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 2012年12月2日 礼拝説教 【人の思いと神のご計画】 林原 泰樹

イザヤ書55章8~9節
ルカによる福音書1章11~13節、26~3節

  その日、祭司ザカリアは、自分の組が当番に当たりました。神殿で奉仕する者は、くじによって決められていましたが、パレスチナには10,8000人もの祭司がいたということですから、そのくじに当たる確率は非常に低いものでありました。従って彼は非常に珍しいこのくじに当たったということで光栄に思ってその任務にあたり、心を込めて、イスラエルを代表して、平和と祝福とイスラエルと全人類の救いを祈ったことでしょう。するとその時です。天使ガブリエルがザカリアのもとへ遣わされ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、~準備のできた民を主のために用意する」と告げられました。あなたの願いは聞き入れられたという言葉は、一見すると個人的な願いの成就のようにも見えますけれども、そうではありません。子供のいなかったザカリアの家に子供が生まれるということは、確かにこの家にとって大きな恵みであったことには違いありませんが、この御告げはそれだけの意味しか持たないものではありませんでした。イスラエル全体、また世界全体に対して与えられた恵みの告知でした。生まれて来る子どもは準備の出来た民を主のために用意する人物となると言われています。つまり、救い主のための道備えをする者となるということです。ザカリアはその人物の父として選ばれたことを告げ知らされたのです。ところがこの告知をザカリアはすぐには受け止められずに彼は「何によって私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」と言ったのでした。ザカリアは子供が与えられることを願っていましたが、もう既に諦めており、彼の頭には違った人生設計があったのです。故に彼はすぐには信じられずに、しるしを示すことを神に要求したのでした。それに対して天使を遣わした神は、ザカリアの口が利けなくなるようにされました。それは、人間的思いをストップさせるためでした。そして神はザカリアを黙らせた上で、ご計画を先に進めて行かれたのでした。

  次に聖書に書かれているのは、ザカリアの妻エリサベトのことです。エリサベトは身ごもり、身ごもったエリサベトのところに同じく天使から御告げを受けたマリアが訪れました。その時エリサベトは聖霊に満たされてこう叫びました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。

  エリサベトはザカリアとは違って、すでに人間的な思いが突破され、神のご意思を受け入れていました。そしてやがて月が満ちて男の子を産むのですが、子どもが生まれた時に、彼女は近所の人々や親類に対して驚かせることを言い出したのです。エリサベトの子どもが生まれたその八日後に、近所の人々や親類は家に集まり、割礼と命名をしようとしました。慣習では父の名に因んだ名前が付けられるということですから、ザカリアという名が子どもには付けられる筈でした。ところが母であるエリサベトはそこでこう言いました。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」。これは神の御告げで名付けよと言われた名前ですから、御告げを受け入れていた故の発言です。近所の人々や親類は驚いて言いました。「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」。そして人々は最早命名を母親だけに任せてはおけないと思い、父親であるザカリアにも伺いをたてました。するとそこでそれまで口の利けなくなっていた父親のザカリアは、板に「この子の名はヨハネ」と書きつけたのでした。つまりこの時に至ってザカリアは、最早以前のようではなく、神のご計画を受け入れる者へと変えられていたということです。するとその時、ザカリアの口は開き、話が出来るようになり、彼は声の限り神を賛美し始めました。その場にいた人々は皆驚いた、しかし同時にそこに神の働きを見て「恐れを感じた」と記されています。以上が今日の箇所に書かれている洗礼者ヨハネ誕生の逸話です。

  ここで私たちに示されていることは、神のご計画は信仰をもって受け止め、従うべきであるということであります。ザカリアのようにではなくエリサベトのようになりなさい、また人の思いは中断しなければならず、その中で主の道だけが堅く立つ、ということであります。今日の旧約聖書の箇所のイザヤ書55章8節9節にもこうあります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」。

  人間の思いが如何なるものであろうとも、神はご自身の良しとし給うことを成し遂げられるのです。しかもそれは最善なのです。ですから私たちに求められているのは、この神の御心を受け入れて生きることなのです。私たちもそれぞれに人生の計画を立て、達成すべき目標を定め、それに向かって努力しております。しかしこうした私たち人間が抱く人生設計を中断させたり、方向を替えさせたりする力が働くことがあります。神のご計画です。それは私たちの予定を覆して、予期していたこととは違った方向へ導くものです。そこで私たちは苦しむかもしれません。抱いていた夢、計画からすれば、横道に逸れ、残念あるいは失敗であると思われる道に進まされます。しかしそれは人間的な思いで判断した場合のことなので、大切なのはそこで神は何を計画しておられるのかということです。私たちの計画からすれば曲げられた人生、けれどもそれが神の良しとし給う人生ならば、そういったものに私たちは導かれる時、我が身を委ねたいと思います。神のイニシャティブの中に自己を投げ出し委ねて行くこと、それが私たちキリストの弟子の生き方です。

  もちろん、私たちの思いは容易には神のご意思を受け入れることはできず、葛藤と不安を生じさせ、怒りや悔しさが生まれます。でも、それを通して導かれる神の遠大なご計画を見出すことができるよう、立ち止まって神に祈り、御言葉を求めたいと思います。その時神は私たちの心の目を開いてくださいます。そして神が行おうとしておられる御業を明らかにし、ご自身を顕わしてくださることでしょう。ザカリアは反論し、そこで口が閉ざされましたが、向きを変えられ新しく方向付けられ、彼の口は再び開かれました。それが私たち主の弟子の人生でもまたあるのです。この朝、私たちもお互いそのように導かれているのです。ザカリアと同じように、黙していなければならない時もあるかもしれません。しかしその者は直に神賛美の内に再び歩みださせられるのです。

  ザカリアとエリサベトの懐妊告知の話と平行してマリアの受胎告知の話もルカ福音書には書かれています。マリアの場合はザカリアとは違っていたか、いいえ、彼女も最初は、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と、言ったのでした。けれども御使いはマリアにエリサベトの懐妊というしるしをも示し、「神にできないことは何一つない」と言ったのでした。そこまで聞いてマリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。そのように、信じない者ではなく、信じる者になるようにと導かれるのが神の業です。彼女は疑いの心を捨てて、神のご計画に身を委ねたのでした。私たちもそうでありたいと思います。私たちもマリアと共に「わたしは主の僕、はしためです」と言って神のイニシャティブに全てを委ねて生きる僕とならせて頂きたいと思います。

  教会の暦の上では今アドヴェント(Advent)にあります。アドヴェントとはラテン語の「到来」という意味のアドヴェントゥス(Adventus)から来た言葉であります。言うまでもなく到来するのは神の御子であり、福音であります。ですがこのラテン語のアドヴェントゥスからきている言葉の中にはまた「冒険」を意味する英語アドヴェンチャー(Adventure)という言葉もあります。両者は同じ語源から派生している言葉と理解出来ます。神の御子の到来の出来事は、神の冒険でもあったということです。御子は受肉して私共のもとに来てくださいましたが、その来訪は危険を冒す冒険でありました。何故ならその先には十字架があったからです。御子を派遣する神は、御子を十字架に向かわせるという冒険をされたのです。それは神が私たちと共にあるために必要であったために実行されたのでした。神は私たちのために冒険され、深く傷つくことを引き受けられたのです。御子は冒険をされるために人の世に入って来てくださった、それがアドヴェントです。ですから私たちも冒険を引き受けなければなりません。それはチャレンジです。人生の中で、神が近づいてこられ、神に出会う時に、私たちもその神によってチャレンジを受けるのです。すなわちそこで今日の箇所にもあったように、人生が神のご計画によって方向転換させられるかもしれない、直ぐには受け入れられないご計画が示されるかも知れない、そのような時を迎えるのです。ザカリアのように、神によって備えられた人生へと冒険的に飛び込んで行くことが求められるのです。エリサベトもマリアもヨセフもそうでありました。私たちは神が近づいてこられる時にそのような事態を迎えます。アドヴェントはそのような時です。ですからこのアドヴェントに際し、お互い、自分に向けられている主のチャレンジの御声を、耳を研ぎ澄まして聞く者でありたいと思います。主があなたを御入用なのです。私はザカリアでもエリサベトでもマリアでもヨセフでもない、そう思われるでしょうか。今日の御言葉は一人ひとりに語られているのです。「私はもう歳をとっています」と言うかもしれません。「私にはもう別の計画があります」と言うかもしれません。しかし神にご計画があるなら、そのご計画は私たちの思いを遥かに越えた素晴らしいものなのであります。私たちの人生の主人は神であるゆえ、私たちは自分の計画ではなく、主のご計画に生きることを得させて頂きたいと思います。この朝私たちは「主よ、あなたの導きの中を信頼して歩む者とならせてください」と、お互い祈らせていただきたいと思います。

 

2012122日礼拝説教)
 
 
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