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(2012年4月1日主日礼拝説教)
     

 2012年4月1日 礼拝説教 【主イエスの執り成しの祈り】 笠原義久

ヨハネによる福音書17章6~19節

 ヨハネ福音書から浮かび上がってくるイエスは、「受難」という言葉から私たちが受ける何か受身的な姿勢とは少々違った姿をとっています。ヨハネ福音書は、十字架上のイエスは、今や万事が完成した事を知り「すべてが終わった」、文字どおりには「すべてが完成した」と宣言して息を引き取った、と記しています。神の栄光をあらわすためにこの地上に遣わされ、その栄光を余すところなくあらわし続けた、その地上での業の仕上げが、十字架上の死であることを「すべてが完成した」という言葉はよく示しています。「世の罪を取

り除く神の小羊」と宣言したバプテスマのヨハネの言葉は、十字架上で全き完成を見たのです。イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」として、自ら進んで十字架への道を歩み出します。

 受難のただ中にあるそのイエスが、自分が去った後の愛する弟子たちのことを配慮して神に祈った祈りが、今朝の聖書箇所です。

 ここでのテーマは、一言で言うなら、「教会はイエスの執り成しの祈りの下にある教会として、保護され、聖別されている」ということでしょう。教会は、イエスの執り成しの祈りに覆われ、その祈りによってのみ立ち行くことが許されている。11節の「守ってください」、17節の「聖なる者としてください」、この二つのイエスの祈り・願いによって支えられていると言ってよいでしょう。

 それでは、「守られている」「聖なる者とされている」とは具体的にどういうことであるのか。ここで、「イエスの執り成しの祈りの下にある教会」というテーマは二つの方向に展開していきます。

 第一は、イエスの執り成しの下にある教会として、「私たちは神との交わりにおいて守られている」ということです。神との交わりにおいて守られているということの根拠は、一〇節の「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」という言葉にあります。神の言葉に聴き従う者は、イエスに属する者、イエスのものである。そのような者として神はイエスを賜ったのである。従ってイエスに属する者は神に属する者なのであり、神との交わりにおいて守られている、そのように理解することも可能でしょう。しかし10節の言葉は、直ちに11節の「わたしたちのように彼らも一つとなるためです」という言葉に繋がることに注意しなくてはなりません。父と子との緊密な一致は、この地上で私たちが一つとなるためである。そしてイエスの地上での使命・すべての業の目的は、私たちの間に一致を造り出すことであった、と言われています。しかし私たちの間の一致とは何でしょうか。イエスが私たちに一番望まれたことは、私たちが「互いに愛し合うこと」です。

ヨハネは、「互いに愛し合う」ということの原型は、神とキリストとの交わりにあると言います。この両者の交わりに基礎づけられて、すなわち愛に基礎づけられて初めて、愛による一致という事実は開始されるのだ、と言います。その愛の極致が、「神の御子が人となり給うたこと」「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、おのれを空しくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」― 愛の極致はここにあるのです。私たちの愛というのは、このような神の愛に似たものとして、キリストに属するものとしてこの世の様々な事態の中で、人と同じ荷を背負って、同じ立場に立とうとすること ― 私たちの愛とはそういうものです。これが私たちのギリギリの愛です。そのような愛によって私たちが一つとなる時、「私たちは神との交わりにおいて守られている」。イエスの執り成しの祈りの下にある教会は、そのようなものとして守られています。

 第二は、イエスの執り成しの祈りの下にある教会として、「この世との対立において守られている」ということです。対立という言葉はあまり適切ではない、むしろ「この世との関係において守られている」といった方がよいかもしれません。「教会とこの世」という問題を、ここで総括的に申し上げることは控えますが、教会とこの世との関係について、ここに非常に原理的かつ基本的な理解が示されていると思いますので、この点について聖書から聴きたいと思います。

 先ず、教会とこの世との違いは、一方は聖なる場所、いま一方は俗なる場所といった空間的・自然的な違いとして考えられてはいないということ、あるいは、行いの正しさ悪さ・品行の良さ悪さ、つまり倫理的・道徳的な意味での違いとしては考えられていない。そうではなくて敢えて言うなら、救いの問題として、神の救いのご計画の視点から理解されているということです。この世とは、神に敵対する諸々の力の支配する領域として、ヨハネ福音書では一四節からも明らかなように、イエスを拒否し憎むことにおいてその本質を決定的に暴露するところ、神の救いのご意志に「ノー」という返事を返すことによって、自らを出口のない穴蔵の中に閉じ込めているところ、端的には「闇」、それがヨハネ福音書の「この世」です。

 ところで、イエスのこの祈りの中には、この世と教会の関係を端的に示す言葉がいくつかあります。「この世に」「この世のもの」「この世に向かって」などです。第一は、「この世に」「この世のうちに」、すなわち私たちの家族関係の中に、また仕事の関係・社会関係の中に、そこでの様々な問題、負わされた課題の中に、私たちはとどまり続けます。そこから逃れることはできません。しかしイエスは言います。「あなたがたは、私がそうであるように、この世のものではない」、「この世からのもの、この世に属するものではない」と。キリストに属するものは、その新しい命の故郷をこの世に持たない。したがってこの世のものではない、と。イエスは、さらに続けます。この世にあって、しかしこの世のものではないという本性を与えられた者を、私は「この世に向かって遣わす」と。神がイエスをこの世に遣わされたのと同じようにして、イエスは私たちをこの世に遣わすというのです。

 神がイエスをこの世に遣わしたことは、この世に危機をもたらしました。イエスの派遣によって、この世はこの世であることの本質、つまりとことん神に敵対するという本質を露にしました。しかしイエスは決して自分をこの世から分離することなく、しかし徹底してこの世を批判し、これを闇から光へと、その思い上がりから本来あるべき神との正しい関係へと回復するために、命へと救い出すために奔走したのです。イエスのこの救いの御業の極致は、最後一九節の「わたしは自分自身をささげます」という言葉にあります。この「献げる」という言葉は「聖別する」とも訳しうる言葉です。もともと、犠牲にされる動物の潔めと、また犠牲の祭儀を執り行う神殿の祭司の潔めをも意味します。したがって「自分自身を聖別する」とは、イエス自らが祭司となり、同時に犠牲の動物となること、すなわちイエス自らの死を指しています。イエスは祭司として、神を人間のところへもたらしました。しかし同時に自らを犠牲として人間を神のところへともたらしました。イエスは一方で神の輝くばかりの栄光を、他方であくまでも神に敵対しようとする人間の凝り固まった意志をみずから背負い込んで、十字架へと決然として赴かれたのです。

 教会は、そのイエスによってこの世へと派遣されています。この世から自分を分離するのではなく、この世から逃避するのでなく、かといって敬虔でこの世から超然としたありようによってではなく。むしろ教会は、この世とイエスの弟子であることの絶えざる接点となる場所へと遣わされるのです。私たち社会の、また様々な問題が渦を巻いているところこそ、まさにその場所こそが、絶えざる問題領域・闘争領域です。私たちはその領域へと、主の祈りにある「悪より救い出したまえ」という祈りをもって赴くのです。主イエスもそのことを一五節にあるように「悪い者から守ってください」という執り成しの祈りをもって祈っていてくださるのです。

 イエスの執り成しの祈りの下に置かれている教会 ― しかし教会は、主の御足のあとを辿る業をなすことによって、教会自らを輝かし、誇り示すのではありません。あるいはイエスの業の欠けていたところを補いこれを完成させるのではありません。なぜなら主イエスは、十字架上の最後の言葉「すべてが完成した」、この言葉をもって、その業を余すところなくなし終えられたからです。教会に求められているのは、十字架上で成し遂げられたイエスの業をアーメンをもって受け入れること、そしてイエスとの交わりのうちに教会が留まり続けることです。

 ハイデルベルク信仰問答の中に、使徒信条の「主は苦しみを受け」という小さな句は何を意味していますか、という問いがあります。この問いに対して、「主が、この世の御生涯において、ことに、その終りにおいて、絶えず、全人類の罪に対する、神の怒りを、身と魂とをもって受けて、その御苦しみを、唯一の宥めの供え物として、我々の魂を、永遠の刑罰より救い、我々のために、神の恵みと義と永遠の生命とを得てくださるに至ったこと、であります」。

 私たちは今この時、「主の苦しみ」「受難」を、まことの悔い改めと感謝をもって深く覚えるよう促されています。かつて多くの修行僧たちは、主の受難に与るべく自らに苦役を課し、自らの体に鞭打ったと言われています。しかしキリストとともに苦難に与るとは、決して人間が自分で選択し造り上げた苦役や難行を自分に課することを意味するのではありません。宗教改革者ルターは、そうしたすべてのことを「子供っぽい無用の業」と呼んでいます。さらにまた「人間は苦難を作為的に捜し求めるべきではない。神の行為によって贈られた幸いな日々を感謝して受け取るがよい。十字架や苦難を何人もみずから創り出すには及ばない」とも言っています。

 私たちは、今朝、私たちの教会のために主が祈られ、今も私たち教会をその祈りのうちに置き給い、主の教会として立たしめていてくださる御憐れみを、神の行為の賜物として、受難週の想いのうちに止めたいのです。

201241日主日礼拝説教)

 
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