信濃町教会        
トップページ リンク アクセス
われらの志 信濃町教会の歴史 礼拝 牧師紹介 集会 新しい友へ
説教集 教会学校 会堂について パイプオルガン 神学研究・出版助成金

  説教集  
     
     

2011年10月16日 礼拝説教 【神と自然】 稲垣千世

ヨブ記28128/ マタイによる福音書82327

 聖書の宗教は歴史的であるというその意味は、神の啓示の場は本来人間の歴史にあり自然ではない、ということです。聖書の宗教が契約を基本とすることも神の啓示が歴史的啓示によるということを意味します。旧約の場合、契約は神ヤハウェと民イスラエルの特別な関係を言います。その内容は、ヤハウェはイスラエルの神でありイスラエルはヤハウェの民である、ということです。契約という言葉はこの神と民との歴史的な関係を法的に表現した言葉です。イスラエルの歴史においてこの神と民との契約関係はモーセによるシナイの契約に始まると言えます。

 神と人間との契約が歴史的なものであることは、この関係が全く歴史のみに限定されることを意味するものではありません。人間はこの地上において歴史を形成していきます。従って人間の歴史形成の実質的な土台は自然です。聖書が創世記で始まり、創世記がまず天地創造から始まっていることの理由もここにあります。何故なら自然と無関係な人間は抽象的な存在でしかないからです。聖書の宗教がどんなに歴史的なものであっても自然を無視しては事実上成り立ちません。従って歴史的啓示の宗教であっても自然を問題としないわけにはいかないのです。自然は神また人間との関係においてどんな意味を持っているのでしょうか。

 ヨブ記28章は前後の章から独立した「知恵」を歌った長い詩です。12節に「知恵はどこに見出されるのか、分別はどこにあるのか」と歌われていますが、この言葉は20節でもう一度繰り返されています。この詩には聖書の時代の鉱山の技術、抗夫の厳しい労働とその苦労が歌われています。人間はそのような技術と労苦によって地下から価値ある様々な鉱石を掘り出します。しかも人間以外の他のどんな動物もそれがどこにあるのかを全く知りません。しかし、この歌が歌っている知恵はどこに見出されるのか、人間は価値ある様々な鉱石や宝石さえ自らの知識と技術をもって掘り出すことができても、知恵を見出すことはできない、と歌います。そればかりではなく、この知恵は他のどんな貴い宝石と比べてもその価値は遙かに高いと歌います。 23節からは風や雨、稲妻などの気象現象も神の支配下にあることを歌います。そして最後に「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」と歌ってこの詩は終わります。知恵は本来人間に関わるものですが、しかし、それはまた自然にも関わっています。自然は聖書の中でどんな意味を持っているのでしょうか。ヨブ記の中で自然はどのように語られているのでしょうか。

 116節。神は天より火を下してヨブの羊を焼き払う者です。119節。神は大風を送ってヨブの家を押し潰す者です。510節。神は雨を降らせ水を送る者です。712節。神は混沌を意味する海の怪物や竜の見張りをする者です。956節。神は山を移しこれを覆します。地を震い動かしその柱を揺り動かす者です。99節。神は天体を支配する者であり、天体を創造した者も神です。私たちはここに天地創造と自然支配の神に出会います。神は自然及び人間の創造者であると共にまたその保持者です。

 ヨブ記に現されている自然は親しむべき優しい自然ではなく、むしろ荒々しく時には冷酷な自然です。自然はもちろんそれによって神が人間にその恵みを与えるものです。神は地に雨を降らせ野に水を送ることによって、地上は美しく豊かにされ生き物に幸いをもたらします。しかし、その自然は水なき谷川の如く、砂漠を旅する隊商を迷わせ大きな失望を与えるものでもあります(61720節)。苦しむヨブに神は獅子の如く激しく襲いかかります(1016節)。ヨブ記における自然は人間にとって親しみ和むものであるというより、人間に対して抵抗的であり、建設的であるよりは破壊的です。私たちはここに自然の暴威の前におののき恐れ、打ちのめされる人間の無力な姿を見ます。自然はかくも人間に厳しく、険しく対立しています。

 「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」という言葉でヨブ記は始まります。ウツの地。つまりカナンの沃地ではなく南の荒れ野の牧畜民の住む地域です。ヨブはその頭でした。この地域の自然は人間に対して温和ではなく苛烈です。富み栄えていたヨブの財産を奪いその家庭を破壊したのは火であり大風でした。このような自然の中にあって、それでもなお人間はどのようにして生き続けることができるのでしょうか。これがヨブ記のテーマです。ギリシア人のように自然を調和(コスモス)と見なして、そこに普遍的理性的な法則(ロゴス)を発見していくことはヘブライ人には非常に困難です。砂漠的な自然は苛烈を極めています。どうしたら自然と人間との間に調和の関係を結ぶことができるのでしょうか。

 2823節からの言葉に注目します。ここでは風、水、雨、雷といった気象現象も神の支配下にあると歌っています。26節の言葉を原語に近い言葉で言い換えると「神が雨のために規定を設け、雷の閃きのために道を設けられた時」となります。ここで「規定」と訳された言葉は他のところでは「法」とか「掟」と訳されている言葉です。また3833節の神のヨブへの呼び掛けの中の「天の法則」の「法則」はこの「規定」と訳された言葉と同じ言葉です。

 「規定」「法則」「道」「掟」とは皆、本来は人間に関わり、特にイスラエル民族が守り行うべきもの、彼らが歩み行くべき指針であり、それはヤハウェからその民に示された律法です。この言葉は神と民との契約が保たれるための具体的な規準、または条件を意味する言葉です。十戒のように神ヤハウェと民イスラエルとの契約関係、あるいは人と人との法的な関係を定めている「掟」がここでは天候や気象、天体とその運行に当てはめられて語られています。律法的歴史的意味を持っていたこれらの言葉がヨブ記において宇宙的自然の運動について用いられているのです。

 旧約聖書は自然の中に一つの法則的なものを見出そうとしています。しかもヘブライ思想においては自然の法則を普遍的絶対的なものとして、それによって人間の外の世界も内の世界も共に動いているとは考えません。世界は全て直接創造者なる神に繋がっています。従って、聖書の言う法則は神の意志やその力を制約したり否定したりするものではありません。この世界の始まりにおいても、また歴史の過程においても、神は常に創造者として直接全ての被造物に働きかけてきます。天地創造の神が定めた規定や法則が人間に与えられているように、それと同じものが自然の中にも見出されると考えているのです。

 苛烈を極める自然を土台として神の前に人間はどうしたら歴史的に生き続けることができるのか、これがヨブの問いだと言えるでしょう。自然及び歴史の世界の中で起こる一つひとつの出来事が、創造者である神と繋がり、その神の顧みと守りがなくては、人間もあらゆる生物も一日たりともその命を在(ながら)えることはできない、と聖書は語っています。詩編121編はこのことを美しく歌い上げています。天地の創造者なる神に常に守られることなしに、このような苛烈な自然の中に生きていくことは人間には許されていません。神との契約関係なしには人間は自らの力だけではこの厳しい自然の中にあって生きていくことはできないのです。

 私たちはヨブ記において人間と激しく対立する自然を見ます。一体どうすればこの人間と自然との間に調和の関係を結ぶことができるのでしょうか。ヨブ記はこのテーマと取り組み、そしてその答えを提示しています。人間と自然の融和を計るもの、それは世界に内在する普遍的な自然法ではなく神の契約であるということです。人間は世界の創造者であり保持者である神との契約の関係に固く立つこと、つまり義なる神を信じる信仰に生きることによって初めて、自然とも和(やわ)らぐことが可能になるということです。神と和らぐ時、そこに自然とも和らぐ道が備えられます。そして人間と自然とが和らぐ道は神の契約であり、この人間と自然との間に立って両者を繋ぐものはこの契約に基づく法則なのです。

 これが超越者である神の意志の啓示であり、これを自らの切実な苦い経験を通して知ることが真の知恵、真の分別なのです。ここに出て来る規定、法律、道、掟という言葉はヨブ自身の言葉ではありません。28章の知恵の賛歌及び38章からの神の呼び掛けの中に出て来ます。この法則の知識を神秘なる知恵としてヨブは切に求めていたのです。このことを知ることが、「何故」と神に問い続けたヨブの切なる願いだったのです。最後に神の前に塵をかぶって悔い改めたヨブはこの知恵にまで立ち帰ることができたのです。

 ヘブライ思想において自然の法則と人間の法則を全く別のものとして分離して考えることはしません。自然の変化に法則があるように人間の心の動きにも法則があり、それは皆天地創造の神から出ています。このことを自らの苦い経験を通して知ることが知恵であり分別なのです。嵐を静め風や湖さえ従えたイエスの奇跡物語も、創造の神と自然そして人間との間の契約に基づく直接的な関係を前提とした時に初めて、神は自らの救いの業を行うために人間や自然に対して直接働きかけるということを知る知恵が与えられる、と読むことができます。

 さて、日本では自然はどのように考えられているでしょうか。大体において自然は人間に対して温かく優しく微笑んでいるのではないでしょうか。自然も人間も根本において同質であり、そこには険しい対立とか相克は感じられません。日本においては全てのことが自然化されます。自然を客観化するよりも自然を人間の中に取り込むか、あるいは人間が自然の中に溶け込むという、自然と人間との融和合一の関係にあると言えます。

 しかし、今、私たちは圧倒的な自然の力に打ちのめされています。今度は私たちの番です。私たちも、今、自らの切実な苦しい経験を通して真の知恵を求めています。塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めて、真の知恵に立ち返り、天地創造の主の契約に結ばれる者として歩むべき道を見出し、新たな出発をする者でありたいと願います。

20111016日礼拝説教)

 
 
<説教集インデックスに戻る>


Copyright (C) 2004 Shinanomachi Church. All Rights Reserved.