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 2011年9月11日 礼拝説教 【地の塩・世の光】 笠原義久

マタイによる福音書5章13~16節

 主イエスは、「あなたがたは地の塩である」また「あなたがたは世の光である」と語りかけます。「地の塩となりなさい」というのでもなく、また「世の光となるべきだ」というのでもなく、「あなたがたは、今やすでに地の塩であり世の光なのだ」と宣言するように語りかけています。

 「地の塩・世の光」とは、語りかけられているキリスト者、また教会の使命、あるいは存在理由に関わることです。使命であり任務でありまた存在理由である限り、確かに命令を内に含んでいます。しかしここに語られているのは命令以上のことであると思います。

 マタイは、塩と光ということで一体何を言わんとしているのでしょうか。

 塩のもっている「味付けをする」「浄める」「保存する」という三つの主要な機能は、旧約聖書のいろいろな箇所を引き合いに出さなくとも、私たちの日常生活においてもよく認められているところです。しかし「塩」ということで、旧約聖書がもっとも中心的に指し示しているのは、神の契約、より端的には律法のことです。マタイの教会は、自分たちが受けている迫害の中にあって、自分たちを塩として理解していました。イスラエル宗教の要とも言える律法、すなわち塩を自分たちに当てはめ、しかもイスラエルの塩とは全く異なる新しい塩として、自分たちの存在をイスラエルから区別したのです。

 この新しい塩が、イスラエルから区別される唯一の特質とは何か ― それは彼らが主イエスに服従する、従う群れとしてある、すなわち主イエスの弟子としてあるということです。イエスに単純に服従する者・弟子として在る以外に、その在りようはない。あなたがたは、その存在のすべてをあげてイエスの弟子なのだ。「あなたがたは地の塩である」。これは教会に対する宣言であり、また慰めと祝福の語りかけなのです。

 しかしこれに続いて、重大な警告の言葉が記されていることに、私たちは十分注意しなければなりません。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」。元のギリシア語に忠実に訳すなら、「もし塩がダメになったら、何によって味付けされようか」。塩気のない塩、ダメになった塩、とは少々不可解な表現です。ユダヤで一般に使われていた塩は、純粋な塩というよりは古くからの植物・鉱物などが混じり合っていたので、桶などの中に長く置いておくと、含有物が腐敗して使いものにならなくなった、そういう塩のことである、という説明がなされています。いずれにしても、ここでは物質的ないし化学的な変化それ自体が問題となっているのではありません。

 塩すなわち主イエスに服従する弟子であること ― その弟子としてのあるべき姿が失われ、使いものにならなくなってしまうこと、弟子であることの内的な本質が変わってしまうことがあり得ること ― そういう危険が塩には避けがたくあるのだ、という警告として読むことはできないでしょうか。

 それでは弟子としてのあるべき姿を失うとは、どういうことでしょうか。塩が実際に役立つためには、塩は溶けなくてはなりません。存在自体を失うことです。それは塩の三つの主要な機能すべてに妥当することです。また塩は先ほどの塩桶に入ったまま腐敗してしまう塩ではありませんが、塩桶から外に出されなければ何の役にも立ちません。それと同じように、イエスの弟子は、その弟子としての本質を失わないためには、塩桶から出て、自らを溶かさなければなりません。自らを保とうとすること、私たちが、また教会が自らの純粋性に固執し、それを保とうとすること、自己保存しようとすること、しかしそれが逆に弟子たることの喪失につながるのだ。「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」、主イエスはそのように警告しています。



 さらに主イエスは「あなたがたは世の光である」と語りかけられます。

 「世の光」というのは、塩と同様、ユダヤ教でもよく用いられていた言葉です。神は光です。イスラエルも光と呼ばれています。神の啓示である律法も、また神殿も光と呼ばれます。もっと時代が進むと、ユダヤ教のラビの中でも特に優れたラビは「イスラエルの光」と呼ばれていたと言われます。イエスの弟子たちは、このような律法の最高権威者たる偉大なラビに取って代わる者として、世の光と語りかけられています。マタイの教会は、塩と同じように、「世の光」として呼びかけられる者として、自分たちを理解していたのです。

 主イエスとほぼ同時代、死海のほとりにエッセネ派あるいはクムラン宗団という律法に非常に厳格なユダヤ教の一派が存在したことが知られています。このクムランというグループは、「光の子ら」と自称し、禁欲的で、律法に極端に厳格な共同生活を営んでいました。日常の生活の場から荒野に逃れ隠遁する中で自らを「光の子ら」としたクムランと、マタイの教会との決定的な違いはどこにあるのでしょうか。それは、マタイの教会が、クムランのようなこの世から隔離され遮断された生活領域、いわば聖域においてではなく、まさに世俗のただ中、しかもイスラエルによる迫害のただ中にあって、自らが「世の光」として語りかけられている群れとして、鮮明な自覚を持っていた点にあるように思います。これに続く「山の上の町」という言葉からも、そのことは明らかです。「山」というのは、マタイの教会にあっては「教会」、自分たちの小さな群れの教会を意味します。山の上の町、それはもはや隠れたままでいることはできない。イエスの弟子である群れは、神から受けた賜物を、自分自身の内にしまい込んで世から隠そうと願っても、それは許されない。そのような存在である、すでにそのような存在とされているのだ、と語りかけられています。

 しかし聖書は、光という存在のもつ意味をもっと私たちの身近な生活に近づけ、私たちの日常生活の親しい関係の中に、親しい雰囲気の中に、私たちの問題が実は置かれているのだと語ります。それは「家の中のあかり」というイメージです。一家族一部屋の窓のない小さなユダヤの家の中、その家の中のものをくまなく照らす「あかり」、そのあかりに弟子たちは喩えられています。けれども塩の場合同様、光が光であるのは、自らを燃焼させることによって始めて光となることを忘れてはならないでしょう。自らを燃焼し尽くすことによって光は始めて光と言えるのです。自らを留保し、自らが属する本当に親しい小さな日常性の中で自らを燃焼させないとき、その時主イエスの弟子は、やはり弟子としての本質を失いつつあるのだと言われているのではないでしょうか。



 ここまで聖書から聴いてきて、まだ十分に語り尽くしていないことがあります。それは、そもそも主イエスの弟子とは何か、どういう存在なのか、ということです。弟子であることの特質は、一言で言えば、主イエスに服従する、単純に従う群れであるということです。

 イエスの最初の弟子たち ― 「私についてきなさい」という主イエスの招きに対して、直ちに網を捨てて、イエスに、本当に単純に、一見愚かしく思えるほど向こう見ずに従ったガリラヤの漁師たち ― これが紛れもなくイエスの弟子の原型です。イエスの人格と出会い、その真実に触れ、「いっしょに生きていこう」と招かれたとき、従って行かざるを得なかった ― 自分一人でことを計画し、実現していこうとする場合とは全く異なったあり方の決断へとどうしようもなく動かされた。服従とは、実に主イエスの真実が呼び起こした必然的な人格的応答であると言えるのではないでしょうか。私たち一人一人は、このような服従へと動かされた、イエスの真実に触れ、その人格にうたれ、この方に従うことへと突き動かされた、そのような者たちです。

 イエスの真実 ― それは、この世界がどんなに混迷の中にあり、矛盾や問題に満ちているとしても、それは絶望に、虚無に委ねられているのではなく、この世界のただ中に、すでに神の支配が始まっている。今やこの新しい事態にふさわしい生き方がなされねばならない。あの覆いかぶさる罪がいつまでも赦されることがないかのように、死の支配が、闇の力が大手を振って歩き、一切の光を閉ざすようなあり方が許されるかのように ― そのように生きるべきではない。これが主イエスの真実であり切なる招きです。このイエスの真実だけで生きていける、他のものは最終的には何一つ要らない ― これが主イエスの弟子が立つことができる、否、立たねばならない一点です。



 「あなたがたは地の塩、世の光である」「あなたがたは、すでに私の弟子である。私への服従に、私への真実だけで生きていけるという一点に立っている者である」。 ― ここには、自分たちは到底できそうもないことを、敢えてしなさい、あるいは、もしかしたらできるかもしれないことを「するように」という命令はありません。ここには、「あなたがたは、今やすでに、神の支配が近づいているというあの福音によって生かされている者である」という憐れみの語りかけがあるのみです。太陽が新しく日毎に昇り、あなた方が新しいいのちを与えられていると同じように、あなたがたは日毎に、神の支配がすでに始まっているというあの喜ばしい音信の中に置かれ、それによって生かされているということ以外に、あなたがたのあり方はないのだ ― 「地の塩・世の光」とは、このような語りかけです。



 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。この偉大な直説法、慰めと憐れみ、そして祝福の宣言を、今朝は畏れつつ共に聴きたい。神の国の約束の中に身を置き、繰り返しこの約束を語りかけてくださるお方に従って生きることへと招かれている事実を喜んで受け入れたいと思います。しかし、同時に、従うことができないならば、自らをあくまでも保存し、自らの光を輝かそうとするなら「ダメな塩として、役立たずなものとして捨てられる」との警鐘に耳を塞ぐことも許されないでしょう。



(2011年9月11日礼拝説教)
 
 
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