あの日の朝早く、深い悲しみの中に、マクダラのマリヤはイエスの墓に行きました。そこで見たものは空になった墓でした。「マリヤは墓の外に立って泣いていた」と福音書記者は書いています。
復活の主は悲しむ人間に出会われます。イエスが悲しみのマリヤに向ってまず語られたのは「なぜ泣いているのか」という言葉でした。もちろん、これは泣いている訳を尋ねる言葉ではありません。そうではなく、「マリヤよ、もう泣かなくてもよいのだ、泣かなければならないような事態は転換した。私は今や復活して生きているのだから。死は生命に、絶望は希望に、悲しみは喜びに、根底から転じてしまったのだ」と復活の主は語っておられるのです。この言葉によって、墓の周囲には晴やかさが広がり、活気がみなぎり、マリヤは「ラボニ」と声をあげて喜び、弟子たちのもとに急いで帰ってこのことを知らせた、とヨハネは述べています。
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「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5・4)。
イエス・キリストの復活の出来事が、山上の説教のこの御言葉を真実なものにしています。もしキリストの死と復活の光の中でこの言葉を聴かないならば、私たちはその本当の語りかけを聴き取ることはできないでしょう。
さて、「悲しむ人々」と主はおっしゃいます。私たちはそれぞれの生活、人生において、悩みと苦しみに繰り返し直面しなければなりません。私たちが、どれほど人に対して、自分は「うまくいっている」というふうに振舞おうと、またそのように見せようとも、私たちは根本のところで、それぞれに皆かたちは違っていても、痛みをもち苦しみを負っているはずです。また人間をそういうものとして見るということは大切であり、意味深いことだと思います。私たちの人生は、生きることそれ自体が苦しみに伴われた人生であり、その苦しみの中で迷い、闘い、努力する他ないというのが私たちの実の姿です。しかし、どんなに迷い、闘い、努力しても、なおどうにもならない事態を抱え込んでいることも、私たちはよく承知しています。悲しみは人生の苦しみの中に、否むしろ、苦しみを突き抜けたところにあります。苦しみの段階では、なおそれに対抗し克服しようとする意志をもち、努力することも可能です。しかし、もはや手の施しようのない、ただ泣く以外に術のないのが悲しみということです。人はここでは全く無力な存在です。「悲しむ人々」とは、まさしくこのような事態を抱えている私たちのことです。
もっと突っ込んで、聖書が「悲しむ人々」と言うとき、具体的にはどういう人たちのことを言っているのでしょうか。
第一には、死の力と呼ぶ他ないようなものに直面し、その力の重さに喘いでいる者たちのことです。つまり、生命の瀬戸際に立つ者、老年の生命の寂寞(せきばく)をどうしようもなく感じている者、愛する者の死に出会っている者、運命的とも言えるサタンの力によって、他人と自分との間に深く癒しがたい分離・分裂を抱えこんでいる者、神の御前における自分のどうしようもない罪の現実に頭を上げることもできないでいる者、これらのどうにもならない実存、即ち頼りない状況を抱え、悲しみの中に置かれている人々のことです。
聖書が記す「悲しむ人々」の第二の意味は、社会の下積みに置かれ、圧迫の中で動きがとれず、涙を流している人々のことです。イザヤ書61章「嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(2~3節)。ここで「嘆いている人々」(「悲しむ人々」)と言う場合、それは当時の社会の中で、社会的な悪の犠牲となって、経済的にも政治的にも、文化や教養の面でも疎んぜられ、圧迫され、差別されて苦しんでいる人々のことを直接的には指していると言われています。マタイ福音書の「悲しむ人々」も、確かにそういう意味を持っているに違いありません。社会の下積みにされて、動きがとれず、涙を流し悲しんでいる人々は、今日、世界中に溢れています。貧困、飢餓、差別、政治的圧迫などが至るところで起っています。
さらに「悲しむ人々」の第三の意味を聴き取りたいと思います。これは、弟子たち・教会に対する語りかけです。私たち、教会が聴くべき悲しみの現実のことです。教会は神によって建てられ、神によって存在と使命とを与えられており、この世とは違った立場に立つものです。キリスト者とは本来そういう者としてこの世に置かれています。したがって、そこで自ずから生じざるをえないのが悲しみです。ボンヘッファーは、この箇所を次のように解釈しています。
「悲しむ人々」とは、この世が幸福とか平安とか呼んでいるものを断念して生きる用意のある者、この世と同じ音色を発することのできない者、この世と対等の立場に立つことのできない者のことである。彼らは祝宴のさんざめきに沸き返る船が既に浸水しているのを知っている。進歩と力と未来を夢見るこの世の中で、神の終末と裁きとを知り、この世がその備えを全くしていないことを見ている者たちである。ボンヘッファーはこのように、教会は悲しみを担う悲しむ者の群れであると言っています。教会はそのような意味で悲しんでいるものであり、そのようなものとして、この世に置かれていることを聴きとりたいと思います。
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「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」と記されています。「幸いである」というのは、あなた方が祝福の中に置かれていることは動かしがたく、また疑いようもない事実であるという意味です。私たちがもしキリスト抜きで、この言葉を聴くならば、それは何か気の利いた逆説であり、しかも実のない逆説として聴く他はありません。しかし、キリストがこれを語っておられ、しかもキリストの十字架と復活がその背景にあるのですから、この言葉は真実です。
「幸いである」という祝福の語りかけは、あなた方は何かあれこれの立派なことをしているから、徳を積んでいるから、祝福を与えようというのではありません。そうではなく、この山上の説教における祝福は、貧しさ、欠け、無力への祝福なのです。これはこの世の価値規準とは全く逆です。所有が多ければ多いほど強く、高い地位をもつ、というのが人間社会の、とりわけ今日の価値基準です。そのような中で主は無力な者への祝福を語ります。何も持たない者は、この世の事柄から希望を生み出すことはできず、ただ一切を、この世のものではない神から期待せざるを得ない状態にある者です。欠けにおいてしか存在できず、魂の飢え渇きの中に置かれている。すなわち、「悲しむ人々は幸いである」とは、人間本来の姿に置かれている者は幸いであるということでしょう。そういう意味合いのことが、ここに確かに語られていると思います。
しかし、それだけでは、「悲しむ人々は幸いである」という言葉の意味を十分に言い尽くしてはいません。冷静に考えてみるとき、無力さとか、欠け、貧しさなどは、それ自体では何の意味も持ちません。それがどのように位置づけられ、どのように受け取られるかということによって、初めて意味を持ってくるわけです。ここで私たちが「悲しむ人々は幸いである、その人々は慰められる」という言葉を聴く時、それはただ「イエス・キリストがそのように語られたのだからそうなのである」と言う他ありません。私たちが何故そうであるのかという理屈をつけることのできないキリストの宣言なのです。確かな約束であり、招きなのです。神は何故貧しい人を受け入れ、悲しんでいる人を慰められるのか、という問いは、私たちの側からは成り立たないということです。したがって、何故かと問うことはできず、ただ神御自身がそのようになさる、神ご自身がそう欲しそう意志しておられる、と言う以外に答えはありません。
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さて「慰められる」という言葉、もとのギリシア語では未来形が使われていますから、これは将来に属することで、キリストが再臨される折に成就されるべき約束です。その時には、人間の価値規準は空しくされ、神の御支配が確立し、もはや慰められないような悲しみは一つとしてないということです。その時には、いのちへと甦えらされないような死もまたありません。そのような将来における慰めが約束されているということを、先ず聴き取りたいと思います。しかしその上で、これは単に将来的なことだけでなく、現在すでに悲しむ者が慰められているということも、また聴き取らなくてはなりません。
そのように語られる主イエス・キリストが、十字架に死に復活されたキリストだからです。復活の主が悲しむ者と共におられるということが慰めであり、喜びだからです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる
―― 我活くれば汝らも活くべし」(ヨハネ14・19)と語られたお方が、私たちに伴ってくださいます。このお方が、私たちに、教会に、またこの時代に、何故泣くのか、もう泣かないでよろしいと語ってくださっています。この主の語りかけを聴いた者は、与えられたいのちと、賜物を活かして生きることができ、終りのときを見据えた生を生きることができます。終りの時を見据えた生とは、パウロが言う「四方から苦しめられても行き詰まらない、途方に暮れても失望しない」生であり、「打ち倒されても滅ぼされない」、「落胆」気落ちしない生(Ⅱコリント4・8~9、16)なのです。これが、あの朝、復活のキリストがおっしゃった「なぜ泣いているのか」という御言葉を聴く者の前に備えられている道です。
「あなたがたは、この世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)とキリストは言われます。私たちはこの御言葉を聴いた者として、慰めを受け、慰められた悲しみを悲しむ者として、この時代に、この世に生き、それぞれの使命を負い抜きたいと、心から祈り願うものです。