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 2012年12月16日 礼拝説教 【一人のみどり子の誕生】 笠原 義久
ヨハネの黙示録12章1~6節

 今朝の「ヨハネの黙示録」は、終末的戦争をモティーフにした一つの神話的物語です。この種の神話は、「ヨハネの黙示録」が書かれた時代、地中海周辺に国際的な広がりをもっていたと言われています。これらの神話にはいくつかの共通する要素があるようです。すなわち、女神、神の子、巨大な赤い竜、その竜の母と子に対する敵意、母子の保護というモティーフなどです。多くの場合、「竜はまだ母の胎の中にある子を求めて母を追う。その母は保護された場所に逃れて、子どもを奇跡的な仕方で出産する。母子は執拗な竜の追求から逃れる」というような筋立のようです。



 さて、まず二つのことに注目してみたいと思います。

 一つは「天に大きなしるしが現れた」で始まる一節の言葉です。大きなしるしとは何でしょうか。この「しるし」という言葉は、「前兆」とか「兆候」とか、どちらかと言えば良い意味で使われています。ここに一人の女性が登場します。「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にして、頭には十二の星の冠をかぶっていた」。これは私たちが想像できるイメージをはるかに超えていて、目に見える形で捉えることはできません。一体、何の象徴でしょうか。この女の姿は貧しい姿ではなく、驚くべき光輝く姿です。太陽を着て月を足の下に置いている。全宇宙的、全世界的、全天全地に輝く姿、これははっきり言って、非常に祝福された姿を表していると言えると思います。古くから神の民イスラエル、また新しい神の民であるキリスト教会は、この黙示録に示された輝かしい女の姿の中に、教会の姿をはっきりと認めてきました。今この地上にある教会が、どんなに破れ多く、難破船のように惨めでガタガタに見えようとも、本来教会は、その本質において、全天全地を貫く祝福に与っている群れだというのです。

 第二に注目させられるのは、この女が子を宿しているということです。二節に「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのために叫んでいた」と記されています。子を宿した女は、産みの苦しみの中にありました。聖書はこの「産みの苦しみ」という言葉を幾度となく使っています。

 一人の女に象徴されている教会が、今「産みの苦しみ」を味わっている。神の民が苦しんでいる、それは、全世界の苦しみと呻きを代表している、と言うのです。しかもその胎の実は希望の星です。けれども、産まんとしながら、産むことのできない苦しみに彼女は泣き叫んでいる。

 旧約聖書には「産みの苦しみ」という言葉が随所に出てきます。その一つ列王記。

「~ 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言われる。『今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです』」」(列王記下19・2以下)。つまり、「胎児がまさに生まれようとして、その力がない」という言い方で、旧約の古い時代から、希望の星であり、救いの実であるものを産み出すことのできない全人類、全被造物の悲しみと涙を言い表してきました。だからこそ、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で、「わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(4・19)と言って、女が子を産む時の苦しみになぞらえて、私は労苦と悲しみの多いこの世に、救いと希望の星である胎の実を産み出していかねばならない。このことが、全世界と全人類の悲願なのだとパウロは言っているのです。



 さて、以上の光輝く一人の女、しかも身ごもって産みの苦しみを味わっている一人の女という第一のしるしに続いて、著者ヨハネはもう一つのしるしを私たちに見せます。

 3節以下にこうあります。「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」。

 聖書は古い時代から、神に楯突き、神の民を誘惑し、神の民をそこなおうとする者を蛇や竜(旧約聖書では竜のことを「レビアタン」とも言っています)にたとえてきました。この赤い竜は、大変猛々しい暴力的な怪物です。この赤い竜に象徴されていることは何でしょうか。このグロテスクな怪物の中には破壊的で悪魔的な力が充満しています。この竜が暴れるところでは、その尾が一振りされただけで、あらゆるものがなぎ倒され、次から次へと破壊されていくのです。

 黙示録の教会の人たち、その迫害の時代に、信仰的な言葉をきちんと言うことを禁じられた時代には、彼らは謎のような言葉で語らざるを得なかった。彼らはまるで非現実的・荒唐無稽な怪物の姿によって、現実にある圧倒的な暴力や武力を表現したのです。猛々しい破壊力を持ったその力は、いつの時代も人間の体と魂を壊し、具体的な日々の生活を切り裂いていくものです。それはしばしばローマ帝国といった国家権力の形で現れます。あるいは最新の破壊兵器の形で現れます。今日も大量破壊兵器がつくられ、大量に人間を殺傷し、人をずたずたにしていくものがつくられていきます。それらを廃棄し破壊すると称してさらにそれらを上回る兵器が作られていきます。そこに働く原理は、殺戮・破壊の原理であり、そうさせる力が、この赤い竜の働きと力に表されていると言えないでしょうか。今も世界はその猛威に脅え、しかもこの赤い竜は、女が今産もうとしている子を喰い尽くそうとして前に立ちはだかっています。私たちは夢物語のような「ヨハネの黙示録」の言葉に、ただ物語を聞いているように、鼻であしらってはいられません。私たちは毅然とさせられるのです。いつの時代も、神に楯突き、神のひとり子イエス・キリストに逆らって、これを圧迫してきた国家権力や偶像崇拝の背後にあるサタンの策略は、聖書が言うように巧妙なのです。そして、いろいろと姿を変えてきます。パウロの言葉で言えば、サタンもまた光の天使に擬装するのです(Ⅱコリ11・14)。うるわしくて、全人類に役立ち、その文明の進歩に貢献する好ましい光の天使の形をとることもあるのです。私たちは、原子力の平和利用といって、原子力というクリーンなエネルギーは人類の輝かしい未来を約束するというサタンの策略を見くびってきたのではないでしょうか。

 黙示録の教会の人たちが今の私たちのありようを見たなら、赤い竜の跳梁を許し、竜の手の込んだ策略によって肉体的にも精神的にもずたずたに切り裂かれているその姿を見たならば、赤い竜をきちんと見抜いていないからだと言うでしょう。

 さて今、この悪魔的な力が、女から産まれ出る子を喰い尽くそうとしていると記されています。果たしてこの赤い竜は勝つのでしょうか。この猛々しい赤い竜と無力で小さなみどり子。初めから勝負にならないではないか。みどりごはただの一撃で倒され、ただの一口で喰い尽くされてしまうに違いない~常識的にはそうでしょう。実際私たちもそのように思います。しかし、答えは否です。竜は勝つことはできないのです。

 五節に「女は男の子を産んだ」とあります。聖書はこのみどり子のことを、「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」と記しています。弱々しいはずのこの子は、凄まじい権威、鉄の杖を持ち、すべての国民を治める権威と権能を持っている。彼は、神の御座に座する者、そのように言われています。

 この驚くべき幻から、教会は目を凝らして見、悟ったのです。この地上にある現実の教会、神の民が、今いかに苦しくて泣き叫んでいても、その女から、教会の星であり、全人類の希望の星である者が産み出される、ということを。もう私たちはためらいなく言うことができます。ここには、王の王、主の主、天から地の下に至るまで、生ける者にも死ねる者にも主であり給う御方、十字架の死と復活によって勝利を勝ち取り給うた御方、今や天の御座にあり給う御方が、はっきりと私たちの鈍い目にも描き出されている、と。



 最後の6節、「女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が1,260日の間養われるように、神の用意された場所があった」。女には逃れ,の場がありました。立ちはだかるサタンの悪の力に対して、教会はしばしば痛めつけられます。しかし、神の備えられる逃れの場があります。依然として彼女は荒野にいなければなりません。荒野は、いのちが育たないところです。いのちの水に欠け、飢えと渇きに悩まされるところです。旧約の預言者アモスは、アモス書八章において、飢饉について、「それはパンの飢饉ではない、水に渇くのでもない、主の言葉を聞くことの飢饉である」(一一節)と言い、なくてならぬものをいい加減にしていたら、必ず砂漠になり、人間の心は干からびていく、と警告しています。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、渇くことがない」(ヨハネ4・14)と言われました。せっかく神御自身が人となって来て下さった、そのイエス・キリストをないがしろにするところには、砂漠しかあり得ないのです。しかし女には、荒野であっても、神の備えてくださる逃れの場がありました。パウロはこの逃れの場のことを、コリントの信徒への手紙Ⅰ10・13で次のように言っています。「 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。この唯一耐えられるようにしてくださる逃れの道こそ、イエス・キリストです。私たちが今その到来を切に待ち望んでいるイエス・キリスト、その御方なのです。

 

20121216日礼拝説教)
 
 
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