者はこれを持たずして歩行をすると危険です。でも逆に言えば杖さえあれば相当のことが可能になります。杖とはそういうものです。もちろん、杖というものは身の丈に合ってないとならないし、また手に握ってよくフィットする杖でないと末永く使えるものではありません。でも良い杖は、本当に歩行の助けになるものであります。そのように私たちの人生の歩行を絶えず安全に導き助けてくれる最良の杖がイエス・キリスト信仰なのです。私たちの山あり谷ありの人生は、これ無しでは非常に困難です。私たちの二本の足で歩く力が湧いてこない、それどころか倒れて起き上がれない、そのような時でも、杖があれば起き上がることが出来ます。それと同じように、私たちの人生の歩みの中でも、逆境に在って精神的に疲れ果て立ち上がることも出来ない、その日一日を歩み出すことも困難になることがあるかもしれません。そういう時にも私たちの心の杖になってくれるのがイエス・キリスト信仰です。その杖が私たちの萎えて倒れそうになる心身を支えて再び立ち上がらせてくれるのです。そしてただ歩けるようにしてくれるだけでなく、イエス・キリストという杖は、時にはモーセの不思議な杖のように私たちの八方塞がりの道を行く時にも、驚くべき力をもって道を切り開く杖となり得るのです。目の前が海、道を見失った、絶望しかない、そのような時でも、イエスという杖は神の力を示します。道を切り開くように導いてくださる力があるのです。

ところでここには一つの落とし穴があります。杖というものは、全ての人が、何時でもどんなコンディションの時も、必要だと感じるものではないという点です。自分の足がまだ大丈夫であると、まだステッキは必要ないと思うことでしょう。また必要性を感じている人でも、時に足の調子が良いと、杖を何処かに忘れて、無しで歩いてしまうことがあるわけです。

私個人にとっても、イエス無しで人生は考えられませんが、しかしそれでも、朝聖書を読むとか、日毎の糧を読むことを忘れたりします。そうするとイエス・キリストという杖無しで一日を歩むことになります。皆様もイエス・キリストという杖無しで歩いて、歩けてしまうことがあるかもしれませんが、それは危うい歩みなのです。

古の信仰者たちが、皆、例えば朝とか晩に聖書を読むだり、週日の集会や日曜礼拝に欠かさず出席して聖書を読む、そのような聖書と祈りの生活に励んでいました。何故そのようにしたのでしょうか。イエス・キリストという杖を持って歩むことの重要性を知っていたからです。それ無しでも何とかなるかもしれません。けれどもそれは長い目で見ると違ってくるのです。モーセが杖を離さずしっかりと握って歩んで行ったように、私達も杖により頼んで歩むものとさせて頂きたいと思います。

杖の話は、実は旧約だけでなく新約にも出て参ります。マルコ六章八節において、イエス様は12弟子を伝道の旅に遣わすにあたって、「杖以外何も持つな、杖一本だけ持って旅に出よ」と言われました。そのようにイエス様も私たちの歩みを助け導くために「杖一本」ということを教えられたのです。

ここで今日の新約聖書の方の個所も開いてみましょう。第二コリントの4章7節以下です。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。パウロもイエスを杖として歩んでいたということなのです。イエスを杖として歩んで行ったら私たちもこのパウロの言っている歩みにせられます。

杖を求めるとは、利益に通じる道ではありません。心が支えられ、力を内側から受けて歩む、そのような歩みが与えられます。

最後に、杖はただ歩くためのものだけではありません。歳をとって、杖を頼りにしても歩くことが出来なくなることがあります。そうなってもなお、杖に寄り掛かって立ち、そして祈ることが出来ます。人生の終わりにこの杖を頼りにして歩んできた人は、この杖を頼りに、祈るようになるのです。そしてその歩みは間違いでなかった、ということを、確かにその方は確認することでありましょう。

(2013年10月13日礼拝説教より)

 
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