ヨハネから洗礼を受けようとするイエス、これを思い留まらせようとするヨハネ。そのときのイエスの言葉(一五節)に着目してみましょう。直訳すれば「いまはそうさせよ。義のすべてを成就することは、私たちにふさわしいことだ」となります。イエスがここで「義のすべて」と言うとき、それは新共同訳の訳「正しいこと」に示されるような正しい行いを総括したものではなくて、「義」の姿勢、態度、心のあり方の総括だと言ったらよいでしょう。これをイエス自身のあり方と教えに即して言うなら、「柔和と謙遜」ということに集約できるのではないか。少なくともマタイはそう見ています。
マタイによる福音書11章28節の有名な主イエスの言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」。
柔和と謙遜――柔和とは、どのような苦難の中にあっても他人に愚痴をこぼしたり責任をなすりつけたりすることなく謙遜にひたすら耐えて神に服従することです。柔和と謙遜とは、したがって、従順とへりくだりだと言ってもよい。神の意志に従順であること、神の意志に服従することが「義のすべて」だと言えるでしょう。このことは、その誕生から受難、十字架の死にいたるイエスの生涯全体について通奏低音のように響いている、マタイの一貫した基本的姿勢なのです。イエスの受洗に即して言えば、イエスが洗礼を受けるという事実が「正しいこと」なのではなく、イエスが洗礼を受ける際にも持ち続ける、柔和、従順、謙遜こそがイエスの「義」の姿勢、態度、心の姿勢に他ならないのです。
さらに言うなら、「義のすべてを成就する」ことが、イエスがこの世に来られたこと、その生涯のすべてだということです。5章17節のイエスの言葉。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。律法や預言者、すなわち旧約聖書全体、そこに啓示されている神の救いのご意志、その意志に自分は柔和に謙遜に服従する、それが義のすべてを完成・成就することに他ならない、とイエスは言っているのです。
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ここで、イエス受洗に先立つヨハネの宣教とは何であったかを振り返ってみたいと思います。
ヨハネがユダヤの荒野で人々に語ったのは、火のように烈しい審きの言葉であり、悔い改めへの勧告でした。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。~斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて、火に投げ込まれる」(3・7~10)。
私たちはこのバプテスマのヨハネの言葉の背後に、彼の深い嘆きを聞き取ります。ヨハネはユダヤの指導者たちや民衆一般に向って語っているだけでなく、自分こそまさしくこの言葉を骨の髄まで語りこまれなくてはならない者だという思いに駆れていました。自分自身こそ悔い改めをすべき筆頭者であると見ていたに違いありません。勢い自らに語る言葉は、傍らに人がいないときのような激烈な口調にならざるを得なかったわけで、さらにまた、神に対する畏れと同胞イスラエルに対する愛は、その深さのゆえに激しい叱責の言葉となりました。これがヨハネの悔改めを求める言葉の烈しい所以です。
そのヨハネが人々に施した悔い改めのバプテスマ――それは今日の社会改革とか人間改革などと重なる事柄だと言ってよいでしょう。ヨハネの水によるバプテスマは、ユダヤの人々にとって面期的な教えでした。人々は続々とバプテスマに与りました。しかし問題はそれで解決したのでないことは、ヨハネ自身が最もよく知っていました。彼のバプテスマによっても、神の人間に対する決定的な
「然り」は未だ聞くことはできません。イスラエルは依然として罪の中にあり、滅びの道を逃れることはできない。ヨハネにはありありとそのことが見えていました。ヨハネの深い嘆きはそこにあったというべきです。
ヨハネの深い嘆き、一種の絶望感――それは私たちがどんなに悔い改めたとしても、私たちがどんなにバプテスマを行っても、神の義に耐えうるほどの義をつくることはできないということです。神の義は、神の民であるユダヤの人たちの罪、またユダヤ人そのものを焼き尽くす炎となって燃えるものとしてしか思えないのです。いったい、そういう神の義の火の中に人間が生きていく望みがあるのか。義を求めれば求めるほど絶望も深くなる
――それがヨハネだけでなく、私たちが日毎に経験しているところではないでしょうか。
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しかしその時、イエスはヨルダン川のヨハネのもとに現れたのです。イエスはヨハネに向かって語ります。あなたが待っていた私が、あなたが予想していた通りではなく、このような姿で、あなたのもとに一人の悔い改めるべき者として立つことによって、あなたもまた塞がれていたと思っていた義の道が突破される、切り拓かれる。そのような意味で、主イエスは、ここですでに洗礼者ヨハネに先駆けているのです。先を行っているのです。
このことをもっとよく理解するために、もう一つ踏まえるべきことがあります。それは、この15節のイエスの言葉「私たちにふさわしい」という、この「私たち」という言葉の中にはイエスとヨハネだけでなく、もっと広く、もっと多くの人々、そして今在るこの私たちも含まれるのではないか、ということです。言うまでもありませんが、イエスはここに一人で立っておられるのではない。ヨハネに向かって一人で立っておられるのではない。悔い改めのバプテスマを受けるために集まって来ている人々の中に立っているのです。そこから声を発しているのです。特別な玉座に座って「私はあの人たちとは違う」とおっしゃっているのではない。自分の罪を悔い改めなければならない、少なくてもそのことに気づいた人々、悔い改めなければならない自分の惨めさのために泣いている人々、自分の貧しさにやりきれない思いを抱いて、エルサレムの都を離れてヨルダンの畔までやって来た人々、その人々にとって共通のことは、今ここで、この罪を解決しなければ自分の将来の扉を開くことができない、という思いだったに違いない。何とかして押し動かそうとしているが、この扉は動かすことができない。であればなおのこと、ここで言われている「私たち」には、今ここに生きている私たちも含まれるに違いないのです。
そういう私たちであるならば、そのような人間がなお神の義に見合うことができるのか、ふさわしくあれるのか――そのことが問題となります。それはこういうことでしょう。私たちは本当に神を畏れることができるか。神を畏れて、自分の罪を恥じることができるか。罪を犯したなら犯したで、それを率直に言い表すことができるか。悔い改めることができるか。思いがけず迫ってくる自分の死に怯えるとき(怯えることは人間として已むを得ないかもしれないけれど)、しかし、そこでなお、その思い煩いを捨てて、死を越える神との永遠のいのちの交わりを確信することができるであろうか。それが私たちの義を問うということでしょう。私たちの義とは、ただ私ひとりのこととして理解される徳というようなものではなく、いつも神との関わりのなかでこそ捉えられるものです。神といつもきちっと向かい合うことができるか、関わることができるか。祈ることができるか。バプテスマを授けるとき、洗礼者ヨハネが先ず求めたことは、「人間は神のごとくなれ」ということではなくて、「本当に人間らしく神の前に立て」ということだったのではないでしょうか。
しかし、本当に人間らしく神の前に立つ、人間らしい義の道に生き切るということは、どんなに難しいことでしょうか。そんな怯え、途方に暮れる思いにたたき込まれているような私たちのために、主イエスは、今ここで、洗礼者ヨハネを追い抜くようにして、義の道の先頭に立ち、すべての者が通れる道を開くために、先だって歩み始めのだ――そう主イエスが私たちに語りかけておられるのではないかと思います。イエスは一人の開拓者として、私たちすべての者の義の道を、罪人としての義の道を開拓してくださったのです。
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イエスがバプテスマを受けたその時、天からの声が聞こえたと聖書は記しています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
この言葉は私たちに旧約聖書の御言葉を思い起こさせます。
イザヤ書42章1節、 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。 わたしが選び、喜び迎える者を」。
ここでは、ユダヤの民を救うために、やがて来るべき「王」ではなく、「僕」が語られています。さらにイザヤ書の53章では、この僕が「苦難の僕」として次のように謳われています。
「彼が自らをなげうち、死んで、/罪人の一人に数えられたからだ。/多くの人の過ちを担い、/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」。
洗礼者ヨハネのもとに来て、悔い改めるべき者の中の一人として主イエスが立ったとき、この「苦難の僕の歌」が成就するのです。主イエスは、罪人の一人に数えられます。この者こそが、わたしがあなたがたに与える王であり、わたしがあなたがたに与える僕である。この僕は、あなたがたと共に仕える僕、いや、あなたがたに仕える僕であると言われているのです。この王と僕との不思議な結び付き、それこそが主イエスの奥義であり、主イエスがここで成就しようとしている神の御心の深さがあるのです。そしてこのことは、私たちの将来を、御自分の手にしっかり捉えようとする、主イエスによる神のみ業、救いのみ業の確かな始まりを告げています。私たちが自分の手で自分の将来を確保することにはるかに勝る、はるかに確かな将来に生きる道なのです。イエス・キリストが私たちのために開拓してくださった道、義の道なのです。